シナモンの祭壇17
さらに二月が経つ間、ベルゴさん達は、本当によくやってくれた。
堆肥化のために作った牧場近くの小屋の中で、畜糞の一部が堆肥として十分に熟成したのだ。
この時期に家庭菜園に堆肥を使えれば、夏の収穫物には間に合うはずだ。
収穫物は、ベルゴさん達にたっぷり差し入れようと考えている。
私もできるだけ顔を出して手伝っているが、堆肥化のための作業、あれは本当につらい。
畜糞(藁なども含む堆肥原料)は、微生物の力を借りて堆肥としての養分ができていく。
いつもどおり基礎知識が足りずに理解しきれなかったが、一部の微生物がアンモニアなどを分解して、窒素などの植物の養分にできる形に変えていくことはわかった。
その分解過程で、微生物は発熱する。その熱はまた、畜糞の中の寄生虫や病原菌などを殺してくれる。
つまり、この微生物は人類の農業にとって大変都合の良い味方だ。
この味方は、適度に空気に触れさせなければ、上手く活動してくれない。
そこで、私とベルゴさん達は、山盛りにした堆肥原料を混ぜ返して空気を内部まで届くようにしなければならなかった。
しかし、あまり頻繁に混ぜ返し過ぎると、温度が下がりすぎてしまい、微生物の活動が止まってしまう。
また、温度が上がりすぎると、堆肥としての成分が変質してしまうので、どこまでも適度に、適切に管理しなければならない。
そんな繊細な作業を、悪臭の漂う小屋の中、しかも堆肥原料が発熱するために蒸し暑い状況で行うのだ。
原料の中からは寄生虫さんがこんにちわってしてくるしね。
泣きが入りました。
見た目はともかく精神年齢が完全に成人の私が、本気で泣きが入ったのです。
ベルゴさん達が一緒にいてくれて、本当に良かった。
今では誠心誠意、作業の度にお礼を申し上げる仲です。
頑張ってくれたベルゴさん達と、何より自分自身に報いるために、私は気合を入れて寮館の家庭菜園に足を踏み入れた。
手には畜糞堆肥が詰まった壺をしっかと握りしめている。
ちなみに、もはや悪臭はない。
考えてみれば当然で、悪臭の源であるアンモニア(と思われる物質)を微生物が分解して窒素に変えているなら、悪臭はなくなってしかるべきだ。
これに気づいた時は、よくできていると感心した。
また、手で触っても、し尿が混じっているというべたついた感じはない。
さらさら、あるいはふわふわといった、良質な土と似た感触になっている。
前世の初等教育で芋を植えた経験がある。その時に使った肥料も、このような感触だったはずだ。
「ここまで、長かった……」
眼を閉じれば、村で畑に初めて立った時から、ここまでの記憶が蘇ってくる。
家畜の力もなく、人力で、しかも質の悪い農具で耕さなければならないと知った時の茫然とした感覚は、今でも鮮明に思い出せる。
初めて収穫量を眼にした時の、労力の全てが雨に流されていったかのような、絶望感。あの時思わず見つめた自分の手は、畑仕事でひどく荒れて傷んでいた。
ユイカ夫人に読んで頂いた物語から奮起して、改めて何とかしてやろうと畑に向かい、しかし、できることが何もなかった、無力感。頭のてっぺんから爪先まで、凍えるような冷水を浴びせられた気分だった。
さらに、さらに……なんだかんだで思い出すのはつい最近の堆肥化作業中の有様ばっかりだけれども!
とにかく、ここまでやって来たのだ。
隣では、マイカ嬢が興味深そうに壺の中身を触って確かめている。
「おぉ、本当に良い土みたいになってるね。調べたとおりなんだけど、元を知っているとびっくりだね!」
マイカ嬢の言葉は、溌剌としている。
元が何かを知りながら触れるのは、中々に逞しいと思う。
「ええ、この状態なら、十分に目的の堆肥になっていると思います。後は、使って確かめてみなければなりません」
なお、畑仕事の手伝いはマイカ嬢だけだ。
というのも、やはり畜糞堆肥が禁忌とされているため、都市の未来を担うべきレイナ嬢、何かしら大きな事情がありそうなアーサー氏は、実務には携わらないようにと念押しされている。
本当は、マイカ嬢にも控えてはどうかと伝えられているのだが、彼女は気にする風もなく私の隣にいてくれる。
「では、早速やってみましょうか、マイカさん」
「うん! 任せて、計画書は何度も読み返してきたからね!」
打てば響くとは、こういうことを言うのだろう。
そんな幼馴染に、素直に言葉が出てくる。
「いつも、ありがとうございます、マイカさん」
「え? えへへ、どういたしまして!」
頬を上気させて笑いながら、マイカ嬢は自分の前髪をいじりつつ応える。明朗快活な彼女だが、やはり真っ直ぐに感謝されるのは恥ずかしいようだ。
かくいう私も、自分でも思いもしない率直な言葉に少々面はゆい。
