1_11 眠りにつくまでの間
<<ひどい目にあった!>>
「ほらほら、暴れないの。拭いてあげるから」
とにかくもうやけっぱちでタヌキを石鹼塗れにしてからすすいで浴場を出る。
タヌキから出る汚れはすごかった。
灰汁のように汚れた水が浴場の床じゅうをひたひたにして、ブラシで洗い流すのが一苦労だった。
「あら、ずいぶんかわいらしい。本物は八丈敷きじゃないんだ」
<<見るなよ! タヌキの信楽焼のアレのことなら単なる金運のげんかつぎだよ!>>
純粋な学術上の好奇心から抱き上げて両足を開かせてみたのだが、タヌキにはお気に召さなかったらしい。
ぶるぶると飛沫をそこらに飛ばされる前にバスタオルをおっかぶせて、無理矢理水気を切った。
「置物のタヌキとえらくイメージが違うわね。フワフワのモコモコに見えてたけど、水で濡らすとやせっぽっちの犬と大して変わりないじゃない」
<<悪かったな。毛でふくらんで見えてるだけだ>>
「あのタヌキの置物って日本の伝統民芸なのに、実物のモデルとか見なかったのかしら?」
<<伝統っていっても、あれは明治時代に陶芸家が初めて作ったんだぞ>>
「マジで?」
拭いた後で、バスタオルにタヌキの臭いが移ってしまったことに後悔した。
メイドに言って焼き捨てさせるか、雑巾に加工してもらうことにしよう。
<<ついでに全国に広まったのは昭和の戦後になってからだ>>
「……さっきから思ってたんだけど、あなたそういう知識どこから仕入れたの?」
<<テレビのアニメで見て覚えた>>
「……。まあ言いたくなきゃ言わなくても良いわよ」
意趣返しのつもりだろうか。
機嫌が悪そうなタヌキに対して、私はつとめて事務的な話題を向けることにした。
「ところでタヌキの世話ってどうすれば良いの?」
<<とりあえず犬と同じで良いんじゃないか?>>
「ご飯は何をあげたらいい? 虫?」
<<できたらもうちょっと良いものを食わせてくれ。タヌキは雑食だから虫も食っちまうけれどさ>>
「もしかして食べたことあるの?」
<<思い出させないでくれ>>
タヌキが切なそうな声を出したので、私はそれ以上深く追及するのはやめた。
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使用人室から使い古しの大きなバスケットを貰ってきて、部屋に運ぶ。
納戸の端っこで見つけてきた、もう誰も使わない古い毛布を畳んで入れる。
バスケットごとベッドサイドのスペースに置いてできあがりだ。
「ほーら、良い感じでしょ? ここが今日からあなたのハウス兼ベッドよ」
<<生きて再び繊維の上で寝られるとは思わなかった>>
感慨の薄い口調でそう言うと、タヌキはバスケットの端をまたいで私手製の寝床に上がった。
「どんな感じ?」
<<……ふん、悪くないね>>
「他に何か欲しいものある?」
<<ロフトとハンガーラックがついてたらもっと良かった>>
減らず口を叩きながら伸びをしたタヌキは、毛布にアゴを乗せて寝そべった。
<<むっ>>
が、大きな尻尾が収まりきらずバスケットの縁から外に垂れてしまう。
<<……>>
もぞもぞと毛布の上を動いて、なんとか尻尾をバスケットの中に収めようとする。
が、太い尻尾が全部収まるまで前に出ると、今度は丸い頭が縁の外にはみ出してしまった。
<<……欠陥住宅だ!>>
「何やってるのよ、ぶきっちょねぇ」
<<尻尾は動かすのが難しいんだよ、もともと自分にないものは意識しないと……>>
ぶつくさ言いながらタヌキはなんとか体を丸めて、バスケットの中での落ち着くポーズを模索し始めた。
「でもあなたタヌキでしょう?」
<<あいにく感覚は人間の時に近いままでな。自分に尻尾があることも時々忘れそうになるよ>>
「そうなの?」
<<疑うのか? 信じてもらえなくたっていいが、俺は森の中で生きてた時も人としての誇りは失わなかったぞ!>>
「へー、例えばどんな風に?」
<<トイレの場所だって毎日同じところに決めてたくらいだ>>
「溜めフンってやつじゃないのそれ」
単なるタヌキの習性ではないか。
<<正直に言うとな、自分でもどこまでがタヌキでどこまでが人間なのか分からないんだ>>
