シナモンの祭壇20
別に、一同の非難の眼差しや、マイカ嬢の表情を知るのが怖かったわけではないが、私はさっさと神殿に向かった。
最近、ますます綺麗になったヤエ神官が、私の話を聞いて微笑んだ。
「トマトで亡くなった王子が食べていたレシピですか? ええ、残っていますよ。ここに写本もあります」
なんという僥倖か。
今日の私には守護天使でもついているのかもしれない。今世風に言うと、猿神様のご加護がある、といったところか。
「それは素晴らしい! しかし、よくそんなものがわざわざ保管されていましたね。今では毒と考えられている食材の料理でしょう?」
「その王子が、本当にトマト好きだったからでしょうね。王族を始め、貴族の日記というものは割合遺されるものですが、その方はいつもその日に食べたトマト料理について言及されていますよ」
「なるほど、料理本としてではなく、日記が残っていたのですか」
それならば、保管されているのも納得がいく。
「それでも、蔵書が限られる地方都市の神殿にまで写本が置かれているのは、少し不思議ですね」
何か理由が、とヤエ神官に首を傾げる。
「それは、トマトが非常に広範囲で栽培されているためだと思われます。このサキュラでも、夏になるとあちこちの庭でよく見かけますから」
「寮館でも、食べられないと知りつつ、観賞用に植えられていましたからね。つまり、そういったよく見かけるものを誤食しないよう、注意喚起のためにあちこちに出回った、と」
「私はそう受け止めています。写本が出回った当時は、広範囲で食用として栽培されていたものと思われますし」
一部の辺境に限るが、今でも食用になっているらしいとも、ヤエ神官の情報にあった。
私の村でも食べられていたが、考えてみれば、食べていたのは私と同世代から下の年代が多かった気がする。
もしかしなくても、私が食べているのを見て、トマト有毒説を知らなかった皆が食べていたのかもしれない。
それを知った時の一部の大人達、特に村長夫妻の驚愕の表情はそういった意味だったわけだ。
密かに、やらかしていた。
いや、やらかしたのはトマト王子である。断固として私ではない。
有益な栄養源を長年に渡って非食用として無駄にさせるとは、これは文明に対する反乱と言っても過言ではない。
許すまじトマト王子。
罰として貴様には、トマトを食べられなくした人物として後世に語り継がれてもらおう。
「では、その王子の問題点を確認してみましょうか」
「本はこちらになります」
私の調査方法に慣れた様子で、ヤエ神官が目的の本を差し出してくれる。
神殿の他の本にもれず、これもまた古い写本だ。五十年は軽いと思うが、今世の書物ではまだまだ若い部類に入る。
早速拝見。
「本当にトマト好きですね、この人」
トマトを植える春から、トマトの収穫が終わると思しき夏の終わりまで、トマトのことしか日記に書いていない。
秋や冬は、管理を任されているらしい領地の政務について、真面目な記述ばかりなのでギャップがすごい。
存在自体が冗談みたいな人だ。
楽しませてくれたお礼に、農業史および料理史に輝く冗談のネタに昇華して差し上げよう。
これだけトマト好きなら、トマトが再び食されるようになり、自分がトマトと共に語られる存在になれば本望だろう。
違ったとしても死者の反論が私に届かないので、あしからず。
「ありました。ここから記述が怪しくなっていますね」
レシピに変わったトマト料理が目立ち始めた年から、日記の内容が混乱し始めている。
どうやら字体も乱れているらしく、写本製作者による原文を読み取れない旨の注意書きが徐々に増加している。
トマトが収穫されない時期には多少内容も落ち着くが、それ以前の優秀な為政者としての記述と比較すると明らかなズレを感じる。
「この日記にあるレシピと、記述に見られる異常から判断すると……原因はトマトの実ではありませんね」
「アッシュさんの見解は、いつも刺激的ですね。あ、続きをおっしゃる前に、少々お時間をください」
心臓に悪い、と言いたげな口調で、ヤエ神官はなにやら深呼吸をしている。
数度繰り返してから、よし、と拳を握って気合を入れられた。
私の論理的で冷静な見解を聞くだけなのに、不可解な行動をしなさる。
「では、アッシュさんはどのように見ているのでしょうか」
「原因は、トマトの茎や花でしょう。この人、トマトが好きだからって、普通食べない部分まで調理させています」
日記によると、常に新しいトマト料理を出せ、と料理人に命じてしまっている。
どれだけ強い圧力をかけたのかはわからないが、毎日のように料理評価をつけるほどトマトに固執している人物だ、相当だったのではなかろうか。
結果、料理人はトマトの実だけでなく、それ以外の部分、茎や花まで調理し始めた。
確かに、実以外もトマトではあるので、立派なトマト料理だ。
