灰の底6
あれから、フォルケ神官は猛烈な勢いで古代語に向き合っている。
放っておくと寝食を惜しんで机にかじりついてしまうので、前のような亡者神官に戻らないよう、注意しておいた。
寝不足だと思考が鈍って効率悪いですよ、とか。
ご飯を食べないと頭の回転が悪くなりますよ、とか。
寿命が縮まる、という脅し文句は効果が薄い。
まあ、平均寿命が短い(だろう)上に、病気の致死率が高すぎる世界だ。明日にでも死ぬかもしれないから今日を全力疾走な思想になるのも頷ける。
私も前世に比べると、そういう心構えになっていると自覚があるくらいだ。
だから、春になったこの頃、畑仕事が増えて、数少ない余暇の時間。
「おい、アッシュ! 本なんか読んでいる暇があるなら手伝え! 本なんか読んでいると怠け者になっちまうだろうが! 怠け者に嫁は来ないぞ!」
こんな風に、父ダビドが読書を邪魔してくると、殺される覚悟でコロ……コロしてやろうかと思ってしまう。そう、コロコロね。
もちろん、そんなことはしない。
我慢できる、今はまだ……。
「はい、父さん。何をお手伝いします?」
素直に返事をして、父に微笑んでおく。
「クイドの奴が来たらしい。収穫した冬麦を持って行くぞ」
「おや、クイドさんが。そんな時期ですか」
クイド氏はこの村に足しげく通う行商人だ。
この村から馬車でゆっくり行くと、半日ほどの距離に大きな都市がある、らしい。私は見たことも行ったこともないが、多分あるのだろう。
その距離なら、農民が直接都市に運んで行って朝市とかでわいわい売り出しそうだが、なぜか行われていない。
代わりに、クイド氏のような行商人が、村で作物を買い、都市で売っている。村でも、都市で集めた商品を売っている。都市では金銭のやり取りらしいが、村では物々交換に近い。
行商人が間に入る分、作物は都市で売られる価格より安く買われてしまう。そうしないと行商人の利益がなくなり、食べていけないのだから仕方ない。
では、どうして手間賃を払ってまで行商人頼みなのかというと、
「よう、クイド。今回も魔物にやられなかったみてえだな」
「はは、逃げ足には自信があるんでね」
父とクイド氏のこの会話でお察し頂けるだろうか。
私はお察しできない。
前からわからないんだけど、魔物って害獣とか野盗の暗喩なの? それとも、それらより恐ろしい何かが実在するの?
聞いてみたことはあるものの、教育のための脅しと、実在の脅威への注意の区別がつかない話し方ばっかりされて困る。
真面目な質問に、子供騙しの語りをしないで欲しい。まあ、私が子供だからなんだけど……。
そろそろ、面白おかしい物語だけでなく、今世の一般常識がわかるような本も読もう。
ちょっと今世への謎が増えすぎた。
それに、古代文明の件もある。ひょっとしたら生活を楽にする知恵が伝わっているかもしれない。
クイド氏の前に冬麦の包みを置いて、今回の取引量を確認してもらう。
「うん、しっかりつまった良い麦だ。それをこの量なら、銅貨四枚ってところで、どうだい?」
ろくすっぽ測ったりしないが、いつものことだ。
重さの単位はきちんとあるらしいのだが、計測器をわざわざ持ち歩くことがないようだ。何かの誤魔化しをすれば、次からの取引を拒否するという手がある以上、ある程度の信用で取引が成り立っている。
早速、父は銅貨四枚分の商品を選び出す。
「今回の塩はいくらだ?」
「一壺で鉄貨十二枚。冬はやっぱり値上がりするね」
この場合、壺ですくった分の塩を、持参の入れ物に頂戴する。行きは売り物の麦で重いし、帰りはこういった買い物で重い。
なお、鉄貨は二十枚で銅貨一枚の計算になる。貨幣価値が安定しているということは、贋金なんかは出回ってないのだろうか。
文明程度から見れば、貨幣経済になっていることも不思議なのだが。
「しょうがねえな。いつものハーブは? あと、砥石もだな」
「調味料はいつものセットなら十五枚。砥石は八枚。薬は間に合っているかい?」
「ああ、そうだな……冬の間に熱冷ましが減ったが」
「一瓶で鉄貨八枚」
父は、難しい顔で唸りながら、物欲しそうに陶器製の酒瓶に目をやる。
「この蜂蜜酒は鉄貨二十枚だよ」
一夜の嗜好品としては、かなりのお値段だ。無理もない。家で作っている自家製エールとはものが違う。
この場合、自家製のエールとは、水の代替品以上の価値はない。この村の水は飲むには危険を伴うので、タダよりひどいと言って良い。
つまり、自家製エールはタダで飲むにしても微妙なお味だ。
それと比べると、クイド氏が持ってくるお酒は本物だ。飲んで楽しむ代物になっている。
娯楽が少ない村では、美味しいお酒というのは人を狂わせる力を持っている。どんな世でも、そうだと言えばそうかもしれないけど。
「ちとまけられねえかな。ちょっとでいい」
