灰の底7
行商人クイド氏の一件から、私が本を読んでいても父からの文句はなくなった。
なにやらぶつぶつ嫌味を言っているようだが、真正面からぶつけられない小言などないも同然だ。
また一歩、今世が暮らしやすくなって、私は非常に満足である。
そんなわけで、軽い足取りでフォルケ神官の下を訪れることができた。
「フォルケ神官、ちゃんとご飯を食べていますか?」
「お前さんは俺の嫁さんかなにかか」
子供に何を言っているのだこの人は。
尊敬に値する研究バカの体調を気にかけているだけです。あと、今世では同性婚は認められていない。
「なにを突拍子もないことを言っているのですか」
「アッシュがあれこれ小言がうるさいからだ。良い大人に口だしするなんて生意気だぞ」
「子供に心配されるご自分の管理能力を見直してから、大人だなんだと威張ってくださいね」
「相変わらず口の回る奴だな……」
前世らしき記憶を合わせれば、確実にフォルケ神官の年齢を上回るのだから、さもありなん。
「それで、解読はいかがです?」
「いやぁ、それがさっぱりだ。一文字も解読できん」
そう言いながらも、フォルケ神官の表情は晴れやかだ。
鬱屈していた冬の頃と比べれば、今は研究に手間取ることさえ楽しいのだろう。
「だがな、全く進んでないわけじゃないぞ。頻繁に出てくる、名前らしきものをいくつか特定した」
「ほほう。では、まずはそこから攻めてみますか」
「ああ、まずはこの辺からだ。お前さんが言った通り、このやり方が一番の近道そうだからな」
以前、フォルケ神官との話し合いで、古代語の解読の際、何度も登場する単語、特に固有名詞らしき言葉からまず取りかかってみてはどうか、ということを提案していた。
もしかしたら、日本語同様に表音文字で書かれた部分が、助詞に該当するかもしれないと思ったのだ。
名詞がわかれば、後期古代文明に伝わった文献と合致する内容が発見できるかもしれない。
例えば、今も信仰されている神様の名前なんかが見つかれば、その前後の文章内容も、今ある聖句と同じ可能性がある。そうなれば一気に解読が進む。
とても賢いやり方だ。
当然ながら、このやり方は私の思い付きではない。前世で聞きかじったやり方だ。
そして、膨大なりし意味不明な古代語の大海に挑むだけの根気は、私にはない。
がんばってください、異世界のシャンポリオンさん。
「それで、今日はどんな本を借りる?」
「ええ、少し選ばせて頂いてもよろしいですかね」
「もちろんだ、契約だからな」
フォルケ神官が苦笑しながら頷いたので、私も頬を緩ませる。実に懐かしい話だ。
私室から何冊か本を取って、聖堂の椅子に腰かけて読み始める。
今日は物語ではなく、一般教養を得られる本を借りようと思う。
しかしながら、一般教養の範囲は果てしなく広い。それで、何が良いかはある程度、中身を読んで決めたかったのだ。
旅行記や貴族の自伝なども中々面白そうだ。広範な知識を、嘘と共に得られるかもしれない。一方、農業についての本や、鍛冶や建築についての、技術的な本もあって驚いた。
やはり、古代文明から色々と引き継いでいるのかもしれない。読める人がいないし、読める人はこうした職業に携わらないので、無意味化していそうだが。
植物図鑑の類を見つけたので手に取っていると、聖堂に別な人物がやって来た。
祭事以外で教会に人が訪れるとは珍しい。顔をあげると、同い年の少女だった。
「おや、マイカさん。こんにちは」
そっと中をうかがうようにして入って来たのは、マイカ嬢だ。
「こ、こんにちは、アッシュ君」
神殿教会を一人で訪ねるのは不慣れなのか、緊張した様子だ。
普段は明るい笑顔でハキハキと挨拶をするので、同年代の男子に大人気の少女である。村長家の娘というのも、人気の一因かもしれない。
中に入ったものの、どうしていいかわからない、と言った不安顔のマイカ嬢に、私は安心させるべく笑顔で話しかける。
「フォルケ神官にご用ですか? 奥の私室にいらっしゃいますよ」
