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フシノカミ  作者: 雨川水海
シナモンの祭壇
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シナモンの祭壇15

 大瓶の中で、白濁した液体がぼこぼこと泡を立てている。

 私はそれを、白布をマスク代わりにしてじっと見守る。


 我ながらちょっと怪しいと思う。

 これが真昼間の庭でなく、夜の洞窟で行われているなら、魔女狩りが始まっても納得してしまうほどだ。


 今日は天気が良くて幸いだ。かなり怪しさが緩和されていると思う。

 何も知らない人が見ても、気の良い魔女が世のため人のためになる薬を作っているように見えるだろう。


「なにを、しているのです?」


 だというのに、リイン夫人から警戒心をたっぷり含んだ声を投げつけられてしまった。

 見れば、常に姿勢正しく冷静な侍女が、後ろに仰け反るように身をしならせている。引いているらしい。


「いえ、大したことではないのですが」


 だから、そんなレアな姿を見せなくて大丈夫ですよ。

 そんな私の微笑みに、リイン夫人はゆっくりと、しかし万力のごとく力をこめて首を振った。


「アッシュさん、あなたの為すことはおおよそ、余人にとっては大したことに該当するのですよ」

「そんなそんな、買いかぶりですよ」


 リイン夫人が冗談を仰るとは珍しい。

 軽く流した私に対し、リイン夫人はそっと目をそらした。


 リイン夫人の視線が行きついたのは、最初から見学していたレイナ嬢だ。

 リイン夫人よりも付き合いの長いレイナ嬢なら、母親の冗談を笑って訂正してくれるだろう。


「お母様の言うとおり、アッシュのやることはほとんど、大したことよね」


 レイナ嬢も、ゆっくりと、しかし万力のごとく力強く首を振る。

 そうですね。

 レイナ嬢とはここ一ヵ月ほどのお付き合いに過ぎません。ちょっとした勘違いはやむを得ないでしょう。


 レイナ嬢の視線はそのまま、同じく隣で見学していたアーサー氏へ。

 アーサー氏なら大丈夫だ。

 付き合い自体はレイナ嬢と同程度だが、なにせ相部屋の相手である。過ごした時間の密度が違う。


「二人の言うとおりだよ。少なくとも今回も、大したことをやっているよ」


 ゆっくりと、しかし万力のごとく力強く振られる首。

 やはり、一ヵ月という時間は短かったのだ。この短期間で分かり合えるなら、世界から争いはきっとなくせる。


 そうなれば、最後の希望は安心と信頼のマイカ嬢である。

 なんだかんだで物心ついた頃からの顔馴染みであり、共に学び、共に試した仲。マイカ嬢ならば、過つことなく私を理解してくれている。

 これは絶対だ。


 アーサー氏の視線を受け止めるマイカ嬢は、他の面々と違って私のすぐ近くで、同じく白布マスクを身に着けている。

 彼女には、私の手伝いとして、大瓶の中の反応を記録してもらっている。

 ほら、もうこの段階からして違うではありませんか。私の良き協力者にして良き理解者なのです。


「ふふ、皆まだまだだね。アッシュ君のことをちゃんと知らないんだから」


 眼を楽しそうに細めて、マイカ嬢は自慢げに己の見解を披露する。

 言ってやって下さい。


「おおよそとか、ほとんどとか、そんなんじゃまだまだ付き合いが浅いよね。アッシュ君は、やること全部が大したことなんだから」


 マイカ嬢、貴方もか。


 しかし、全部って。

 百歩譲ったって百パーセントは流石に言い過ぎだ。他の三人も、やっぱりかーという顔をなさってらっしゃる。

 否定しなさいよ。

 説明が必要だ。このままでは、村のびっくり特産品扱いが、この都市の中で定着してしまう。


「あの、皆さん、少々話を盛りすぎですよ。私はただ、計画書に記載した通り、衛生管理に使う消耗品の加工をしているだけですから」


 ちゃんと皆で作った計画書にあった実施手順を踏んでいるだけなのだ。

 そんなに心理的距離を取らないで欲しい。

 これ、皆の共同プロジェクトですよ?


