シナモンの祭壇7
できました。
対人精神干渉型化学物質、クレープ!
ちょっと小型の生地に切り分けて、ジャム、クリーム、蜂蜜、リンゴを多彩に組み合わせたものを大量に用意してみました。
非殺傷ですので安心してお召し上がれ。
なお、マイカ嬢とヤック料理長(材料や薪代を融通してもらったお礼の味見)から賜ったご評価は、最高、の一言だった。
たった一言だが、満腔の称賛がこめられていたと思う。
ヤック料理長は、ぜひ領主館でも振る舞いたいとのことで、レシピを提供することになった。
レシピくらいでよろしかったら、どんどん持って行ってほしい。本職の料理人として、より美味しいものに改良して味見のお返しを期待している。
さて、そんな凶器をお盆に載せて、マイカ嬢とレイナ嬢の寮室にお邪魔する。
「あら、マイカにアッシュ」
「はい。お邪魔してよろしいですか、レイナさん」
紳士の嗜みとして、入室の許可をうかがうと、こっくりと頷きが返る。
「どうぞ。二人とも、お休みは堪能している?」
新作甘味を食べてご機嫌のマイカ嬢が、とっても、と晴れやかな笑顔で即答した。
あまりの力強い肯定に、レイナ嬢がちょっとびっくりしている。
「そ、そう。なんだか、良いことがあったみたいね?」
「そうそう、とっても良いことがあったの! だから、良いことのお裾分けはいかが?」
お盆の上の布を取って差し出すと、室内に甘い香りが漂う。
レイナ嬢の生真面目な目元が、思わず、といった風に緩んだ。
「良い匂い……。でも、なにかしら、これ。見たことのない、お菓子、だわ?」
「まあまあ、難しいことは後にして、まずは食べてみてよ」
「え? あっ、いえ、でも……」
レイナ嬢は、嬉しそうに目を輝かせた後、瞬速で伸びかけた手を引っ込める。
おや。簡単に飛びつくと思ったのだが。この罠に。
「どうしました? ヤック料理長にも味見をして頂いていますから、安心して食べてもよろしいかと思いますが」
「あ、いえ、そういった心配をしているのではなくて……お母様から、あまり簡単に贈り物をもらうなと注意されているの」
ほほう。手強いな、レイナ嬢のお母様。
だが、この香ばしい匂いに耐えられる女性が、果たして存在するかな。
すでにレイナ嬢の視線はクレープに釘づけだ。見つめまいとするも、つい視線を送ってしまい、いけないと首を振る姿は実に可愛らしい。
あと、その真面目さはとても好感度が高いです。
「なるほど。素晴らしいお母様ですね。確か、レイナさんのお母様は、この寮の管理を任されているのでしたか」
「え、ええ、そうよ」
「なら、そうした心配をなさるのも当然かもしれません。レイナさんを通して、便宜を図ってもらおうと考える不逞の輩が現れないとも限りませんし」
「そうなの。お母様からも、そう注意されたわ。そういった不心得者は、必ずいるからと」
「ええ、わかります」
まさに、あなたの目の前にいますからね。
マイカ嬢の笑顔がちょっと硬い。そこで企みを顔に出しちゃいけません。
「マイカさんも、注意しないといけないかもしれませんね。マイカさんも、領主一族の出なのですから」
「あ、う、うん。そうだね、本当だね」
これで、マイカ嬢の顔の強張りが、我が身を省みて引きつった、と誤魔化せるだろう。ついでに、レイナ嬢を買収する必要がない繋がりを持っていると、示したつもりだ。
それを理解してくれているかどうかは、レイナ嬢次第だ。
あと、嘘かどうか気づくかもレイナ嬢次第だ。
「まあ、ご心配はわかりました。お菓子程度も簡単に受け取らない、立場がある人物のそういった態度は、大変立派なものです」
心底そう思います。賄賂を受け取らない清廉な人物。そういった方に政治をお任せしたい。
「ありがとう。そう言ってくれると、嬉しいわ。……アッシュって、なんだか年上みたいね」
「レイナちゃんもそう思う? そうなんだよねぇ、アッシュ君、昔からすっごく大人っぽくて」