「あ、ありがとう。そ、そうなんだ。……ええっと」
次の行動に移らないまま、マイカ嬢は、ポニーテイルにまとめた髪を手に取って弄ぶ。その緊張感だだ漏れの仕草が、初めてのお使いを見ているようで実に微笑ましい。
とはいえ、いつまでもニヤニヤ見ていては、悪逆非道な行いになってしまう。人品を知る者として、助け船を出さねばなるまい。
「もし、よろしければ、フォルケ神官をお呼びしましょうか?」
「あ、いや!」
助け船が、首と手を振って拒否のメッセージを表示されてしまった。
極度に緊張している時って、なぜか咄嗟に否定から入りますよね。あるある。
案の定、マイカ嬢の反応もそうだったらしく、ちょっと固まった後、顔を赤らめて言い直した。
「ご、ごめんなさい。その、お願いできる、かな?」
「かしこまりました、お嬢様」
恥らう少女がかわいそうだったので、ちょっとおどけて返事をしておく。
ちょっとでも気がまぎれればと思ったのだが、予想以上に精神的なダメージが来た。我ながら似合わな過ぎて寒気まで走ってしまう。
「フォルケ神官、マイカさんがいらっしゃいました。なにかご用事があるようですよ」
「マイカ? なんだ、珍しいな」
フォルケ神官も用件に心当たりがないのか、首を傾げながら私室から出てくる。
「やあ、マイカ。一体なんの用事かな」
フォルケ神官の声が柔らかい。
私に対する時と違い過ぎないだろうか。私はクソガキとか言われたのですが。亡者神官の次はロリコン神官ですか。
「えっと、その、あたしも文字を……教えて欲しいなと、思いまして……」
マイカ嬢が、私をちらちらと横目でうかがいながら、耳を赤くして小声で訴える。
そういえば、私が文字を読めることは、村ではもう知られている。これだけ神殿教会に通っていれば、何をしているか話題になるのも当然だ。
その話を、マイカ嬢も耳にしたに違いない。
一農家の息子が読み書きできるということに、本来は読み書きができるべきと言われている村長一家としては、思うところがあったのだろう。
私がいたら気まずいに違いない。
フォルケ神官もそのことを察したのか、私を横目で見て、なるほどといった顔をする。
待ちなさい。口元をいやらしい感じに緩めるな。いたいけな少女が傷ついたらどうするんですか。
私が特殊例なだけで、勉強しない人の方がこの村では一般例ですから。
「そういうことなら、神官として手伝おう。なに、元よりそれが教会付き神官の役目だからな」
何やら乗り気なフォルケ神官が意外だ。
私に対しては教える気が全くなかったくせに。あと、今は古代語の解読に夢中なくせに。
父とは別方向へダメ人間気質があるフォルケ神官を知る私としては、本当に教える気があるのか心配になってしまう。
「そうですとも。フォルケ神官は教え上手ですからね」
念のため、大きく同意してフォルケ神官の退路を断っておく。
がんばってください、マイカ嬢。苦労はあると思いますが、その後に読む本は素晴らしいですよ。
が、次のフォルケ神官の言葉が、なぜか私の進路に割りこんで来た。
「とはいえ、俺も他の仕事がある時は教えてやれない。そこで、ちょうど良いことに、こっちのアッシュも読み書きができるんだ」
なぜそうなるのです。
「うむ、我ながらちょうど良い。年が近いから話しやすいだろう? 実にちょうど良い。アッシュもそう思うだろう?」
待ちなさい。それだとマイカ嬢が、すごく気まずい思いをすると思う。
「そ、そうですね。フォルケ神官が忙しい時とかなら、アッシュ君に聞けば……」
ほら、マイカ嬢がすごく言いづらそうにしている。
どうやってマイカ嬢を助けたものかと言葉を探すが、それをさせじとフォルケ神官が素早くまとめる。
「じゃあ、決まりだな。頼むぞ、アッシュ。お前さんは俺の一番弟子だからな」
「わ、わあ、一番弟子なんて光栄です。じゃあ、フォルケ神官は先生ですね」
この朴念仁め。だから適齢期をとっくに過ぎても奥さんがいないのだ、孤独死コース直行先生。