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南海の王女に雪が降る(15)

「モリオンちゃん……あなたって子は……!」

「これはずして!」



 がっくりと力が抜けて、バスタブの縁にもたれかかってしまう。

モリオンちゃんは無邪気な顔のなまま、バスタブで縛られた手足をじたじたとさせた。



「……そうしてあげて」



 もはやバスタブの中に吊るしておく必要もない。

トパースが苦笑しながらモリオンちゃんを解放した。



「しかしすごいわね……。さっきまで仮死状態だったのに、もう食欲があるなんて」



 おそるべき健啖さだ。口から先に産まれてきた子に違いない。



《あー、理由があるんだ。インスリンはな、体温が30度以下だと機能しないんだ》



 呆れた声を出しながらも、タヌタヌはモリオンちゃんを弁護した。

 


(インスリン?)

《糖の吸収を調整するホルモン》

(どういうこと?)

《つまり細胞に糖を吸収できない状態がずっと続いてて、エネルギー不足になってるんだ》



 体内のホルモンまで働かなくなるとはすごい話だ。低体温がそんなに恐ろしいものだなんて。



《どっちにしろブドウ糖を即補給しないとダメだ。あとビタミンCとクエン酸》

(えーと、つまり甘酸っぱいもの?)



 栄養学には不案内なのだが、とにかく字面でそれっぽい味を想像した。



《固形物はダメだぞ。低体温でイレウスを起こしてるはずから一応な》

(イレウスって何?)



 さっきから専門用語ばかりちょくちょく出てくるのは勘弁してほしい。



《腸閉塞のことだよ》

(ちょ、腸閉塞!?)

《低体温だと腸の運動も止まって塞いじゃうんだ。一応、トイレに行くかガスが出るまで流動食だ》



 代謝が低下するとは聞いていたが、まさか内臓の動きまで止まるとは思わなかった。

仮死状態というのは決して誇張した表現ではなかったらしい。



(……良く今こうして生きていられるわね!)

《俺もそう思う》



 改めて感心してしまう。

たまたま冷たい海に落ちて、たまたまタヌタヌがいたから何十分も呼吸が止まっていたのに蘇生できたのだ。

悪運が強いとしか言いようがない。



「食べさせて良いのでしょうか?」

「そうね……お茶にたっぷり蜂蜜を入れてあげて。あとマーマレードも嫌ってほど溶かしてね」



 不安そうにするベリルに、とりあえずカロリーが高そうな組み合わせの飲み物を支持する。

ビタミンCやクエン酸が豊富な新鮮な柑橘類などこの最果ての地で臨むべくもないから、保存食のマーマレードくらいしかないだろう。

胃もたれしそうなドリンクメニューを指示されて、ベリルは苦虫を嚙み潰したような顔つきになった。



「あの、お嬢様」

「なに? どったのトパース?」

「お召し物が……」

「あ」



 トパースに言われるまで気づかなかったが、上着もスカートも濡れねずみの砂だらけだ。

海に落ちたモリオンちゃんの服を砂浜で脱がしたり、ここまで運んだり、風呂場で温めたりしてるうちに汚れてしまったらしい

肌着までしみ込んでいて、意識したら今頃急に寒くなってきた。

何かに必死になると自分の体のことが気にならなくなるものらしい。



「あはは……。着替えてくることにするわ」

「ご一緒します」

「あ、良いわ。自分でやるから。モリオンちゃんを見ててあげて」



 流石にまだ立ち上がるのは難しいようでぐったりしているモリオンちゃんに小さく手を振ってから、部屋まで着替えに戻ることにした。

脱衣場を出ると、こっそりタヌキもついてきた。



「何? 着替えをのぞきに来たの?」

《違うわ。俺も自分のベッドで休みたいんだよ》



 流石にタヌタヌも疲れた様子で、軽口にも元気がない。



《腹が減ったな》

「私もよ……」

《分厚いステーキが食いたい》

「タヌキのエサにするには上等過ぎるわね」

《あんだと?》

「あー……すぐ食べられるものね」



 軽く何か口にしたい気分だが、こんなことがあった後ですぐに自分の食事の用意をさせるのもなんだか気が引けた。

保存食か何かつまめるものがないか考えたところで、ぱっと良いものを思いついた。



「モルガナに焼き栗もらってきてあげるわ。あの子自分の部屋にたっぷりと隠し持ってるんだから」

《……なに?》

「だから栗よ。大好物なんだって。1キロくらいまとめて焼き栗にさせて、毎日大皿でたくさん食べてるの」



 タヌキが急に足を止めたので、私も慌てて振り返った。



「どうしたのよ?」

《栗をバクバク食ってた?》



 タヌタヌは一瞬だけ難しい顔で考えこんだのち、かあっと背中の毛を逆立てた。



《もしかしてそれって、小さくて甘皮がすぐ剥けるタイプの栗か? そう、例えば天津甘栗みたいなやつ!》

「ええ、そうよ。良く分かるわね」

《…………》

「この間みんなで食べたのよ。おいしかったわ」

《お前、それをずっと俺に黙ってたってのか!?》

「別に隠してたわけじゃないわよ。あなたモルガナの部屋になかなか行かないでしょう」

《あー……》



 タヌタヌは、地団駄を踏むようにその場で短い脚をばたばたとさせた。



《もう! バカバカバカ! みんなどうしてこう、バカばっかりなんだ!》



 突然興奮しだしたタヌキにこっちが面喰ってしまう。

……そんなに栗が食べたかったのか?



《どうしてすぐ俺に言わねーんだよ!》

「男が食べ物のことでうだうだ言うんじゃないわよ、みっともない!」

《俺だけ栗を食い損ねたから怒ってるんじゃねーよ! ……いや、それもちょっとはあるけれど》



 あるんかい。

怒りが45%、呆れが55%くらいの感情を配分した顔でタヌタヌは天井を仰いだ。



《それでようやく分かった! ヒントが一本につながったぞ!》

「何のこと?」

《何が起こってたのか、今! 分かったぞ!》

「んん?」



 一人で何かを納得したかのように、タヌタヌはふるふると顔を横に振り始めた。



「何が分かったってのよ?」

《モルガナの骨が痛む原因!》

「え?」

《忘れたのかよ! 腰や肩が痛んで、歩けなくなったくらいだったろ!》



 そういえばそうだった。

モリオンちゃんが海に落ちたことで頭がいっぱいになっていたが、もともとはそのことで悩んでいたのだ。



「何が原因だっていうの?」

《全部だよ!》



 苛立たし気に歯を剥き出しにしながらタヌタヌは吐き捨てた。



《あの王女様がしてること、その全部が原因だ!》

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