南海の王女に雪が降る(14)
「おかえりなさいませお嬢様……きゃあ!?」
領主館で出迎えてくれたトパースは、私の腕の中で死にかけているモリオンちゃんを見て悲鳴を上げた。
「お風呂よ! お風呂を沸かして!」
悪いが今、侍女を気遣う余裕なぞない。
足早に浴室の方へ向かいながら早口で命じた。
「お、お風呂!? 何があったんですか!?」
「海に落ちたの! 凍えて死にかけてるわ、とにかくお湯を沸かして。ほら早く何してるの!」
主人が土気色をした女児の死体を抱えて帰ってきたら混乱するのも無理はないが、ここでパニックを起こされては時間の浪費だ。
説明もそこそこにとにかく強権的に命じると、顔を白黒させながらのろのろとトパースは動きだした。
「急いでお湯を沸かして45度にして! あと人手がいるわ。誰かその辺の人に頼んで、手が貸せる近所の人をみんな連れてきて!」
「は、はいぃぃぃ……!」
その場は涙目のトパースに任せて、タヌタヌを連れて脱衣場を抜け、浴室へ入る。
ユニットバスなんて高級な代物はこの世界にはもちろん存在しないから、タイルの上に浴槽が置いてあるだけの質素な浴室だ。
陶磁器でできた猫脚の曲線を描くバスタブだ。金髪の外国の女優がサービスシーンで半身浴してる例のアレである。
別の場所でお湯を沸かして注ぎ、入って冷めるたびに沸かしたお湯を注がなければならない不便なものだが、今はこれに頼るしかない。
(お湯は隣のボイラー室で沸かしてから持ってきてくれるわ)
《よし、バスタブに寝かせてタオルを被せて体を覆え。その方が熱効率がいい》
(全身を漬ければ良いの!?)
《待った、手足はお湯から出すようにするんだ》
(はあ、なんで? 手足もあっためた方が良いでしょ?)
《末梢血管を急に加温すると手足を保護しようとしてそっちに血流が集中して、急に血圧が低下してショック症状が起きることがある。再加温ショックってやつだ》
思わぬ注文だった。
モリオンちゃんの小さな体は狭いバスタブの中でもすっぽり収まるから全身を浸すのは簡単だったが、手足だけ出すとなるとちょっと工夫がいる。
ちょっと迷ってから、細い手足を軽くバスタオルで縛ってからもう一端をバスタブの足に結わえ付けた。
全裸のモリオンちゃんがはまるで狩りの獲物のように、両手足を縛られた格好で浴槽の底に寝かされる形になった。
ほとんど猟奇事件の光景だな、と思いながらその体の周りに隙間がないようにバスタオルを敷き詰めた。
「お、お湯です! お申しつけ通りに45度です……!」
「ありがとうトパース。すぐに入れてあげて、ゆっくりとね!」
トパースが持ってきたタライのお湯は正確に命じた通りの温度になっていて、直接手を入れるのが難しいくらいだった。
ゆっくりと浴槽の中に流しいれる。
半身浴の要領で胸まで覆われたバスタオルがどんどんお湯を含んでいった。
しかしモリオンちゃんの体は完全に冷え切っていて、この程度ではとても温まりそうにもなかった。
「こ、これで助かるのですか……?」
「じゃんじゃん沸かしてちょうだい、これからは時間の勝負よ!」
「は、はいぃ……!」
トパースが引っ込むのと、歩いて作業場から帰ってきた奥様方が浴槽に顔を見せた。
「お湯を沸かすたびにバスタブに注いで! その前に冷めたお湯を捨てるのを繰り返すの。とにかく体を温め続けて!」
パネル管理のユニットバスならばずっと保温し続けていられるからこんな手間はかからないのだが、今は他に方法がなかった。
奥様方は心得た様子で、さっと隣のボイラー室に走ったりバスタオルの替えを用意したり、てきぱきと動き始めてくれる。
「ぼ、ボクたちは何をすれば……!?」
続いてぞろぞろと、マダマさまを先頭に作業員たちが脱衣場に入ってくる。
「アンタたちは邪魔だから出て行きなさい! 女の子がお風呂に入ってんのよ!」
「分かりました!!」
蜘蛛の子を散らすように、一目散に男どもは退散していった。
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冷めたお湯を手桶で捨てて、また新しくお湯を注ぎ直す。
その作業は3周目に入っていた。
しかしバスタブの中のモリオンちゃんは目覚めるどころか、まだ呼吸すら戻っていない。
だんだん胸の中の希望は輝きを失い始め、背筋の方から暗い不安がはい寄ってきた。
「本当に大丈夫なの、こんな長い時間呼吸してないのよ……?」
もう海に落ちてから1時間以上は経っているはずだ。
そんなに長い時間息が止まっている人間がまた蘇生するなんて話は、私の常識にはなかった。
《体温が低下して全身の代謝も下がってるんだ。脳も内臓もほとんど酸素交換してないから大丈夫……のはずだ》
「はず、って何よ!」
《そんなこと言われたって、保証なんかできるはずないだろ!》
タヌタヌが苛立たしそうに、浴槽のタイルの上で足を踏み替える。
彼の言う通りなのだが、モリオンちゃんが一向に回復の気配を見せないので私としても心が急いてしまってしかたがないのだ。
《脈は?》
「……まだあるけれど、やっぱり細くて遅いままよ」
そっと首筋に指を伸ばして触れる。
少し時間を要して、触れるか触れないかのか細い血流を確認する。
さっきから何度も確かめているのだが、ほとんど自分を安心させるためだけにやっているようなものだ。
土気色の肌もそのままだし、とてもモリオンちゃんが快方に向かっているようには思えない。
(結局このまま意識が戻らなかったらどうしよう……!)