「でも、これくらい全然! あたしの方がお礼を言わなくちゃいけないくらいだもん」
「マイカさんにそう思って頂けているのは、嬉しい限りです」と、いつもならそう返すところで、私はただ微笑んだ。
なんとなく、それだけで良い気がした。
本当に付き合いが深くなったのだろう。
考えての言動ではなかった。なんとなくだ。
本当になんとなく、いつもと違う形の方がよく伝わりそうだと思っただけ。
だから、その後も何もなかった。
マイカ嬢は、ちょっと驚いた顔で私を見つめた後、いつも通りに笑う。
「じゃあ、やろうよ」
「ええ、やりましょう」
さて、苦労の末にできたこの堆肥を、ただ土にぶちまければ良い。
などということは、当然ない。
肥料は、自然界に存在しない濃度に達した栄養素を持っているので、量を加減してやらないと逆に植物が傷んでしまうという。
これを書物は肥料焼けなどと呼称していたが、言い得て妙だと思う。
冬に必須の暖房も、加減が過ぎれば火傷するように、栄養も加減をしてやらねば傷つけるのだと理解しやすい。
今回の畜糞肥料は、まさに効果が強すぎると思われるので、どちらかというと薄めるように使わなければならない。
薄めるといっても、水で希釈するなどではなく、時間で希釈するのだ。
作物を植える前の土にまく。すると、土に堆肥が持つ栄養素が馴染んでいき、丁度良い塩梅に落ち着く。
「こんな感じだよね?」
手首が入る程度の穴を掘って、そこに堆肥を入れたマイカ嬢が確認してくる。
「ええ、それで大丈夫です。……とはいえ、私も本当にこれで良いかどうかは実際に試してみないことにはなんとも言えないのですが」
あれだけ文献を調べておいてなんだが、結局はやってみなければわからないことがほとんどだ。
それというのも、堆肥の使い方が実にこと細かく分かれていたからだ。
現在の土壌の環境から、使おうとしている堆肥の成分、植える作物、施肥の仕方、その季節の天気まで、複数の要素が関係してくる。
もちろん、限られた紙面でのこと、全てについての記載はなく、何より今の私達には計測できない事象が多すぎた。
土壌や堆肥の成分なんて、どうやって調べればいいかわからない。
酸性かアルカリ性かくらいなら、何とかできそうだけれども。
計画をまとめた時点でこの悩みを共有していたマイカ嬢は、私の情けない返答に、苦笑で同意してくれる。
「堆肥を作るのは大変だったけど、そこから先もまた大変だなんてねぇ」
「全くです。自然に手を入れるというのは、思った以上に大変なのですね」
前期古代文明は、土壌の成分分析まで行えていたようなので、前世同様に、先人達の偉大さを感じる。
私達が調べた一冊の本でさえ、一体どれほどの人生の上に編纂されたのだろう。
著者や編集者の一人二人では収まらない。
長い歴史の中で、名も顔も知らぬ人々の、とある成功、とある失敗、その膨大な連なりがあったはずだ。
私は、その受け継がれた連なりの、最先端にいさせてもらっているのだなと思うと、ただの土いじりがえらく楽しい。
家庭菜園なので、手をかけられる面積が狭いことが残念でさえある。
昔は、畑仕事というだけで逃げ出したくなっていたというのに、私も大人になったということだろうか。
隣を見れば、マイカ嬢も楽しそうにこちらを見ていた。
農村を出て以来の農作業が、懐かしいのだろう。
二人でにこにこしながら作業を進めていると、同年代の五人組がこちらを遠巻きにうかがい始めた。
雰囲気は粘着質だ。堆肥原料並に粘着質だ。
露骨にこちらを見ながら、ひそひそと会話をしては、嫌らしい感情を乗せた笑いを漏らす。
所詮は貧乏な田舎者だとか、家畜の糞便が似合いだとか、不潔で低劣で軍子会の品位が云々だとか。
潜めているくせに、ばっちりこちらに聞こえるように話しては笑っている。
困った子達である。
ほら、マイカ嬢のせっかくの笑顔が、急転直下で不機嫌になっていく。
私?
中身が中身ですから、子供の戯言程度で怒ったりはしない。復讐プランを組み立てるだけで解消できる程度に大人ですよ。
五人組は、都市内有力者の子息モルド君を中心にしたグループである。
個人的な感想だが、典型的な苦労知らずで育った子供だと思っている。自分が一番でないと不機嫌になる辺りが、そう感じさせる。
彼等にとって不幸なことに、今期の軍子会では文武共に一番になれていないので、彼等は始終不機嫌だ。
文では農業改善計画立案組がトップだし、武ではマイカ嬢と今期一番体格の良いグレンという少年がトップ争いをしている。
そういう子供らしいプライドの傷が、モルド君ご一行の非生産的な行動の原因の一つだ。
悪口スキルの経験値稼ぐくらいなら、素振りの一つ、読書の一つでもすれば良いのに。
原因のもう一つ?
