シナモンの祭壇24
命綱ともいえるシャベルが、人狼殿の手によって破壊される。
だが、人狼殿の判断は、少々早かった。
シャベルの粉砕を代償に、その一撃を受けきるだけの余力が私にはある。
人狼殿の強撃の勢いを借りて、後退して距離を稼ぐ。
苦しい呼吸を整える前に、腰元に常備している陶器の小瓶を取り出す。
私の武芸の腕は、本当に大したものではない。以前、アーサー氏から疑問視されたことがある。
「この腕前で、どうやって熊を倒したのか」と。
答えは簡単で、武芸の腕以外で熊を倒したのだ。
それは、例えば恐怖への対し方であったり、毒物の知識であったりする。
この小瓶は、その後者だ。
熊殿の一件以来、さらに研鑚を重ねた私の毒物取扱護身術を受けるが良い。
手で握るのに丁度良い大きさの小瓶を、人狼殿の顔面めがけて投擲する。
人狼殿は、体勢がやや崩れていたこともあるが、避けようとはしなかった。
最初の投石でもダメージがなかったのだ、あれよりはるかに勢いに欠ける小瓶を、回避が必要な脅威とはみなさなかったのだろう。
それが、命取りだ。
陶器の小瓶が割れ、その中身である赤い粘液が、人狼殿の顔一杯にへばりつく。
そして、一秒後、屈強なる人狼殿は、顔面を押さえて転げ回った。
ふっふっふ、激辛料理はお嫌いかな?
小瓶の中身は、アルコールに唐辛子をつけて、その辛味成分であるカプサイシンを抽出・濃縮したものである。
畑を害虫や害獣から守るための、農薬として製法が書いてあったものだ。
アルコールの蒸留にコストがかかり、農薬として普及させるまでは至らなかったが、熊殿に殺されかけた後、護身用催涙武器にと採用したものだ。
非殺傷性であることから持ち運びにも都合が良く、マイカ嬢やアーサー氏など割と重要人物と関係を持つ身として、普段から身に帯びている。
私は荒く息を吐きながら、次の武装としてピッチフォークに飛びつく。
人狼殿は、私の動きなど気にする余裕もなくのたうち回っている。激辛成分が眼や鼻に直接入ったのだろう。
どれほどの激痛か、想像したくない。
見ているだけで不憫だから、私がトドメを刺して差し上げよう。
慎重に頭部側に回り込んで、狙いをつける。
転げ回っているし、痛む顔を手でかきむしっているから、眼や口の中を狙うのが難しいが……自らの鋭い爪でかきむしったせいで、顔の皮膚がひどいことになっている。
これならピッチフォークの先端も刺さるだろう。
よいしょー。
ん、流石に頭蓋骨に当たって滑る。
まあ、何回も刺すしかあるまい。
よいしょー。
あ、よいしょー。
…………。
いかん。思った以上に頑丈だ。一向に殺せない。
あと、人狼殿の顔が元に戻っているように見える。
血で真っ赤なので気づくのが遅れたが、もう新しい出血が見られない。ピッチフォークからの手応えも、表皮で止まっている感覚だ。
「冗談でしょう……!」
魔物は治癒が早いとはジョルジュ卿から教わったが、こんな見ている目の前で、一分もしないうちにこれだけ治るなんて、常識というものをわきまえて頂きたい。
あれか、魔物だからか。
魔物だからこんな超自然現象も許されると思っているのか今世。
人類に不利なところばっかりファンタジーしやがって!
とにかくまずい。
もう護身用催涙瓶はない。この機会を活かさないと、今度は私が絶体絶命だ。
なんとか眼球を狙って、一突きに――その、狙いたい眼球が、私を正確に捕捉した。
「っ!」
私が振り下ろすピッチフォークと、人狼が右腕を突きあげたのは同時だった。
左の鎖骨を、がりがりと削られる音がする。痛みはその後だ。
私は歯を食い縛って、ピッチフォークにさらに体重をかける。
人狼殿の爪が、余計左肩に食い込むが、構わない。こちらは、人狼殿の右目を貫いているのだ。
二種類の唸り声、あるいは苦鳴が響く。
お互いに必死だ。
互いに、互いの命を摘み取る瀬戸際で全力を搾っている。
私が、あと少しだけ年を取っていれば、身長が増え、比例して体重も増えて楽に力をこめられただろうにと思っていると、手応えが変わった。
堅い部分を貫通し、柔らかいなにかをえぐった感触。
狩猟経験からわかる。脳を抉ったのだ。
人狼殿の巨体が、不自然に跳ねる。
私に延ばされた右腕が、攻撃とは無関係の痙攣をして……地面に落ちた。
「よし……!」
念のため、もう少しピッチフォークで抉りをかけてから、手を離す。
自然と、後ろに二歩、三歩とふらついてしまう。
全身に、一気に疲労が襲いかかってくる。
人狼殿の剛腕をいなしていたせいで、手はもちろん、足腰の筋肉が伸びきったゴムのように感じる。
思った以上に限界突破していたようだ。
「左肩もすごい痛いし……化膿とかしないと良いですけど」
あと、マイカ嬢のお説教も回避したい。
今回の戦闘も、私が望んだわけではないのだ。心配してくれているのはわかるが、何とかご理解頂きたい。
無理だろうか。
経験上は無理だ。
せめて、村にいる母上には黙っていてもらおう。知られなければ説教は絶対にないのだし。
左肩の傷口を見て、止血方法を考えていると、物音がした。
ピッチフォークが、地面に落ちた音だ。
疲れた頭で振り返ると、人狼殿に見下ろされていた。
「お、お早いお目覚めですね?」
なに、転生でもしたの?