 私が仲間を見る眼で訴えると、マイカ嬢以外のプロジェクトメンバー、レイナ嬢とアーサー氏が同時に否定する。


「確かに、汚物を扱うのだから、清潔さを保つべきとはまとめたわね。一般常識的にも、書物で裏付けを取った限りでも、清潔にする手段が必要だと記したことは認めるわ」

「でもね、アッシュ。君が今作っている消耗品っていうのはね、王都でも滅多に手に入らないというか……流通している品の大半が王室専用にされているっていう代物なんだよ」


 それは流通していると言って良いのだろうか。

 アーサー氏の発言に、リイン夫人がなおさら不安そうに眉を寄せる。


「アーサーさん、王室が独占するような希少品が、ひょっとして……ひょっとしてですが、今目の前で作られているのですか?」

「ええ、残念ながら」


 ひょっとするも何も、アーサー氏の言い回しからはそうとしか読み取れない。

 リイン夫人はお疲れか。

 王家が独占しているなんて話は初めて聞いたが、同時に納得もできる。だって、都市にもなかったんだもの。

 石鹸。


「石鹸!?」


 アーサー氏とレイナ嬢から何が作られているか聞いたリイン夫人が声をあげる。

 普段は聞けない声量だ。


「おおげさですよ。ただ体や服を綺麗にするだけのものですよ」


 私が用途の他愛無さを説明すると、アーサー氏だけが、そうだね、と苦笑を返してくれた。

 リイン夫人が絶句しているように見えるのは、多分気のせいだ。

 レイナ嬢が遠い目をしているように見えるのも、絶対に気のせいだ。


「あ、アッシュ君、反応? が、終わったみたいだよ」


 マイカ嬢がご機嫌で私の補助をしてくれる。

 ここから先は気を付けて扱わなければならないので、私は外面をなげうって、石鹸製作に集中する。

 ごぽごぽと音を立てていた白濁の液体は、焼いた卵の殻と水が反応したものである。


 卵の殻を高温で焼くと、生石灰という物質になる。

 この生石灰を水につけると、化学反応によって百度以上の熱を発して、消石灰と呼ばれるものに変化する。この時点で消石灰(及びそれが溶けた水)はアルカリ性になるので、目や肌に付着しないように注意が必要だ。


 この水溶液に、厨房から失敬してきた薪の灰を溶かした水を入れると、さらに反応して苛性カリという物質になる。

 アルカリ性がさらに高まって、ますます危険になった。

 この状態の水を浴びると、人間が石鹸になるくらい危険だ。


 石鹸は、この苛性カリ水溶液と獣脂や植物油を混ぜると(苛性カリを使った液体石鹸の場合は温めないと上手くいかないが)できあがる。

 そして、人間の皮膚から下には、たくさんの動物性脂肪がある。

 つまり、苛性カリ水溶液を頭からかぶれば、頭から石鹸になっていくというわけだ。


 お分りいただけただろうか。

 私は大分わからなかったけれど、書物にはしっかりそう書かれていた。

 そして、実際に試してみた結果、粘性のある液体石鹸ができたので、書物は正しかったのだ。

 実験する気はないが、人間石鹸もその通りできるのだろう。恐ろしい。


「よし。じゃあ、これをいつも通り自分で人体実験して、問題ないか確かめましょう」


 ここまで来るのは、本当に長かった。


 実は、村にいた時から石鹸の製造方法はわかっていたので、すぐにでも作りたかったのだ。

 前世らしき記憶では、毎日お風呂に入っていた私である。

 日がな一日、土を耕して汗をかき、森に一週間こもった後などは、水浴び程度しかできない環境に身悶えしたものだ。


 だが、石鹸は作れなかった。

 そもそも、生石灰を作れなかった。原材料が村では野鳥の卵くらいしか手に入らなかったし、それを焼くに足りる高温を手に入れる方法がなかった。

 必要な温度は水の凝固点を零度として、およそ九百度。確か銀がこれくらいで溶け始める温度だったと記憶している。

 そんなもの、粗末な竈で薪を燃やすくらいで出せるわけがない。


 都市に来て木炭も目に付くようになったが、それでも家庭用設備ではとても足りない。

 ジョルジュ卿の手伝いで赴いた、都市内の鍛冶や陶芸の工房設備であれば可能だったが、大事な仕事の道具、それも超高級設備である炉や窯に、「卵の殻を入れて焼いてくれませんか」とは冗談でも言えない空気だった。

