灰の底4
前期古代文明の文字は、現在使われている文字と共通項がある。これは多くの研究者が同意する意見らしい。
現代文明とつながりのある後期古代文明が、前期古代文明から知識を引き継いだというので、これは不思議なことではない。
ただ、前期から後期、後期から現代と時を経るごとに、失われた文字があるのだ。これも不思議なことではない。
表音文字の場合、話し言葉が訛っていくうちに、昔は区別していた発音が区別されなくなって消失することがある。「え」と「ゑ」と「へ」の三文字は、発音の区別がされなくなったりするのが良い例だ。もちろん、その逆に新たに増えることもある。
今回の問題は、前期古代文明との間で失われたらしい文字が、大量だということだ。
もしかすると、発声器官の形状でも大きく変わったのだろうか。
古代人はトカゲ型とかタコ型で、現代人では発音できないような特殊な音を使い分けていたのではないか。それくらい前期古代文明の文字は、現代と比べて多い。
しかしながら、そんなことはまずないと思うのだが……。
畑の雑草をぶちぶちと抜きながら、私は頭を悩ませる。
「どうだ、アッシュ。本にこんなことができるか」
隣で雑草を抜きながら、父ダビドがうるさ――もとい、熱心に説いている。
「本なんか読んだって、春の麦が増えるわけじゃないんだ。そんなことをする暇があったら、こうして畑の面倒を見る。それが立派な男というものだ。うちは代々そうしてきたんだ」
実に偏狭――ではなく、一本気な父である。
あと、代々と言ってはいるが、確か大叔父だかに、都市で軍人を始めた人物がいると、父が自慢気に語ったことがある。
別に、一族の誇りで農家をやっているわけではない証拠だ。多分、それ以外に能がなかったのだろう。
とはいえ、軍人と比べて農家が悪いと考えているわけではない。文明社会に必須の重要な職業だ。私は深い学識と広い寛容でそう理解している。
「確かに、本を読んでも畑は良くなりませんね」
「そうだろう! 本なんか無駄なんだ! 怠け心の源だ!」
ただ、父の方が、本に対して理解してくれないだけだ。
いつか絶対に後悔――ではなく、説得してみせる。
適当に相槌を打って、父を転がしながら、私は黙々と畑の世話をする。
ところで、興味深いことに、この村で行われる農業は科学的だ。
村人の会話や物質事情からうかがえる文明レベルを考えれば、不思議なほどに、科学的だ。
私も農業に格別詳しいわけではないが、この村では輪作をしている。それも、かなり進んだ発想である、輪栽式農業と呼ばれるものを使っている。
どんなものかというと、まず、畑を異なる収穫物を植える区画に分割する。
ある区画には、晩秋に冬麦を植えて、春にこれを収穫。また別の区画には、カブやジャガイモの類を植えて、初夏にこれを収穫。さらに別の区画では、豆類と夏麦を植えて収穫する。
そして、次の年には、区画に植えるものを、別な区画と入れ替える。そういう方式だ。
記憶違いでなければ、この農法は比較的近代に主流になったもののはずだ。
もちろん、地域によっては、長い経験から同じ農法を編み出して使っていたところがあるはずだから、辺境の農村で行われていても、ありえないことではない。
が、父の思考停止っぷりを見るに、それよりも説得力のある仮説が浮かぶ。
これ、古代文明が使っていた農法なのではないだろうか。
二つの古代文明がどうやって滅んだのかはわからない――いや、片方は魔物が滅ぼしたらしいんですけど魔物が原因の滅亡ってなにそれ――が、こうして現代まで名残があるのだから、一部の人々は生き残ったのだろう。
その中で、多くのものを時の暴君に奪い去られつつも、食を支える営みは守られた。
そう考えると、この九年間で見聞きした色々なところに、妙に進んだ概念が見受けられる気がする。衛生だとか、医療だとか、物資と技術が圧倒的に足りていないが、少なくとも見当はずれに暴走はしていない。