いや、生まれ変わってないから蘇生か。
私を見下ろしている眼が、ピッチフォークで潰したはずの右眼が、目の前で再生されていく。
どんだけデタラメだ。
不覚にも茫然としてしまった私に、人狼殿は真っ直ぐ、その牙を落としてきた。
左肩に、さらに新たな痛みが食い込み――食い千切られることは、なんとか防ぐ。
「さ、させませんよ……! これでも、りょ、猟師見習い! バンさんの、一番弟子、ですからね……!」
頭は真っ白だったが、バンさんの教えが体を勝手に動かしてくれた。
私の右手は、腰から短刀を勝手に引き抜き、噛みついてくる狼の口に突っ込んだのだ。
この短刀は、猟について行く時にバンさんがくれたものだ。
獲物にトドメを刺す時に使う、猟師にとっては神聖な仕事道具であり、槍も矢も尽きた時に最後に使う護身具でもある。
人狼殿と目が合う。
向こうは、このまま私の左肩から胸までばっくりと噛み千切りたいことだろう。
だが、大きく開いた口内で、短刀が頭蓋に向かって突き刺さっている。このまま顎を閉じようとすれば、脳まで達する角度だ。
「さあ、どうします! このまま、相打ちにしてみますか! このくらいで私が死ぬと思っているならやれば良いでしょう!」
思っているならその通りだ。
普通に死にます。
けど、そんなこともちろんしないですよね?
さあ、口を開けて、早く。
先程、脳を抉ったのに復活されたばかりなので、人狼殿が構うものかと噛みちぎりに来ないか、ものすごく怖いです。
もっと短刀で口内を抉ってやれば、痛みに耐えかねて口を開いてくれそうなのだが、人狼殿の牙が右手にも食い込んでいるので上手く動かせない。
というかものすごく痛くて、動かせない。
さあ、どうしよう。
この体勢からでは、私にできることはない。人狼殿がどう動くか、それを待つしかない。
互いに必死の呼気を漏らしながら、すぐ近くの顔を睨み合う。
早く離しなさい。右手の感覚もなくなってきた。
あ……。ひょっとして、このまま私の体力が尽きるのを待つつもりだったりする?
やばい。それをされると確実に私が負ける。
流石に私の血の気も引いた。
が、人狼殿はあっさりと口を開いて、私を解放した。
「お、っと?」
ひたすら待つのが必勝法だと思ったが、どうして離れた。
とりあえず、短刀を構えて向き合うが、人狼殿は私を見ていない。奴が見ているのは、私の背後だ。
なんだろう。
どう動いたものか迷っていると、私の背後から、それは来た。
力強い馬蹄音と、一本の槍。
私をかすめるように通り過ぎた戦意が、人狼殿を襲う。
こういう時は、騎兵隊の登場だ、と笑うべきでしょうな。登場したのは、ジョルジュ卿一人ですけども。
槍の一撃で、人狼殿を地面に転がしたジョルジュ卿が、馬を回して私に向かってくる。
「アッシュ! 掴まれ!」
「了解です!」
ジョルジュ卿は一撃離脱の構えだ。
それはそうだ。
ジョルジュ卿がここに来たということは、ベルゴさん達が魔物襲来を伝えて、門の防衛準備も整ったはずだ。
あとは、頼もしい弩砲の射撃地点まで、人狼殿を引っ張って行けばいい。あれはそのためのものだ。
疲れ切った体に鞭を打って、駆け抜け様にジョルジュ卿の馬に飛び乗る。
いかん、左腕も右腕も力が入らない。
落ちそう。
「アッシュ! よく頑張った!」
それを、ジョルジュ卿の力強い腕が支えてくれる。
やだ、かっこいい。ヤエ神官、あなたの恋愛対象は本当にイケメンです。
もう、後は任せて良いだろうか。
良いですよね。
もう本当に無理。体力の限界。
とりあえず、ジョルジュ卿にしがみつきながら、私は意識が明滅するのを感じる。
都市の門が見えて来た。後ろからは重低音が追いかけて来る。
市壁の弩砲から槍のような矢がいくつも飛来し、重低音が、止まった。
閉じたはずの瞼の裏で、チカチカと何かが点滅する。なんだか、前世らしき記憶が、いくつか鮮明に蘇る。
初めて味わうけど、ひょっとしてこれは走馬灯だったりします?
熊殿の時より軽傷だと思っていたけど、そうでもないのかもしれない。気配はないが、死神様が近くにいらっしゃるようだ。
よーし、死神様よ。
これで恐らく三度目の対決だ。
一度目が前世で、二度目が熊殿、一勝一敗の五分だ。
いい加減、お前様とやり合うのも慣れたものですよ。
勝ち越してくれる。