 言おうものなら、私の身が九百度を体験しただろう。それは察した。


 そこで、農業改善計画の、領主代行殿直々の許可である。

 きちんとお金を積んで、領主代行殿の影をちらつかせた結果、快く炉や窯の本業の片隅で卵殻を焼いてくれた。


 快い返事の前に渋られた点については、後日、念入りにお礼に参る所存だ。

 今後の協力のため、感謝の念を持ってじっくりとお話ししましょう。


 泣けるほどじっくりとな。


 私が高温の青白い情熱を燃やしていると、アーサー氏が困ったように半笑いの表情で液体石鹸を指で触れて確かめている。


「この感じ、本当にできてる……。ロイチェ家が秘匿している製法が、こんなあっさり再現されるなんて……」

「ほほう。王都で出回っている石鹸は、そのロイチェ家の方が生産したものですか」


 どんなレシピで作られた石鹸か興味深い。

 単純に石鹸を作るだけなら私にもできたが、植物脂をどんな比率で使うかとか、獣脂はどれを使うかとか、香料として何かを混ぜるとか、色々と個性ある石鹸が作れるのだ。

 今のところ、私の得意技である蜂蜜かアロエ辺りを使った石鹸はどうかと思っている。

 この二つは村経由で入手しやすい上に、やたら体に良さそうなイメージがある。


「ロイチェ家は、石鹸の販売を独占することでのし上がった豪商だって聞いたんだけど……」


 ちょっとアーサー氏の呟きを聞きたくない。

 なんだってんですか。

 たかが石鹸の製法が、一国の首都で豪商になるくらいの金の卵とか、知識が死蔵されすぎてないですかね!


 豪商というくらいだから、金銀宝石とか商っていて欲しい。

 まあ、歴史上、後の世からしてみれば、どうしてそれで利益が生まれたのだという商品はある。

 スパイスとか、茶葉とか、豆とか。


 しかし、石鹸とはそれいかに。

 どうしてその製法を秘匿できた。

 なぜ周囲の人間は探ろうとしなかった。

 内部の人間だって情報を持ち出して一旗あげるとか王道の混乱はなかったのか。


 事が思ったより重大なものだった気がしないでもない私は、そっとリイン夫人の反応をうかがう。

 そこには、死んだ魚のような眼で、私――ではなく、液体石鹸を睨んでいる夫人の姿が。


「どのようにご報告をあげれば良いのでしょうか。下手をすれば、王都の豪商との関係がこじれる恐れが……」


 そんな母の姿を見た、レイナ嬢の視線が私に手厳しい。

 私のせいではないと私は信じているけれど、私が謝るのが一番角の立たない気がする。


「とりあえず、クレープでも作りましょう」


 リイン夫人の受けが良かった食べ物で励まそう。

 人間お腹が満たされれば、大抵の悩みは解決するという。それが好きなものならなおさらだろう。

 リイン夫人には、まだまだ頑張ってもらわなければならない。


 そうそう、固体石鹸も作りたいんだった。

 持ち運びには固体石鹸の方が優れているだろうし、保管もしやすいだろう。

 そのためには海藻がいる。イツキ氏へ報告をあげるついでに、その辺の入手手段がないか聞いてもらおう。


 リイン夫人に。


 王都の豪商とか、その辺は私の権限外なので、為政者の皆様のよろしいようにお取り計らい頂こう。

 ただし、二度と作るなと言われたら……大分制限を解除したお話し合いが必要だろう。

 全力全開だってしてやりますよ。

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― 新着の感想 ―
[一言] >スパイスとか、茶葉とか、豆とか スパイスは食料保存の方法が少なかった時代故という部分はありますねー 多少食材が傷んでいてもスパイスで気にならなくなるという…… いや実際に防腐効果もあるんで…
[一言] 確かドイツが主導して人間石鹸は作られたはず。 アウシュビッツでユダヤ人からだけど。 あいつらマジ鬼畜な。
[気になる点] にんげんってせっけんになれるんだー((((;゜Д゜)))))))
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