シナモンの祭壇25
窓からは、夏の風が吹きこんでくる。
もう初夏とは言えない季節だが、風薫ると表現するに相応しい、爽やかな心地だ。
私は達成感に包まれながら、ぼんやりと風の流れを楽しんでいる。良い夢を見たのだ。
因縁のライバルである死神相手に、ジャーマン・スープレックスからのピンフォール勝利を決める夢だ。
素晴らしい試合だった。
一勝一敗で迎えた因縁対決は、倒し倒されのドラマチックな展開が目白押しで、観客も盛り上がってくれた。
私がやられそうになった時に響いた、マイカ嬢とアーサー氏の悲鳴は、我が夢ながら真に迫っていた。これだけの戦いを私が制したのだから、夢から覚めても余韻に浸りたくもなる。
……ところで、ここはどこでしょうか。
寮館の自室とは異なる個室で、見慣れぬ上等な家具達が、じっと私を見ている。窓の外の庭は、見たことがあるようなないような、微妙な既視感がある。
ベッドから起こした上半身は、包帯でぐるぐる巻きにされている。ミイラの二、三歩手前と言ったところだろうか。
人狼殿の爪や牙が、左肩と右手首をこれでもかと痛めつけてくれたので、致し方ないだろう。
うむ、熊殿の時より、記憶ははっきりしている。
少なくとも、自分が手傷を負って失神したことがわかっている。とすると、ここは治療のために用意された個室に違いない。
後は、何日くらい寝込んでいたかだ。
マイカ嬢を筆頭に、それなりの人に心配をかけただろうから、意識が戻ったことを早く伝えよう。
近くに誰かいないだろうか。
「すみませ~ん、どなたかいらっしゃいませんか~」
これだけでも、ちょっと傷に響く。特に左肩が痛い。
あと、お腹。
お腹空いてる。
すごい空腹感。
というか、もはや飢餓感。
飢餓感すごい。
これ、胃の中、空っぽじゃない?
「あの~、すみませ~ん」
ご飯。
今の私に必要なのはご飯だ。
できれば肉。
お肉食べたい。
失った血や肉を補充するためにタンパク質を体が欲している。
「もしもし~」
しかし、反応がない。なんてこったい。
絶望が全身を包む。このわずかの声出しだけで、すでに全精力を使い果たしている。私はもう駄目だ。
これが、私の最後の言葉です。どなたか、受け取ってください。
「おにく~くださ~い~……」
ドアが開いた。
看護道具を持ったマイカ嬢とアーサー氏が、ドアの向こうから覗く。
届いた。
私の最後の言葉が、届いた。
奇跡と言って良い。
訳もなく、神に感謝の念が湧いてくる。眼に熱いものがこみ上げる。
「おにく……たべたい、です……」
これでやっと、ご飯が食べられる。
優しい二人のことだから、すぐに準備してくれると確信している。
優しい優しい二人の表情は、予想や希望を打ち砕かれたかのような、悔しげなものだった。
言語表現するとしたら、「思ってた展開と違う」だったと思う。
****
マイカ嬢とアーサー氏の表情は微妙なものだったが、速やかに食事は用意された。
とろとろに柔らかく煮込まれた豚肉を、口一杯に頬張って、生きている喜びを味わう。
「はふぅ、美味しい」
これを作ったのは、ヤック料理長に違いない。
じっくり時間をかけなければ出ない、あの味がする。しかし、ヤック料理長の腕前を差し引いても、随分と上等なお肉ではなかろうか。
「こんなお料理を頂いて、よろしいのでしょうか?」
そんな疑問を口に出しつつも、食べる手は止められない。
美味しい。
本当に美味しい。
そして私はまだまだお腹が減っている。
「アッシュのためにヤック料理長が作ったものだから、食べるのは問題ないよ。というより、牧場の人が、アッシュへのお礼として持って来たお肉だから、アッシュが食べないと」