ようやく落ち着くポジションを見つけられたようだ。
尻尾の上に鼻先を乗せながらタヌキはつぶやいた。
「怖いこと言わないでよ。まさか時々凶暴になって暴れたりはしないでしょうね」
<<さっきの質問にやっぱり答えようか。……人間に捕まる前のことだ>>
ぽつぽつと真剣な調子で、タヌキは語り始める。
<<切株の上にいたカブトムシを見つけたんだ>>
「そりゃ森の中だし、いるでしょカブトムシくらい」
<<ものすごくおいしそうに見えた>>
「まぁ!」
思わず驚きの声が漏れた。
<<自分の中にいるケダモノを押さえられなくなって……頭が真っ白になって無我夢中で……気が付いたら飛びかかってた!>>
「それは……。辛かったわね……」
<<口の中からカブトムシの足が出てきたんだ!>>
「苦い記憶を打ち明けてくれてありがとう」
体を丸めて震えるタヌキの背中を手のひらでぽんぽんと叩いてやる。
せめてものなぐさめになれば良いのだが。
「でも私の顔を舐めるのはやめてね?」
<<……今ふと思ったんだが、どう考えてもタヌキの脳じゃこんな風に過去を思い出したり複雑な思考するのは無理だよな?>>
両足で顔を押さえていたタヌキが、ふいに短い前足をよけて目を開いた。
人語を喋るタヌキという奇妙な現象の方にばかり気を取られていたが、言われてみればその通りである。
「タヌキの脳がどんなものか知らないけれど、多分ね」
<<一体俺はどこでものを考えてるんだ?>>
「私に聞かれても答えられないわよ」
<<アンタだってそうだろ。ある朝突然この世界が漫画で、自分が漫画の読者だったって気付いたって言ったよな。それまでは当たり前のように漫画の中のキャラクターやってたんだろ?>>
タヌキの疑問にうなずいて応える。
<<じゃあその日までものを考えていた、元の悪役令嬢とやらはどこいっちまったんだ?>>
考えだすと頭が痛くなりそうなことを言い出したぞ?
「えーとそれは……。どうなったのかしら……?」
<<明日目が覚めたらいきなり、自分がただのタヌキや悪役令嬢に戻ってたりしてたらどうする?>>
「寝る前にそういう怖い話するのやめてよ!」
<<自分のしていることに何の疑問も感じずにミミズを掘って食べたり、ヒロインをいじめたりしてたら?>>
「おかしな夢見そうなこと言わないで!」
まだ何か言いたげなタヌキを無視して、私は部屋の灯りを落とすとベッドにもぐりこんだ。
「お互いせっかく日本のことが話せる相手と会えたんだから、もうちょっとマシな話をしましょうよ」
<<確かに。こんなこと考えるだけ不毛な気がしてきた>>
「もっとこう……自分のルーツを思い起こすような話を……」
枕に顔を寄せて、何を話したものか考え込む。
が、気の利いた話題は出てこなかった。
『もし自分と同じ転生する前の記憶の持ち主と会ったら話したいこと』を妄想したことなど一度や二度ではなかったはずなのに。
こうして現実になると途端に具体的なことを思いつけなくなってしまった。
……諦めて、思いつく限りのことを口に出すことにした。
「お寿司食べたいわねぇ……」
<<食べたいなぁ>>
ちょっと間を置いて、のんびりした返事が返って来た。
「ラーメンももう一度食べたいなぁ」
<<食べたいなぁ。でも麺類なんか食えるのかなタヌキって……>>
「ドク●ーペッパーもまた飲みたいわ……」
<<俺は良いや>>
「何よ。あの味が分かんないの!?」
――――――それからはすごくどうでもいい話をした。
映画の好みだとか、修学旅行で行った場所とか、小学校時代に流行ったこととか。
具体的に何の話題をしたかも後から思い出せないくらい、とりとめのないことを喋りまくった気がする。
何の益にもならない会話で、決まりがつかないぺちゃくちゃとしたおしゃべり。
お互い好きなことを喋っては、ぼうっと黙り込んで相手の話を聞いているだけの寝る前のひととき。
だがそれは悪役令嬢になってから初めて味わう、ある意味で贅沢な時間だった。
どちらが先に寝入ってしまったのか。
喋り疲れた私たちは、いつの間にかお互いの寝床で深い眠りの世界に落ちていた。
続きは今夜夜八時ごろ追加します。