灰の底8
フォルケ神官こと孤独死コース直行先生はひどい。
次の日から、早速マイカ嬢の勉強が始まったのだが、いきなり私が教えることになった。特に祭事が迫っていない今、あの人の仕事って古代語の解読だろう。
紛れもなく神官業務のサボタージュだ。一度は終わった聖戦が再度発動してしまうぞ。
まあ、開戦派を押し留める有力な利点もあったので、聖戦はかろうじて回避された。
なにやら村長家から我が家に、そういうことになったという伝達があったらしい。
あの父が、本を読んでいると小言の嫌味を呟いているあの父が、仕事もほどほどに教会へ行って良いと送り出したのだ。
実に清々しい気分だ! 働く量が少なかったので、まだ頭が冴えている状態で、教えながらとはいえ本を読む時間を取れる。
マイカ嬢の立場を思えば気まずさはあるものの、些細なことだと笑い飛ばせる問題だ。
「と、言うことで、ひとまずやってみましょうか」
「う、うん、お願いね、アッシュ君」
マイカ嬢は相変わらず緊張しているようなので、私はとにかく笑顔で、柔らかい口調を意識して話しかける。
人の印象というのはほとんどが見た目で、残りが声の調子だ。会話の内容なんて印象によって変化されまくるので二の次三の次で良い。と、前世らしき記憶にある。
「勉強方法なんて人によって効果のあるなしが変わるらしいですが、ひとまず私が使った本から始めてみましょうか」
「アッシュ君も、使ったの?」
「ええ。最初にフォルケ神官……いえ、フォルケ先生からお借りした本です」
借りただけで教えてくれませんでしたけどね、あの先生(皮肉)。
私がマイカ嬢に差し出した本は、例の祭事用の聖句本である。フォルケ先生手製のありがたい写本だ。
マイカ嬢は本を受け取ると、感慨深そうに薄いそれを見つめる。
「アッシュ君が使った本」
マイカ嬢の眼差しには、意気込みがあふれている気がする。
彼女は今、読書へ至る一歩を踏み出したのだ。今までできなかったことに挑戦する昂ぶり、気持ちがわかる気がする。
巻き込まれた形で、乗り気とは言い難かった私も、そんな彼女の姿にやる気がもりもり出てきた。
「その本に書いてあるのは、フォルケ先生が良く祭事の時などに使う聖句の類です。聞いたことがある言葉なので、覚えやすいのではないかと考えて、私は使いました」
「そ、そうなんだ、すごいね」
「ただの思いつきですよ」
そこに感心されても困る。
そんなことよりサクサク勉強の方に入っていこう。
「最初に手をつけるのは、一番聞き慣れた言葉とか、親しみやすい言葉が良いと思います。好きな言葉とか、あります?」
「えっと、アッシュ君が、最初に覚えた言葉とか……」
「うん、これかな」
ものすごく初歩的な聖句だ。なにか良いことがあれば、ヒャッホー! くらいのニュアンスで使われる。
私は信仰心なぞ持ち合わせていないので滅多に使わないが。
「じゃあ、これにする。いい?」
「マイカさんがこれで良いなら、私は問題ありませんよ。では、一つ一つ覚えていきましょう」
まずは、「逞しき狼神」から教えてみよう。
音読しながら、該当する文字を指でなぞって、どの文字がどの音に対応しているかを見せる。
「ですので、この文字が『た』で、次が『く』、続いて順番に『ましきろうしん』となっています」
こんな教え方でわかるだろうか。
一緒に本を覗きこんでいる少女の顔をうかがう。すぐには無理だろうなと思ったが、やはりマイカ嬢はついてこられていないのか、ぼんやりした表情で私を見ている。
「一文字一文字いきましょうか。これが、『た』……マイカさん?」
「あ、う、うん。これが、『た』なんだ?」
「そうです、そうです。続けて、く、ま、し、き……狼神様は、とても健康で強い体を持っているそうなので、子供が生まれる時や力仕事をする時に、よくお祈りしますね」
一度に詰めこみすぎは良くないのでは、と関連した雑談を振ってみる。
すると、
「あ、逞しきって、そういう……」
驚いた顔で、驚くべきことが呟かれた。
そうか。そこから必要か。
私の感想と同じタイミングで、マイカ嬢の顔から血の気が引いていく。自分で口にしたことが、恥ずかしいことだと思ったらしい。
私は表情を変えないよう、かなりの気合いを必要とした。こんな顔をした子供を相手に、呆れた顔を見せたら傷つけてしまう。今の私は同い年の子供だけども。
上手くできたかわからないが、とにかく明るい声で、当たり前のつもりで会話を続ける。
「他にも、心や気持ちが強いことも、逞しいと表現しますね」
「そ、そうなんだ。えっと……」
「なんでも聞いてください。私でわからないことは、一緒にフォルケ先生に聞きに行きましょう」
わからないことが恥ずかしいと思ってしまったら、今後の勉強でも不都合が出そうなので、こちらも必死にフォローする。
「その……賢き、猿神様は?」
そのかいはあった。
マイカ嬢の方から質問をしてくれた。まだまだ恥ずかしそうだが、これを積み重ねていけば、わからないことを素直に聞ける関係になれそうだ。
「賢い、というのは、頭がいい、ということですね。こういう勉強をする時は、猿神様に、その頭の良さを少しでも分けてもらえるよう、お祈りするのが良いかもしれません」
「そう、なんだ。じゃあ、お祈り、しておこうかな?」
マイカ嬢は、まだぎこちないながらもはにかんでみせる。私も、それに微笑み返す。
良かった。思いのほか難関が多そうだけれど、何とかなりそうでほっとした。
この調子で、ぜひマイカ嬢にも本を読めるようになってもらおう。
フォルケ神官が古代語解読の話をした時もそうだけど、趣味の話ができる相手がいるのは楽しいものですからね。