伝説の羽19
その後は、隠れていた彼女に終わったことを告げて、子供らしく全てを大人へ丸投げした。
ジョルジュ卿に報告し、対応をお願いし、まあちょっとだけ手伝って、夕食を食べるなど平穏に過ごす。
幸い、軍子会の面々は、私とジョルジュ卿の動きに注目はしなかった。
明日には野営地を引き払って、また都市まで一日半の行軍訓練だと思えば、好奇心より疲労が勝ったのだろう。
陽が暮れて、それぞれのテントへと向かう皆の足取りは、かなり重そうだ。
私は、肉の残りを使って燻製を試みている。
本格的なものでなく、帰り道でつまめる程度のものになればと思っての作業だ。明日からまたあの干し肉と堅焼きパンかと思うと、多少の疲労を推してでもやってしまわねばならない。
工業力向上計画が進んだら――と私は決意をこめて夜空を見上げる。
工業力向上計画によって、容器加工技術がある程度の水準に達したら、保存食の開発に乗り出そう。
美しく輝く星々が、私の想いを祝福してくれているようだ。星に願いを、とは実にロマンがある。
ちょっと煙いけど。
燻製の香りと共に夜を見上げていると、彼女が静かに歩みよって来た。
「アッシュ、ちょっと、良いかな」
「ええ、もちろん」
かたわらに立つ彼女は、穏やかさと後ろめたさが混交した色を、その整った容貌に浮かべている。
今日、彼女の身に降りかかったことを考えれば、複雑な気持ちが湧くのも仕方ないだろう。
「場所を変えましょうか?」
「そうだね……。うん、アッシュが良ければ、その方が良いね」
「では、少し川原に涼みに行きましょう」
木々が開ける川原では、より一層、星の輝きが鮮やかだ。野営地では見えなかった月も、流れる水面を覗きこんでいる。
しばし、月を見上げて、沈黙を清水に流す。
彼女からは話しづらそうだったので、当たり障りない言葉を選んで、語りかける。
「月が綺麗ですね」
「うん、本当だね」
視覚情報の質素な表現に、彼女も簡素な肯定を返してから、言いづらそうに言葉を継いだ。
「……今、この月を見ていられるのも、アッシュのおかげだよ」
命の危機に対する感謝の念に、お気になさらず、と伝える。
「あなたはたくさんの手助けをしてくれる、大切な友人ですから」
「まだ、そう呼んでくれる?」
彼女の声音は、わずかな脅えもふくんでいる。
なるほど。自分を追いかけてきた刺客によって、他人も命の危険にさらされたのだ。
普通に考えれば、嫌われていないか気にもなるだろう。
でも、私にはそんなつもりは全くない。
「もちろん、いくらでも友達扱いしてしまいますよ。私は、あなたを嫌いになるようなことを、あなたからされた覚えがありません」
むしろ、好きになるようなことばかりされています。
そう笑うと、彼女は息を呑んで固まったかと思ったら、慌てて両手で顔を押さえて俯く。
「そ、そういうことをさらっと言わないで欲しいな。アッシュは、自分の言葉がどれだけ破壊力があるか、ちょっとは自覚した方が良いよ」
「そうですか? お会いした時から、日常の生活も、私の夢のお手伝いも、ずっと一緒にいてもらって、とても嬉しいです。そんなあなたを好きになるのは、自然なことだと思いますが」
「だっ、だから……っ」
顔を隠したまま、眼だけがちらりと私の顔色をうかがってくる。
「もう……!」
眼があったので笑いかけたら、なんだか怒られた。
どうやら、真っ直ぐ好意を伝えすぎたのが恥ずかしかったようだ。照れ臭い台詞ではあったと思う。
「まあ、とにかく、あなたが気にするようなことは何もありませんよ。あなたは、私に色んなことをしてくれました。今回のことはそのお礼です、それもほんのわずかのお礼です」
何度も思うが、好意には好意が返るべきだ。
私は、彼女に多大な好意を頂いたと思っている。
彼女自身は、命を懸けるほどのことはしていないと思っているかもしれないが、それは彼女の考えだ。