古代文明の遺産に、がぜん期待が持てる。
前世らしき記憶にある、もはや届かぬと思われた贅沢な日々。その一部だけでも、わずかなりとでも取り戻せる希望。
「これは、是非とも古代語の解読をしなければ……」
この前は、夢を見過ぎるのは良くないなどと大人ぶったことを言った。
だが、今の私は紛れもなく九歳の子供にすぎない。大いに夢を見ようではないか。
というより、現実世界が絶望的すぎるので、期待外れに終わって絶望したところで大差ない。
致死量の毒を飲み干した後に、「もう一杯毒盛って良い?」と言われたところで結果が変わらないのと一緒だ。例えはちょっとおかしいかもしれないが、そんな気分だ。
どうせこの農村レベルの社会事情では、長生きできない。
我が父だって二十代半ばらしいが、その年齢より十歳は年上に見える。四十代になれば立派な老人扱いで、六十代の人間は化け物扱いである。
今世は短い。精一杯夢を見て、全力で追いかけて、思い切り前のめりにくたばってやろうではないか。
よし、前向きに絶望してきたぞ。
胸の震えは情熱に燃えているせいだ。決して、悲しみに涙がこみ上げているわけではないということにしておいてください。
「よし! アッシュ、いったん休憩にするぞ!」
ようやく休憩だ。体が未熟な子供に、この労働量はつらい。腰がバキバキいう九歳児なんて前世じゃ考えられないぞ。
私は背伸びをしつつ、作業のお供にしている木の枝で足元に印をつける。
ここまで作業をしたという目印だ。父も同じようにしているし、他の農民もこれを使う。
ただ一本線を引けば良いと言うわけではなく、なにかのシンボルのようなものを書く。本嫌いの父曰く、古くから伝わる畑が良くなるお呪いなんだとか。
お呪い――こういう非合理的な風習の方が、この村本来の文明レベルなのだろう。
しかし、このお呪いは、私も嫌いではない。
これだけ生活が厳しいと、根拠がなくとも安心感を与えてくれるものというのは、どうしても必要だと思うのだ。それが、このように無害な形であることは素直に好ましい。
生贄の血を捧げる的な野蛮なものだったら、ちょっと私は今も生きている自信がない。
だから、私はこのお呪いが好きなのだ。
「ん?」
優しい気持ちでお呪いの印を見ていると、ふと思いついた。
これ、ひょっとして文字の一種だったりしない?
「ほほう?」
自分の唐突な思いつきに、自分で感心する。
古代文明から伝わったかもしれない農法。その農法を実践する農民が、古くから受け継いだというお呪いも、古代文明の名残だったりする可能性。
前提条件からして大分怪しいが、他に手がかりもないのだし、ちょっと遊ぶつもりで考えてみよう。
文字だとして、一体何を表す文字なのだろう。豊穣関係の呪いだというのだから、豊かとか祝うとか、あるいは不作から守るとか、そういった意味を持っているのだろうか。
もしくは、お呪いなんて関係なく、作業の終わりにつけるのだから、ここで終わり、とか。
この短く簡素な印一つに、そこまでの意味が?
何かの言葉の省略形だろうか。それとも、長い年月の間に、本来の印の一部分だけに削られてしまったのだろうか。
長い正式名称の代わりに、頭文字だけで会話をするというのは良くある。あるいは、元は複数の文字であっても、短く合成された可能性もある。企業のロゴマークなんかは、会社の頭文字を合わせて一つの記号のように使っていた。
ロゴマークの場合、本来なら表音文字の組み合わせであるのに、そのロゴマーク一つで長い会社名を表せるあたり、絵や図形に近い、表意文字に分類したくなる。
こうなると、可能性が多すぎて収束できない。
現状での解明は、私の手に余る。
だが、思考の過程で一つ思いついたことがある。
フォルケ神官の見せてくれた、あの前期古代文明の本。現代語と比べて、多すぎる文字の種類についてだ。
ひょっとして、表意文字と表音文字が、組み合わさった言語だったりしない?
「ひらがな」と「漢字」みたいに。