やきもきするばかりで成果が見えないというのが、どうしようもなく不安を助長させてくる。
一人相撲を演じて死体をいじくりまわした私が立場を失うだろうが、それはどうでも良い。
親であるオーソクレース村長や、生産部長のお母さんに何て言えばいい?
仲良し姉妹の一人が水死するなんて現実に、シトリンちゃんとフューメちゃんの心は耐えられるだろうか?
……やるせない気持ちばかりが胸の中から湧き上がって来て、イライラして自分の頭をかきむしりたくなった。
「ああもう……なんとかならないの!?」
《だから俺に言ってもしょーがねーだろって!》
『ぶすっ』
……ん?
苛立ち紛れにタヌタヌと言い争っていると、妙な破裂音が聞こえてきた。
不思議と耳に残る、小さな空気が震える音だ。
「……あなた今、オナラか何かした?」
《……お前がしたんじゃなかったのか?》
……ということは。
「――――――!!」
弾かれたようにバスタブの中をのぞきこむ。
モリオンちゃんの小さな鼻の前に指をかざす。
ほんの1、2秒が随分と長く感じられて。
すうっと私の指先に冷たい空気の流れが感じられた。
ついでに鼻の中に詰まっていた粘液が押し出されて、鼻の穴から小さく吹き出る。
「息した!」
《ナニ!?》
「今、ちょっと息が戻ったわ!」
《見せて見せて!》
じたじたと短い脚でバスタブの側面をかきむしっているタヌキを抱え上げた。
「ほら、鼻から泡噴いてるわ!」
《……自発呼吸が再開した! 代謝が上がって来てるんだ!》
ついさっきまで苛立ちをぶつけあっていたことなんか頭から吹き飛んで、私たちはバスタブの前で抱きしめあった。
「これって回復してるのよね!」
《もちろん!》
「お湯、次のお湯を早く!」
そういえばいつの間にか真っ白だった唇は紫色になっているし、生気のなかった頬にもわずかに赤みが差している。
体温が上がってきているのだ。
にわかに不安は影も形もなくなってしまった。
私はタヌタヌを放り出すと、新しいお湯を張り直すべく手桶でバスタブの中のお湯をかき出し始めた。
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その後の変化は劇的だった。
みるみるうちにモリオンちゃんの血色は良くなっていき、私はますます熱心にバスタブのお湯を張り替え続けた。
「し、信じられません……!」
金ダライに張ったお湯を運んできてくれたベリルなんて、ほとんど呆然としていた。
「海に落ちてずっと息が止まっていたのに、まさか蘇生するとは……!」
警護官であり軍人である彼女は徹底的な現実主義者だ。
もう助かるはずがないと内心では諦めていたのだろう。
「私もまだ半分くらい信じられないわ」
「あんなに長時間海に沈んで息を吹き返したなど、今までに聞いたことがありません」
確かに彼女の言う通り、もしかしたら呼吸停止から蘇生した時間の世界記録かもしれない。
低体温症という概念のないこの世界に限っての話で、そんな記録を誇っても何の意味もないのだが。
「殿下がかかった熱病の特効薬を作られたり、囚人たちの大量死の原因を突き止められたり、レセディ嬢の博学ぶりには驚かされるばかりです!」
「やだもう、大げさよそんなの」
大仰に褒められては照れるしかないではないか。
「……いったいどこでそのような医術の見分を広められたのです?」
「うっ!?」
痛いところを突かれて声に詰まった。
敬意のこもったまなざしを向けてきていたベリルだが、ふと不思議そうに眉をひそめてくる。
確かに彼女の言う通り、この世界で女子教育といえば貴族社会で生きていくための教養を深めるためのものばかりで、医学なんてものは完全な男の社会だ。
私も伯爵令嬢としてこの国では最高ランクの王立学園に所属してはいたが、もちろん応急処置や蘇生術のカリキュラムなんてあるはずもない。
(……しまった、もしかして私のことを疑ってる!?)