「なんだ、まだ買えるだろう?」
「いや、そうなんだけどよ」
情けない顔をする父に代わり、私が並べられた商品の一つを指さす。
「お酒より先に、そちらの布を買わないと、母さんに怒られてしまいます」
「ん? ああ、なるほどね。はは、アッシュ坊やはお利口さんだ」
布といっても、立派なものではない。都市で仕立てに使った生地の切れ端やあまりなどのまとめ売りである。
それでも、くたびれた服の繋ぎにしたり、つないで雑巾にしたり、あるいは家の隙間につめたりと、使い道はいくらでもある。
「針もおまけでつけてくれません? 二本は欲しいのですけど」
「勘弁してくれよ、坊や。布一束が鉄貨十枚、針二本で鉄貨六枚だ」
ここまでが必須の買い物だ。後は緊急時のために現金として残しておくのが正しい。
我が父は、いつも酒を買おうとして、実際に何度か買って、母に叱られている。私も母の味方だ。
地味にダメ人間気質の父は、未練がましく酒瓶に視線を送る。
「ダメか?」
「これでもかなり勉強してるんだから、これ以上はこっちが飢え死にしちまう」
唇を引き結んで首を振るクイド氏に、我が父ダビドはがっくりと肩を落とす。
その様子を、行商人の眼がこっそりとうかがう。
「とはいえ……この酒も良いところで売らないと腐っちまうしな。他に買う人もいなくて残ってるし、おまけしてやるか」
「ほんとか!?」
「特別だからな、ダビドさん。おまけしてもらったなんて、他の人には絶対に言うなよ? 皆にこんなことできやしないんだから」
「言わん言わん! いやぁ、ありがとう、クイドさん」
父はホクホク顔で、蓄えておいた方が良いだろうお金を全て使ってしまう。
「それで良いのですか、父さん」
「うるさい、子供は黙ってろ! これが男が働く力になるんだ!」
すごい理屈だ。そうですか、と言うしかない。
まあ、そういう癒しが必要なのは痛いほどわかる。後であなたの妻に怒られるが良い。
「クイドさんは、これで良いのですか?」
「はは、お客が買っていくって決めたものを、商人が売れないとは言えないさ」
「いえ、クイドさんに対してはお値段のことをお聞きしています」
「ん? まあ、正直、都市に持ち帰っても売れないしね。次の行商に行くまでには傷みそうだから、おまけおまけ」
「そうですか」
と、あなたの場合はそれで終わりではありませんよ、行商人のクイド氏。
私はこの時を待っていたのですからね。
罠にかかった獲物の味を想像し、私の口元は自然と緩む。
そっと、商品の向こうに立つクイド氏のそばに歩み寄り、その耳元に囁く。
「お値段をお間違えですよね、クイド氏」
その瞬間、クイド氏の顔面の筋肉は動かなかった。が、確かに呼吸が止まった。
「な、んのことかな?」
「計算の早いあなたらしくありませんよ。お酒を除いた私達の買い物の総額は、鉄貨で五九枚だったはずです」
塩が十二、調味料が十五、砥石が八、薬が八、布が十、針が六で合計五十九だ。間違いない。
一方で、冬麦の代金は銅貨四枚、鉄貨で八十枚分だ。お酒を言い値で買ってもお釣りがくる。
実は、少し前からクイド氏がぼったくりをしているという疑いを持っていたので、警戒していたのだ。
以前、今のように少数の客を相手にしていた時、ふと聞こえて来たクイド氏の計算が間違っていた。
その時は、自分の買い物でもなかったため、私が数え間違えたのだろうと思っていた。が、引っ掛かりを覚えたので、それ以降クイド氏の計算を確かめるようにしていたら、再びやらかしていた。
それも確信犯に違いない。わざと客――つまり目撃者が少ない時に限り、計算ができない相手に、ふっかけていたのだ。もっとも、後者の条件に当てはまる村人ばかりなので、ほぼ無差別なのだが。
今回も、我が父ダビドは計算ができない。その上、購入物が細々としていて、余計にややこしい。だから、鉄貨一枚くらいちょろまかしてもバレない。
そう思ったのだろう。だが、残念。ダビドの連れの坊やが計算できるのだ。
なんなら九九を暗唱して差し上げましょうか。理解されないと思うけど。
「それで? 私達が買った商品のお値段を、一緒に確認しましょうか? どれかの商品一つのお値段を上げて誤魔化してみます?」
私の囁きに、クイド氏の眼が妙な光を見せる。誤魔化す方法を見出したのだろう。
そうはさせない。逃がさないぞ、私の獲物。
「ところで、これは世間話ですが、私はフォルケ神官と懇意にさせて頂いているのですよ。下手な誤魔化しをなさるのなら、私は悲しくて神殿にお祈りに行くしかありません」
神殿教会の神官は、冠婚葬祭を取り仕切る立場上、影響力が強い。
そんな神官の口から、行商人への疑いの言葉が放たれれば、積み上げて高々とした位置に昇った信用が、地に落ちてしまう。