村に引き続きマイカ嬢がモッテモテだからですよ。流石はユイカ夫人の愛娘、礼儀作法が完璧な一方で、気さくで愛想が良いので、都市でも人気者だ。
同じくらい人気なのは、レイナ嬢である。こちらはちょっと規則に厳しいところがあるが、面倒見が良く、頼もしいお姉さん的な扱いで人気がある。
モルド君ご一行も、他の例にもれず二人を意識しているのだが、アピール方法が不器用すぎるというか、どうしようもなく間違っている。
まあ、思春期男子にそんなことを言っても無駄ではあろう。
好きな子に意地悪したいお年頃ですもんね。
ただ、同じくマイカ嬢を意識しているグレン君なんかは、武術の鍛練という真っ直ぐな努力でアピールしているので、モルド君達に明るい未来はない。
マイカ嬢も、グレン君には好印象の様子である。
恋愛方向の評価というより、強敵と書いて友と読む方向での評価っぽいけれど……。
そんなわけで、モルド君ご一行に対する私の怒りや呆れは、可哀想にという憐みに変換される。
現在進行形で陰口を聞かされていると、怒りメーターも溜まるけどね。
早くどこか行かないだろうかと思っていると、マイカ嬢がご立腹の顔を寄せてくる。私より先に限界に達したようだ。
「アッシュ君、あいつらいい加減になんとかしないと駄目だと思う」
「駄目ですかね。相手にするほどの害はないと思いますよ?」
「だって、あんなにアッシュ君のこと馬鹿にして」
頬をふくらませてぷりぷり怒るマイカ嬢が、ちょっと可愛い。
村でもこんなことあったなと思い出す。ジキル君は元気に猟師見習いをしているだろうか。
懐かしい記憶に和んでいると、マイカ嬢が溜息に混ぜて怒りを排出した。
「はあ……アッシュ君って、本当にすごいよね。こういうので全然怒らないんだもん」
怒っていないのではなく、怒りを表現する手間も惜しいので、流しているだけです。
そうだ。ひょっとすると、この先マイカ嬢の役に立つかもしれないので、自己流ながら怒りを抑えるコツを教えておこう。
私よりマイカ嬢の方が社交界に近いわけで、それはもう色々と腹立たしいことがあるに違いないですからね。
「正直なところ、私はあの人達が何を言っているか、ほとんど聞いていませんからね」
「そうなの? え、アッシュ君、あいつらのこと無視してたの?」
「ええ、聞く価値のあるお話がないのですよね」
悪口というのはどうしても耳に入ってきてしまうので、人情として完全に無視することはできていない。
ただ、意識して、「羽虫が飛んでいるような雑音」と処理するようにしている。
気に障るけど、虫が相手だし、相手にしても仕方ないというスタンスだ。
「結構ひどいね……」
「そうですか?」
「うん。普通に怒鳴り返すよりひどい気がする」
やり返すより平和に日々が過ぎるんだから良いじゃないですか。
「話し合う気がある人となら、口の悪い批判をされてもきちんと向き合う必要があるでしょうけれど、ただ言いたいことを言うだけの人なら、真面目に相手する必要はないと思うのですよ」
「言いたいことを言うだけの人かぁ」
マイカ嬢が、尽きることなく口を動かしている五人組を見やる。
「確かにそんな感じかも。こっちが何か言っても、あいつらがやることは変わらないもんね」
「彼等が言っていることといえば、つまり自分達が気に入らないという好き嫌いですからね。嫌いなものはそうそう変わりませんよ」
会話を続けるためのアクセントとしてならともかく、一方的に他人の好みなんか聞かされたって、どうでもいい、より好意的な感想の持ちようがない。
「好きな人の好みなら話は別ですけどね」
「そ、そうだね! それは確かに気になるもんね! あたしはアッシュ君のハンバーグが好きだよ!」
「ふふ、今度また作りますね」
まだまだ育ち盛りということか、マイカ嬢がこくこく何度も頷いて喜んでくれる。
「ともあれ、そんなわけで、毒にも薬にもならない……というより、毒にしかならないと言う方が正しいですね。そんな言葉は、相手にしても時間がもったいないです。うるさい羽虫が飛んでいるなぁ、程度で十分です」
こちとらやりたいことが山ほどある身なのでお付き合いしかねる。
ただ文句を言いたいだけなら、その辺の大自然が飽きることなく付き合ってくれるだろう。
自然は雄大だ。
「なるほど。アッシュ君が、外からどう思われても気にせず驀進する理由がわかったよ」
「え? いえ、悪口以外は結構気にしているつもりなのですが?」
私の意見は、マイカ嬢に無視された。
羽虫がうるさいなぁ程度にしか思われなかったのかもしれない。
「でもね、アッシュ君はそれで良いと思うかもしれないけど、やっぱりあれはあれで問題だと思うの」
五人組のあれに、マイカ嬢は突き刺さるような視線を送る。
「まあ、全く問題がないとは私も思いませんが……」
放置した場合より、相手にした時の方が面倒な気持ちが多いので、言葉が重たくなる。
「うん、アッシュ君はこういうのに手間をかけたくないんだなってよくわかった」
大丈夫、とマイカ嬢は力強く頷く。
「あれの相手はあたしがするよ」
溌剌とした幼馴染の笑顔に、ちょっとぞくっとしました。