頬を膨らませてもぎゅもぎゅしている私に、アーサー氏が唇を尖らせて応える。私の食事を持ってきてくれた優しい二人は、怒っている態度を隠してくれない。
食べ終えたら、説教を頂戴しなければならないのだろうか。
ならないのだろう。
気が重いので、少しでもお説教を遠ざけようと試みる。
「お礼ですか?」
「君は魔物を討伐した立役者だよ。特に、市壁の外にいた牧場の人にとっては、感謝を示されて当然の恩人だ」
「仕事上の役目を果たしただけで、こんな美味しいお礼を頂戴してしまって、申し訳ないくらいですね」
なんだかんだで、ジョルジュ卿の副官見習いがほぼ固定されている私だ。あの場で人狼殿を引き付ける役割は、通常業務でもある。
そこに私情もたっぷり乗せてしまったが、業務内容を逸脱しなかったので、問題はあるまい。
そう思っていると、アーサー氏の口元が、思わず、という風に緩んだ。
「アッシュは、本当にもう……」
「ダメだよ、アーサー君。そこで甘い顔しちゃダメっ」
そんなアーサー氏を、マイカ嬢がすかさずたしなめる。
「そ、そうだね。きちんと怒らないとダメだよね」
「そうだよ。放っておいたらアッシュ君は無茶ばっかりするんだから」
そこは甘い顔してくれた方が嬉しいです。
大体、熊殿の時もそうだったけれど、こちらにだって正当な言い分がある。
「何やらひどい言われようです。私もやりたくて無茶をしたわけではないので、放っておいても自分からは問題を起こしませんよ?」
私の正当な主張に対し、二人からものすごい眼光が飛んできた。
「ほらね、これがアッシュ君なの。全然反省してないでしょ。あれだけの大怪我して、これだけあたし達のこと心配させておいて、全っ然!」
「うん、良くわかった。僕も一切甘い顔をしてはいけないと、よぅくわかった。アッシュ、君は心を入れ替えるべきだよ」
心を入れ替えるとは、無茶をおっしゃる。
体の入れ替えは体験しましたけどね。転生的な意味で。
「本当に、好きで怪我をしたわけではないのですが……」
「好きで怪我をしてるなら、もっと怒ってるよ。はい、あ~ん」
溜息を吐くと、マイカ嬢がフォークに刺したお肉を差し出してくれるので、ありがたく頬張る。
「美味しい?」
「実に美味しいです」
マイカ嬢の問いかけに笑顔で頷くと、彼女も頬を緩める。
「ちょっと、マイカ。甘い顔しちゃダメだって……」
「し、してないよ! 全然してない!」
「いや、口も目も緩んでるから……。もう、しょうがないな。僕が代わるよ」
アーサー氏の提案に、マイカ嬢は不満そうだったが、表情の危うさに自覚があったのか、渋々とフォークと皿を手渡す。
そして、食べさせる係がアーサー氏になった。
「はい、アッシュ、あ~ん」
「あむ」
「美味しい?」
「実に美味しいです」
アーサー氏の問いかけに笑顔で頷くと、こちらも頬を緩める。
「アーサー君……甘い顔……」
「え? あ、そ、そう?」
アーサー氏は、慌てて自分の頬を撫でる。
自分の顔の状態を確認すると、どんどん赤くなる。
「ご、ごめん。なんか、アッシュの世話をしているんだと思うと、つい……」
「うん、わかる。やっぱりそうなっちゃうよね。アッシュ君、普段しっかりしてるから、なんかプレミアム感あるよね」
ご負担をおかけして申し訳ない、と言うべきところなのだが、プレミアム感ってなに。二人は完全に納得し合っているけれど、私にはさっぱりわからないですよ。
う~む、いや、待てよ。
「怪我している時だけ。それを期間限定と言い換えれば、なんとなく希少価値が……?」
私の呟きに、二人が噛みつくように咆えた。
「「反省してない!」」
そこで怒るのは理不尽ではありませんかね。