私の考え、私の基準では、今回の働きに値する好意を、十分に頂いている。なんだったら、これから得られる好意を計算に入れたって良い。
今世では、命がけなんて割と日常のことですしね。
だから、そんなに気にすることではないのだが、彼女の基準では、私の側の好意が多すぎるようだった。
「アッシュは、優しすぎるよ」
触れただけで傷つくような、柔らかすぎる声で、彼女は私に向き合った。
「こんな、なにもちゃんと言えてないのに、本当の名前も教えていないのに……嘘をついてるわたしに、嘘だらけのわたしに……っ」
彼女の眼から、涙がこぼれる。
一粒、こぼれたかと思ったら、次から次へとあふれて、小さな川のようになってしまう。
今まで、どれほどこの涙をこらえていたのだろう。
真面目な彼女は、周囲に嘘を吐き続けることに苦痛を感じていたのかもしれない。
我慢強い彼女は、本当の自分を偽らなければならない軋みに、必死に耐えていたのかもしれない。
好奇心旺盛な彼女は、本当にしたいことをこらえなければならない憤りを覚えていたかもしれない。
美しい月の下、彼女の涙が、止まらない。
そんなつらい光景を、私は直視していられなかった。
「私、嘘って好きですよ」
口をついて出た言葉は、目の前の現実に対する即興の悪口だ。
「だって、現実って辛すぎるじゃありませんか。貧しい村に生まれて、貧しい農民として暮らしていると、楽しいことなんてほとんどありません。明日も生きていこうなんて前向きな気持ち、現実からはちっとも得られません」
八歳になるまで、私は死んだように生きていたと思う。あの時の自分が、どんな眼をした人物であったのか。
想像には、羞恥と憤懣が、苦笑として滲んでくる。
「私が今、こうして生きていられるのは、嘘のおかげです。本の中の楽しくて優しい物語、つらいことも苦しいことも、必ず解決する都合の良い作り話にすがって生きて来られました」
あの日、本の朗読をしてくれたユイカ夫人には本当に感謝している。
あの日から、こんな現実のつらい今世でも、それなりに楽しくやれているつもりだ。
少なくとも、目の前で泣いている人をなんとかしてあげたいと願う程度には、私の人生は豊かだ。
「だから、あなたが嘘をついていることを、私はなんとも思っていませんよ。その嘘は、あなたが生きて行くために必要だったのでしょう」
その嘘は、責められるべき嘘でも、嫌われるべき嘘でもない。
「その嘘のおかげで、あなたが生きて来られたのなら、私は、その嘘が好きです。現実や、真実なんかより、よっぽど愛すべき嘘ですよ」
月下、涙を流し続ける少女は、今度は声まで上げて泣き出してしまう。
ダメでした。私の紳士レベルが足りな過ぎて、彼女を上手に慰めることさえできていない。
「あぁ、すみません。あの、上手い言葉も、言えなくて……」
打つ手がなくなって慌てだす私に、彼女はさっきより勢いよく涙をあふれさせながら、首を振る。
「ちが……うれ、しくて……きらわ、れて、ない……」
「もちろん、もちろんですよ。嫌うわけないじゃないですか。私の夢を助けてくれたあなたは、今までも、これからも、大切な友達ですよ」
「アッシュ……あり、がと……」
それくらいで良いなら、いくらでも友達になるので、そろそろ泣き止んで頂けると……。
逃げ出したくなる気持ちを抑えながら、何分、彼女の泣き顔を眺めていただろうか。
やがて、小さなすすり泣きまで落ち着いた彼女は、小さく、私を手招きする。
「はい?」
顔を寄せると、彼女は自分の顔が涙で濡れていることを思い出して、恥ずかしそうに泣き顔をそらす。
「あ、あのね……誰にも言わないようにって、注意されていたんだけど……。アッシュだけ、特別だからね、命の恩人だから……」
言い訳のような、口止めのような言葉を重ねて、私の耳元で、彼女はそっと囁く。
「わたしの……本当の、名前は――――」