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南海の王女に雪が降る(12)

(し、死んでない……?)



 タヌタヌの言うことはとても信じられなかった。

ピクリとも動かないモリオンちゃんの体は青白く冷え切っていて、どう見ても生命活動をしているように見えない。

息をしていないし、意識もないどころか動かしても身じろぎどころすらしないではないか。



(そんなはずないでしょ、20分以上も冷たい海の中で溺れてたのよ?)

《溺れたんじゃない! よく見ろ!》



 訳の分からないことを言い出したタヌキは、またモリオンちゃんの口元でぴくぴくと鼻を動かしだした。



(……溺れてない?)

《水死した割りには鼻や口から微細泡粘液が出てない!》

(何それ?)

《溺れたらとにかく泡がたっぷり出るんだよ! 目にも溢血点が出てない! それに胸を叩いてみろ、胸を!》



 タヌタヌが短い前脚で指し示すのに従って、私はモリオンちゃんの胸に濡れた服の上から手を当てた。

ぽんぽんと叩いてみる。

別段変わった点もなく、児童特有の骨ばった薄い胸だ。



(別におかしなところはなさそうだけれど……)

《おかしいだろ》

(どこが?)

《溺れて肺に水が溜まって呼吸停止したんなら、肺の中にはたっぷり水が入ってふくらんでるはずだ!》

「あ」



 言われてみればその通りだった。

人間は反射で気管に入った水は吐き出してしまうが、溺死した場合はそれもなくなり肺や胃にいくらでも水が流れ込むはずだった。

なのに、横たえられたモリオンちゃんの胸もお腹も特にふくらんではいない。



《肺は成人の場合で最大5リットルも容積があるのに、何も変化がないと思うか?》

(パンパンになっててもおかしくないわ……)

《実際には肺は膨張してない!》

(ど、どういうこと……?)

《こいつは溺れて呼吸停止したんじゃないってことだ!》



 タヌタヌは力強く断言した。

体の所見から言えば彼の言う通りなのだが、しかし理屈に合わないではないか。



(バカ言わないでよ! どう見ても溺れてたじゃない! 海に沈むところ見たでしょ!)

《違う!》

(何がよ!)

《溺れて息ができなくなったんじゃない! 原因は海水の温度の方だ!》

(お、温度……?)

《偶発性低体温症!》



 水難事故と関係あるとは思えない響きの病名が出てきて、私の混乱はますます拍車がかかった。



(何それ?)

《海水に熱を奪われて体温が急激に下がったせいで、即時に脳も組織も仮死状態になったんだ》

(う、ウソでしょ? そんなことがあるの……?)

《ありうる! 特に幼児は体が小さすぎるせいで、冷水の中で即低体温ショックを起こすことがあるんだ!》



 『コップに入れたお湯と、風呂桶に満たしたお湯とどっちが冷めやすいか?』ということらしい。

確かにモリオンちゃんの小さな体がこの季節の海水に漬かったとしたら、すぐに骨身まで凍えてしまいそうではある。



(ど、どうすれば良いの……!?)



 にわかに私の体の体温の方が2,3度は上がった気がした。

まだ仮死状態だというのなら、かすかだが希望は残っているのかもしれない!



《呼吸と脈を確認しろ!》



 タヌキに指示に従って、私はモリオンちゃんの鼻先にそっと指を添えた。



(……やっぱり息してないわよ!)

《脈拍を測れ、橈骨動脈じゃなくて良い! 総頸動脈を使え》



 頸動脈ってことは首を押さえろということだろう。

手をずらして、細い女児の首筋に指を当てる。



《慎重に測れよ。 30秒以上時間をかけて測るんだ》

(わ、分かったわ……!)



 急に緊張してきた。

目の前のモリオンちゃんが助かるかどうかの判断は、私の指先の感覚に委ねられている。

きゅう、っと肺が縮んだようだった。



「主よ! あなたのみもとにお呼びになったクォーツ・モリオン=オーソクレースを、お約束通りあなたの王国へ受け入れてくださいますよう……!」



 だというのに目の前では、アメシス神父が臨終の儀式で何事かをぶつぶつとつぶやいている。



「かわいそうに……」

「まだ小さい子が」

「村長になんて言えば……」



 その上周りの人垣では涙ぐんだり、鼻をすすったり、哀れんだり、別れを告げたり好き勝手している。

ああもう、気が散って仕方がないではないか。

どこかよそでやってくれないかな!?



《どうだ?》

(ダメだわ、何も感じない。やっぱり脈ももうなくなって………………んん?)



 顔を見上げてきたタヌタヌに、ため息交じりに返そうとしたところで。



「ウソォ……!」

『?』



 思わず声に出てしまった。

周りからの視線が突き刺さったが、今はどうでも良い。

本当にか細く、うっかりすると気づかないレベルだが、指先に触れた皮膚の奥の向こう側で何かが動く感触があった。

脈があった。



(信じらんない……!)



 全身は冷たくなっていて、息は止まっているし、どう見ても事切れているのに。

平時の何分の一かのペースで、はっきりと心臓は脈打った。

生命とはなんとたくましいのだろう。



(まだ生きてるわ! ちょっと見た目からは信じられないけれど……。あ、また打った!)

《脈拍は3秒間隔くらいか。普段が分に100回として……五分の一程度になってるな》



 冷静に時間を測りながらも、タヌタヌは渋い顔をした。



《しかしまずいぞ……!》

(何がよ!)