心底立派な態度だと尊敬するけれど、私は貴方をどうあっても買収したいのです、レイナ嬢。
「では、こちらは残念ながら贈り物にはできなくなってしまいましたね」
大袈裟に嘆息をついてみせると、レイナ嬢も名残惜しそうに出来たてのクレープを見つめる。
「ええ、ごめんなさい。お母様に、こういったものはもらってもいいものか、聞いてみるから……。本当に美味しそうなのに」
レイナ嬢の喉元が動く。
そうだろう、そうだろう。できるものなら食べたいだろう。ふふふ。
「さて、レイナさんにお裾分けできないとなると、こちらは残念ながら処分しなければなりません」
「あ、捨てるくらいならあたしがふも――!」
余計なことを言いかけたマイカ嬢の口を、左手を伸ばしてふさいでおく。
「ただ、せっかく作ったものですし、砂糖やバターなど中々高価なものを使っているものですから、捨てるというのはもったいないですよね、レイナさん」
「そ、そうね。焼いているから、薪も使っているのよね?」
「ええ、そうです。こんな無駄遣いをしては、レイナさんのお母様も、きっと怒ってしまわれるのではないでしょうか」
「え? ええ、そうかも、しれないわね。そういったことに厳しいから」
それならば仕方ありませんね。
「レイナさん、こちらのお菓子の処分を手伝っていただけませんか? 無駄遣いをなくすため、私達を助けると思って」
「え? え?」
話の切り替えに混乱しているうちに、ずいっとクレープを差し出す。
「さあ、これは贈り物ではありませんから。余りものの処分のお手伝いですから」
「で、でも、いいの、かしら?」
「大丈夫ですよ。レイナさんが食べないと捨ててしまうものなんですから、これで便宜を図ってもらおうなんて考えていませんから」
次に食べたくなった時のために、私と仲良くしたくなるかもしれないだけだから。
ぐいぐいクレープのお盆を押し出していくと、絡みつく香りに我慢しきれなくなったのか、レイナ嬢の唇から降伏の一言が漏れる。
「そ、そういう、ことなら……いい、わよね?」
「ええ、良いですとも」
下心はたっぷりあるけれど、悪意はまったくないわけだし、安心してこの罠にかかってくれたまえ。
「じゃ、じゃあ……いただきます」
ほっそりした指で、小さなクレープをひとつまみ。
頬張った瞬間、この生真面目な少女の最期だった。
「おっ――――!?」
目を見開いて、痺れたように身を震わせ、しばらくレイナ嬢は声を出せなくなった。
五秒ほど、口の中のものに目を輝かせて咀嚼した彼女は、ようやく言葉を続ける。
「い、し、いいぃ……!」
こんなに溜めた「美味しい」を聞くのは、前世のグルメ番組以来だ。
「な、なにこれ! すごい甘い! いえ、甘いんだけど、一杯甘さがあってすごいの! なに、なにこれ! 美味しい! こんなの初めて!」
「お口にあったようで何よりです。捨てるのはもったいないので、たくさん食べてくださいね」
「いただくわ! あ、味が違う!? こっちはイチゴの味が……これはリンゴが入ってるわ! ん~っ、これは蜂蜜たっぷりね!」
陥落確認、任務完了です。
私が笑いを隠して隣を見ると、マイカ嬢が、目的を達成したぜ、という黒い笑みを浮かべていた。
そこはもっと隠しておきましょうね。もっとも、クレープに夢中なレイナ嬢はまず気づかないだろうけれど。
これでレイナ嬢の第一関門は突破した。
この調子でずるずると私と仲良くして頂きたい。ゆくゆくはこの(今世では)珍しいスウィーツをお母様にも味見してもらいましょうね。
なお、後程のことになるが、休みを実家の領主館で過ごして不在だったアーサー氏にも、取っておいたクレープをご馳走してある。
一口食べた直後の驚いた声が、完全に女の子だった。
甘味で蕩けた女の子の表情は、どんな世の中でも可愛いものであるな。