確かに不自然といえば不自然なのだが、まさかタヌキからカンニングをしているなんて言えるはずもない。
「そ、そうね。確か王立学園の図書館で読んだ本に書いてあったのよ! 外国語の医学の本でね……」
「ほう。そのような書籍まで収蔵しているとは、流石は王立学園です」
「ええ。なんたってこの国で最大クラスの蔵書数の図書館ですもの!」
「私も殿下のお側でお仕えする以上、役に立つかもしません。 次に王都に戻った時に学んでみることにしましょう。なんという題名です?」
「うぇぇ……!?」
下手なごまかしは完全にヤブヘビだった。
クソ真面目な警護官はますます食いついてくる。
「そ、その話は後にして! 今はモリオンちゃんを助けるのが最優先でしょ!」
「確かにおっしゃる通りです。失礼しました」
強引に叱り方だったが、ベリルは素直に自分の意を引っ込めた。
モリオンちゃんを気遣うふりをして誤魔化そうとしてバスタブの中をのぞきこむ。
もう息ははっきりしていて、脈拍も通常より多少遅いくらいには回復している。
しかし、意識だけは戻らない。
(……まさかこのまま目が覚めない、なんてことはないわよね)
ぞっとする想像が脳裏をよぎった。
体だけは生きていても、脳の中がどうなっているのかCTスキャンもМRI検査もできない私たちには想像するしかない。
《分からん。代謝系は低体温ではほとんど予後不良はないはずなんだが、無呼吸の間に脳にダメージがないとは……》
タヌタヌも同じことを考えていたらしい。
喋り口こそ冷静だが、重々しい語気で返ってきた。
《一度お湯から上げて体温を測った方が良いかもしれない》
(良いの、そんなことして?)
《もう復温開始して90分くらい経つよな? 順調に行ってれば体温も35度近くまで上がってるはずだ。上がり過ぎるのも良くない。様子を見よう》
(……分かったわ)
モリオンちゃんを引き上げる前に、手足を縛ったタオルを外そうとしたとき。
「……?」
腕を伸ばそうとしたとき、妙な抵抗があった。
不思議に思って、もう一度細い腕を握りしめると。
「あー……」
「!?」
今度こそ間違いなかった。
私が握りしめたのを嫌がるかのように手首が捻られる。
どころか、わずかに開いた唇からはうめき声さえ聞こえてきたではないか!
「モリオンちゃん!」
「い、今、動きませんでしたか!?」
「動いたわよ! ほら、しっかりして! 分かる、ねぇ!?」
にわかに浴室の中は騒然となった。
お湯を運んだりお湯を沸かす作業をしていた奥様方も駆けつけてくる。
「モリオンちゃん、聞こえる! ねぇ!?」
ぱちぱちと頬を張ると、ずっと力なく落ちていたまぶたが徐々に緩んできた。
苦しそうに頬と眉が歪んでいく。
浴室ですし詰めになったた全員が、固唾を飲んで女児の変化を見守った。
「うぅん……」
「モリオンちゃん!」
ついにまぶたが完全に開き、深く黒い瞳が顔を出した。
何事か理解できない様子で、いつも以上にぼんやりと目が浴室の天井をとらえていた。
皆が息を飲む気配がはっきりと耳にまで聞こえてくる。
私の方も涙ぐんで視界がぼやけてしまう。
「もう大丈夫よ、安心して! あなた海に落ちたのよ、覚えてる!?」
「……た」
「なに、どうしたの!? もしかしてどこか痛いの? 言ってみて!?」
「………………おなかすいた!」
その場にいた全員が膝から崩れ落ちそうになった。




