1_10 タヌキ流交渉術
<<助けてやろうか?>>
お説教の間どうやって気を紛らわすかばかり考えていた私は、いきなりのタヌキの声に戸惑った。
(えっ何?)
<<前を見て。何もないふりをするんだ>>
廊下の先で父親が不思議そうにこっちを振り返るのが見えて、慌てて彼の言う通りにした。
<<心配するな、やっぱり俺の声はあんた以外聞こえないみたいだ>>
(これっていったいどういう理屈なのかしら……)
<<分からんがとにかくこういう時は便利だろ?>>
(助けって、何をするの? 木の葉と幻術を使って父親を化かしてくれる?)
<<それはまた今度にしよう。確認したいんだがアンタの親父さん、おふくろさんとはラブラブ?>>
何を言っているのか、一瞬意味が分からなかった。
<<昼間から夫婦で抱き合ったり、その、仲良くしたりする?>>
(いいえ? まあ仲悪くはないけれど……普通の熟年カップルよ)
<<アンタやお母さんのドレスルームは親父さんとは別?>>
(もちろんそうだけれど)
いったい何が言いたいのか。もうすぐ父親の書斎についてしまうではないか。
<<アンタの親父さん、浮気してるぞ>>
「は?」
思わず声に出してしまった。
「どうした?」
「は……はくしょん!」
いぶかしむ父親をごまかすためにとっさにくしゃみのふりをした。
が、内心は穏やかでない。
下を向いたふりをしてタヌキを問いつめる。
(どういうことなの!?)
<<どうやら俺たちが帰って来るまでお楽しみだったみたいだ。服から女物の香水の匂いがプンプンして鼻が曲がりそう>>
(うへぇ……マジで?)
<<ついでに女の汗とか唾液とか……そのまあ体液の臭いもしてくる>>
なんてこったい。
前から欲深のごうつくばりだとは思ってたが、ここまで節操のない父親だとは。
愛人を自宅に呼ぶだけでも相当なのに、妻と娘が婚活している間に隠れてイチャつくか? 普通?
(あなたもしかして、すごく鼻が効くの?)
<<どうもそうらしい。タヌキは視力が低くて主に嗅覚で食べ物を探すんだ。これはイヌ科に共通する特徴で……>>
(ああ、そういうウンチクはどうでも良いわ)
タヌキの話をさえぎって、軽蔑を込めた目で父親の背中を見る。
正直この父に対して親子の情というものは乏しいのだが、それなりに長い時間を娘として過ごしているのだ。
はっきり言ってムカついていた。
お灸をすえてやらねば。
「入れ!」
書斎のドアノブに手をかけた父親は、傲慢な声で命じてくる。
……が、言う通りに私が動こうとしないので眉をしかめた。
「どうした? 何をしている」
「お父様、新しい香水でもつけておられるの?」
注意深く匂いを嗅ぐしぐさをしてみせる。
いかにもわざとらしく、大げさな演技で。
父親の表情がマネキンのように固まった。
(なかなか愉快ね、これは)
後ろ暗い復讐心を楽しみながら、更に説明を加えてやる。
「何故かしら……。私のではない香水の匂いがしますわ」
「き、気のせいではないか?」
「ええ、そうかもしれませんわ。何しろさっきから鼻の具合が良くないもので」
わざとらしく鼻筋を押さえる。
みるみる青くなっていく父親の顔が見ものだった。
調子に乗って更にかさにかかって攻め立ててやることにした。
「あら?」
「な、何だ?」
「どこでくっついたのかしら? お父様の首筋、誰かの髪の毛がついていますわ」
『毒蜘蛛がいる!』と叫ばれたかのように、大慌てで父親は襟や首元を払いのけた。
「どこだ!?」
「ああ、今動いたせいで床に落ちてしまいましたわ」
もちろんそんなものは元からないのだが、廊下の絨毯に膝をついて探すような真似を伯爵家の当主ができるはずもない。
が。内心大慌てで浮気の証拠を探そうか一瞬葛藤したのは、見ていてもはっきりわかった。
おぉ、なかなか楽しいぞこれは。
「誰の髪の毛だったのかしら……? 私とは長さが違うし、お母様のとは色が違っていましたわ」
「し、使用人の誰かのだろう。何かのはずみで落ちていたとか」
「ああ、もしかしたらお客様かも!」
ぱあっと明るい声で、私は最初から知っている答えを言い当ててみせる。
「留守中どなたか訪ねてこられた方がおられないか、後で皆を集めて聞くことにしましょう!」
「そ、そんなことをする必要はない!」
「いいえ、はっきりさせないといけませんわ。使用人の者たちの名誉にかかわることですもの」
「そ、そうか?」
「ええ。伯爵であるお父様の服に髪の毛をくっつけて気付かないだなんて、そんな不調法者が我が家にいるはずありませんもの!」
流石に父親も、私の様子がいつもとは別物であることに気付いたようだ。
低い声でおそるおそる尋ねてくる。
どうやら普段は人を威圧して従わせるタイプの人間ほど自分に弱みがあるときはもろいものらしい。
「……何が言いたい? どういうつもりだ?」
「実は私、戻りたいんですの。早く着替えたいし、このタヌキちゃんの寝床だって用意してあげないといけないし」
「……」
夫婦生活が破たんする恐怖と、予想外の逆襲をしかけてくる娘への怒り。
そのはざまで青くなったり赤くなったり、目まぐるしく変化する父親の顔は最高だった。
網膜に焼き付けておくことにしよう。
「具合の悪いお母様も心配だし、ね」
「分かった、もう良い。部屋に戻りなさい」
父親は苦渋に塗れた表情を一瞬したものの、ドアノブから手を離した。
プライドの高い父にとっては白旗を上げたに等しい。事実上の無条件降伏である。
バンザーイ! 勝利の日だ! エイドリアーン!!
「あと、この子はうちで飼っていいですよね?」
そう言ってタヌキを抱き上げる。
もう言われるままにうなずく以外の選択肢は、父親には残されていなかった。
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両手でタヌキを抱き上げたまま、上機嫌で廊下を戻る。
「あなたって役に立つのね!」
<<ようやく気付いた?>>
といいつつ、腕の中のタヌキは得意げに濡れた鼻を鳴らした。
「もうあなたはうちの子よ!」
<<ペットウェアだけは勘弁してくれよ>>
「でも首輪がないと野良犬と間違われて保健所に連れていかれるかもよ」
<<ヒェッ!?>>
そこで私は、今更ながらある重要なことに気付いた。
自分の部屋に戻るつもりだったが、きびすを返して屋敷の奥へと向かうことにする。
<<ところでどこに行くんだい?>>
「決まってるでしょ。お風呂よ」
<<おっ、おい! 今じゃこんな見た目だが、俺は男だぞ!>>
黄色い歯を見せて腕の中のタヌキは暴れ始めた。
「何勘違いしてるの、このスケベ」
逃がしはしない。がっちり捕まえてから浴場の戸を開く。
「入るのはあなたよ」
<<は?>>
「いくらなんでも私の部屋で飼うには臭過ぎるわ!」
その後、タヌキを徹底的に石鹼で洗うのが一仕事だった。
浴場全体が動物園みたいな臭いになった。
続きは明日の朝8時に追加します。