計算ができる人材がほぼいないこの村での売買は、商人側が嘘をつかないという信用の下に成り立っている。
その信用に傷がついた場合、どうなるか。
二度と取引に応じてもらえないだろう。行商人は他にも大勢いるのだ。
クイド氏がしくじったのなら、代わりの行商人がこの村の需要を満たしに必ずやって来る。その新しい行商人と取引をすれば、村はこれまで通りの生活が送れる。
今までそれをしなかったのは、実績が何もない新しい行商人と取引するより、何度も取引を重ねたクイド氏の方が、裏切る可能性が低いと思われていたからだ。
「大丈夫ですよ。クイド氏は、ただ、計算間違いをしただけですものね」
優しく、私は思いやりに満ちた声で断定する。
当然だ。今や私は、クイド氏の一番の味方だ。
彼が計算を間違えてしまったことに気づいているのは私だけ。私が黙っていれば、この信用厚い行商人を助けることができるのだ。
「人間だれしも間違いはあるものです。それが熟練の商人であっても、一度や二度……そう、前はジョイユさんの時にも間違えていましたね。その前は猟師のバンさんの時でしたか?」
初犯ではないことを知っているのですよ、と伝えてみると、今度はクイド氏の顔色も変わった。
そんなに脅えなくても、私は味方ですよ、ふふふ。
もっとも、クイド氏が青ざめてしまうのもわかる。
というのも、信用を裏切った商人は、まず間違いなく取引を断られる……など、その程度で済んだら、最も軽い処罰に過ぎない。
では、それ以外の罰はどんなものがあるのだろうか。
端的に言って、私刑という罰がある。
石つぶてをぶつけられて追い払われるというのはまだマシで、言いたくはないが殺される確率も割と高い。殺されずに済む場合でも、体のどこかは、あるべき場所からなくなると思う。
裁判所も牢屋もない辺境のド田舎には、そういう慣習法があるのだ。
特別なことではないと思う。前世らしき記憶でも、犯罪者への罰から拷問がなくなるのは、近代以降だ。
多分、今のクイド氏の頭の中には、村人に囲まれた自分が想像されているだろう。
「クイド氏は、これまでも村に良くしてくれた信用できる行商人です。だから、このことは私の胸にそっとしまっておきましょう」
「ほ、本当か……?」
安心させるためににっこりと笑い、私は可哀想に脅える行商人に約束する。
「ですから、クイド氏はこれからも、私を信用させてくれる、良い行商人でいてくださいね」
私を信用させてくれれば、別に村人に信用される行商人でなくても良いです。
この意味、わかってくれますよね?
父にも聞こえないように耳元に寄せていた顔を引き、私は首を傾げて確認する。幸い、行商人としてこなれたクイド氏には、それで十分伝わったようだ。
「あ、ああ、坊や――いや、アッシュ君、面白い話をありがとう。そうだな、なにかお礼をしなくちゃな」
私は、先程購入した布一束を見て、それから、ちらりと高めの布生地を見る。
それは、小さいながらもスカーフかハンカチくらいは作れそうな、まとまった生地だ。
「こ、これが良いかなぁ、アッシュ君?」
「よろしいのですか、こんな素敵なものを。母さんもきっと喜んでくれます。ありがとうございます、クイドさん」
取引成立だ。
今後は値引きを強請ろうとは思っていないので、安心して欲しい。適正な価格で取引をしてくれればそれで良い。
まあ、勝手に気をつかってくれるなら、それには素直に甘えることにするけれど。だって、私はまだ九歳の子供だもの。大人が甘やかしてくれるのなら、思う存分に甘えますとも。
ホクホク顔で購入物をまとめた私は、何が起こったのかわかっていない父に、澄ました顔で伝える。
「本を読んで面白かったことを、クイドさんに教えて差し上げたのです。行商人の方には、これもまた価値がある商品だったのでしょう。この生地はそのお礼ですよ」
「な、なるほど? それは、どんな?」
「いくら父さんでも、これはお話しできません。私はクイドさんに売ってしまったのですから。気になるのでしたら、クイドさんからお買い上げください」
かなり気にしている様子の父だったが、買ってまでは聞きたくないようだった。
まあ、いくらお金を積んでも売ってくれないと思う。
「それより、父さん」
「な、なんだ」
「確かに、本を読んでも畑は良くなりませんが」
これが本命の一撃なので、私は渾身の笑みで父に告げる。
「本を読むことで、母さんを喜ばせることはできるのです。これは、大変価値のあることだと申し上げます」
この時、父は、何を言っているんだコイツ、という顔で私を睨んだ。
まだ、本のありがたみを理解してくれないらしい。
それも時間の問題だ。家に帰り、銅貨一枚分の酒を買ったと知った母が激怒するまでの、わずかな時間。
激怒した母をなだめるため、お高い生地を手渡して機嫌を取る私に、父は深く感謝することになるだろう。