《呼吸停止で、脈拍も五分の一ってことは……高度低体温症だ! 深部体温は多分25度以下になってる……!》



 25度。

とても人間が生きていられるとは思えない数字が出てきた。

ほとんどトカゲか何かの体温ではないか。



(これからどうするの!?)

《服を脱がせて毛布を巻いて断熱! とにかく火に当てろ!》

(了解!)

「全ての慰めの源である主よ、あなたは永遠の愛を以て……ちょ、レセディ嬢! 何やってるんですかあなたは!?」



 神聖な祈りを中断して、アメシス神父はツバを飛ばした。

何故かっていえば、私がモリオンちゃんの濡れた服を無理矢理に脱がし始めたからだ。



「臨終の祈りの最中ですよ!? 死に装束に着替えさせるのはまだ先です!」

「そんなもん着なくて良いわよ!」

「はぁ? 裸で埋葬する気ですか、バチアタリな!?」

「今、脈があったのよ!」

「えっ」



 誰もかれもが、モリオンちゃんはもう死んだと思い込んでいた。

動揺にざわつきはするものの、とても信じられないようで私を手伝おうとするものはいなかった。

無理もあるまい。私もタヌタヌに怒鳴ても半信半疑で、指先で脈をとってようやく確信できたくらいだ。



「そ、そんなはずないでしょ! 気のせいですよ、動揺しているんです! 死者の安息を妨げるようなことは……!」

「うっさいわね! 濡れたままだとますます体温が下がるから脱がせてんの! ほら、ぱんつ脱がすから神父様も手伝って!」

「ヒィ!? ご、ご婦人方のどなたか! レセディ嬢を止めてください!」



 モリオンちゃんのスカートをはぎとって下着に手をかけると、純情な神父は悲鳴を上げた。

海水で濡れてきつく締まったドロワーズに悪戦苦闘していると、涙目のモルガナが足を引きずるようにして近寄ってくる。



「レセディ、気持ちは分かるけれど……。 もう終わったことよ、静かに送ってあげましょう?」

「今、脈が触れたんだってば! ほら触ってみて! ここ、太腿の内側!」

「……何も感じないわよ」

「ほらまた、今脈が出たでしょ!?!」

「今のが? 気のせいじゃない? 動かしたせいで血が流れたとか……」


 

 寒風の中、下半身を裸にした幼女を挟んで私たちは顔をつきつけ合わせた。



「まだ死んでないの! とにかく体温が低くなりすぎたせいで、脈拍がすっごくゆっくりになってるのよ!」

「そんなの聞いたこともないわ……! 息もしてないし、ほら見て。黒目だって完全に開いてるのよ?」



 そっとモルガナがモリオンちゃんのまぶたに手を当てて開いた。

確かに眼球の瞳孔は散大していて、まるで死んだ魚のそれのように生気は完全に失われている。

この状態でまだ生きている、と説明されても信じる方が難しいのは分かるのだが。



「責任を感じているのかもしれないけれど、私たちにできることは盛大にお葬式を挙げてあげることくらいよ……」

「だー! もう説明が面倒くさいわ! この子は領主館に連れて帰るから!」



 ようやく残った下着も剥ぎ取って、私はモリオンちゃんの体を毛布で包むと抱き上げた。 

掘り返した地面と掘っ立て小屋のような休憩所しかないこの作業場ではろくな治療もできない。

とにかく村の中では他よりも設備が整った領主館に連れて行かなければ。

それも緊急事態だ。



「な、何を言っているんです! 私の教区の信徒を返してください!」



 モリオンちゃんを抱えて馬車へ向かおうとする私の前に、アメシス神父が両手を広げて立ちふさがった。



「レセディ嬢、冷静になってください! 死体をみだりにもてあそぶのは主の御心に反する行いです!」

「まだ死んでないって言ってんでしょ!? 坊さんの仕事は死んだあとなんだから、生きてる間は私に任せてちょうだい!」

「ご遺体は教会に……今は全壊になって再建中ですから、仮設の祭壇所に運びます! 神の家で葬儀の時まで静かに過ごさせるのが、聖典に定められた死者を扱う決まりです!」


 

 自分の使命感と良心を全く疑わない声色で、アメシス神父はお題目を並びたてた。



「そこどいてちょうだい! 一刻を争うのよ!」

「……皆さん、レセディ嬢は錯乱しています! 彼女の暴挙を、ご遺体への冒涜を止めてください!」



 歯噛みしたくなる。

この世界の常識で言えば、アメシス神父の言うことの方が正しいのだ。

私だって、この状態のモリオンちゃんが息を吹き返す100%の確証があるわけではない。

タヌタヌが生存を指し示した以上、わずかな可能性を信じて何かしなければと駆り立てられているだけである。



「……ちょっと、みんな! どうしたの、やめてよ! この子が助からなくてもいいの!?



 迷った顔をしていた作業員たちだが、声を張り上げる神父様に押されるようにしてじりじりと間合いを詰めてくる。

……どうする?

どうやれば上手くこの場を切り抜け、モリオンちゃんを治療することができる?



「――――――ッ!」



 答えを見つけるよりも早く、私の手からモリオンちゃんを取り上げるべく男たちの太い腕が伸びてきた。

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