ただし、有毒でも料理と言えるのならば。私は言わないですね。
「トマトの実以外を使った料理が出始めた頃から、記述に乱れが出ています。それまで何年も問題が出ていないのですから、トマトの実、それ自体に問題があったとは言い難いでしょう」
「なるほど。これは、確かに……トマトの実に毒があるなら、それ以前から問題が出ていないのは奇妙ですね」
「それに、当時は一般的にトマトの実が食されていたと思われるのですよね?」
「ええ、その通りです。そういった情報とも、アッシュさんの推論は整合します」
しかし、とヤエ神官は私にたずねる。
「植物にはあまり詳しくないのですが、一部に毒があり、一部に毒はない、ということは考えられるのでしょうか」
「ああ、なるほど。確かに、知らなければそういった考えになるのも無理はありません」
ただ、植物も部位によって毒の有無や、毒の濃度が異なることは間々ある。
特に、熟した果実に毒を持たない場合は多い。
「基本的に、植物は外敵に襲われても走って逃げたり、手を振り回して追い払うこともできません。そこで、その体内に毒を作ることで、食べられないようにしているようです」
自然毒……害虫や害獣に対して、植物が独力で生成する農薬である。
食物連鎖の構図は厳然と存在すれども、他者を活かすための生命など存在しないということだろう。
どれもこれも、対等に生存競争を戦っている。
「一方で、植物にとっては、可能な限り広範囲に種をまいた方が有利だとも気づいたはずです。狭い範囲に繁殖していては、一度の火災でその種が絶滅する恐れもありますからね」
「それは、確かに。……では、植物自身が動けない以上、他の動物を利用して種を運ぶということですか?」
「そういうことです。食べられたら困る部分と、食べられた方が良い部分が植物には存在するのです。食べられたら困る部分には苦い毒を、食べられた方が良い部分には甘い栄養を。トマトの実なんか、鳥がよくついばみに来ませんか?」
「なるほど!」
ヤエ神官は、理解できた自然界の仕組みに、興奮した声をあげる。
「大変筋が通ったお話です! それで、トマトの熟した実……つまり、次代の種が完成した赤い実には毒がない、ということですね。そこは他の動物に食べてもらうための部分であるために」
「そういうことですね。ただ、全ての熟した実が食べられる、ということではありません。あくまで、種を運んでくれる動物がいれば良いわけですから、人間にはない耐性を持つ動物に食べられることにした植物もいるでしょう」
「ええ、そうですね。ですが、この場合のトマトは、以前には一般的に食べられていたという歴史があります。恐らく、現在栽培されているトマトと、同じものであるはず」
であれば、とヤエ神官は大きく頷く。
「トマトの赤い実には毒がない。これは非常に信憑性が高いお話です」
「ヤエ神官にそうおっしゃって頂けると嬉しいですね。実績として、私は村で食べていましたし、今日もついさっき食べて来ました。もう少し実験して、報告書としてまとめます」
「そこから先はお任せください。私が責任を持って、この神殿の評価にかけましょう」
学術機関の一面を持つ神殿の評価は、知識階級には非常に効果が高い。
農業改善計画についても、神殿からの「論理的であり、文献による根拠が十分に示されている」とのお墨付きがなければ、イツキ氏も承認にもっと躊躇ったことだろう。
ヤエ神官はその辺りを心得ていて、実に精力的に神殿内での評価認証を行ってくれる。
この制度を、我等がフォルケ先生は教えてくれなかったので、大変助かった。
「ありがとうございます。この件が上手くいったら、トマトを使った美味しい肉料理を作りますので、よろしければレシピをお使いください」
何に使うかは明言しなくともよい。
ジョルジュ卿の最近の食事情を知っている副官見習いとしては、明白だからだ。
「それは大変助かります。やはり、あの人もお肉の方が好きなようで」
「あの人」に隠しようのない熱をこめてはにかむヤエ神官は、もはや新妻に近い空気を漂わせている。
ジョルジュ卿はまだまだ及び腰の対応だが、ヤエ神官の積極果敢な攻勢によって着実に外堀を埋められているようで何よりだ。
ヤエ神官は、新たな攻撃手段の入手に気分を高揚させたのか、トマト王子の日記にぱらぱらと目を通す。
「そうですね。茎や花の料理と、記述がおかしくなった時期との関連性については、私でもまとめられそうです。こちらは私が素案をお作りして、アーサーさんとレイナさんで整えておきましょう」
「ヤエ神官のご好意に甘えさせて頂けるなら、お願いいたします」
やはり、好意には好意で返すべきであるな。
望んで得られた協力関係は、効率が桁違いに良い。
私もヤエ神官も、輝かんばかりの笑顔で頷き合う。