灰の底3
すっかり冬が深まり、暦が曖昧なこの村でも、私は九歳と口にできるようになった。私の勉強は、思った以上に順調だ。
手書きの本は、やはり癖字がひどかったり、誤字もあったりして困ることはあったが、慣れてくるとさほど気にならない。ページ一つ丸ごとなかったりすると、そうも言えなくもなるけれど。
フォルケ神官を説得してから三か月が経ち、日が長くなっていることを感じ始める今日この頃。読みやすい物語の類は、読破し終えた。
専門用語はまだわからないこともあるが、一般的な語彙につまずくことはもうない。もはや読書のための勉強は終わり、読書そのものに入っていると言って良いだろう。
そんな順調な毎日だが、気がかりもある。そろそろ春になるので、読書の時間が取れなくなりそうだということだ。
畑仕事が忙しくなるのももちろんだが――我が家の父は、本を新たに借りに行こうとする息子に対し、これ見よがしの舌打ちをする。
「まったく、本なんか読んでどうするってんだ。あんなものいくら読んだって、麦の一粒にもなりゃしねえ。春になったら、本なんぞ何の役にも立たないってことを教えてやらねえと」
我が家の父は、学問――識字率の低いこの村社会において、読み書きができるだけで立派な学識になる――に理解が、全くないと言わざるを得ない。
嘆かわしい! なんたる暴言か!
誰かが学び、試し、考え、作り出すことでもっと裕福な生活が送れるようになるというのに、それがわからないとは!
などと思うものの、村全体が似た考えなので、私は明らかに馬鹿にされていても、困ったような微笑で全てを受け流す。
むきになって反論しても、相手にしてもらえなくなるだけだ。いつかわかりあえる時が来るまで、決して交渉の席を蹴り飛ばしてはいけない。
だから、今は我慢するのだ。その時が来れば、鼻っ面ぶん殴ってでもわからせてやる。
そう決意を新たにしつつ、神殿教会を訪ねると、フォルケ神官が待ち構えていた。
「どうしました、フォルケ神官?」
「うん。少し、話があってな」
最近、フォルケ神官の顔色が良い。
目の下のクマがすっかりなくなって、やつれて見えた頬も肉がついた。意外と渋い感じの良い男だったことがわかり、村では、亡者神官が生き返った、などと囁かれている。
「お話ですか。フォルケ神官からのご用件なんて、私、初めてな気がします」
「まあ、実際初めてだろうよ。今までは本を借りに来るばかりだったからな」
私室に通され、椅子を勧められる。これもまた、初めてのことだ。
なんだろうかと首を傾げつつ、私は椅子にゆったりと腰かける。まだ身長が低いので、座ると足が地面から離れてしまうのが、なんだか悲しい。
「アッシュは、もう一通りの本は読めるようになったな」
「ええ、フォルケ神官のご厚意のおかげです。ありがたいことです」
ぺこりと頭を下げると、フォルケ神官は健康的な顔で苦笑した。
「ご厚意ね」
「ご厚意ですとも」
別にその後、契約書を盾に迫ったりしていないのだから、全てフォルケ神官のご厚意だ。
「まあ、俺の気持ちについては良いんだ。今となっては、アッシュが本を読みたくないと言い出しても、無理矢理に読ませたいくらいだからな」
「読みたくないなんて言うつもりもありませんが、無理矢理とは物騒ですね」
何か事情があるのだろうか。確かに、教育施設を兼ねる神殿教会としては、役割上、唯一の利用者である私の存在は貴重かもしれない。
だが、別に利用者がいないからといって、誰かが文句を言う訳でもない。それは、私が来る前までの教会を見ていればわかる。
フォルケ神官は、ついこの間まで見たこともないような、熱のある眼差しで、本題を切り出した。
「お前さんの、とても子供とは思えない頭の良さに期待して、読んで欲しい本がある」
「ほほう?」
私は別に頭が良いわけではないが、前世云々がわからない傍から見れば、神童みたいに見えるだろう。
そんな相手に、頼みこんで読ませたい本とは、一体どんなものなのか。娯楽のないこの村では、実に興味深い。
「どんな本でしょう?」
「うむ。色々と……まあ、説明が必要な本ではあるんだが、とりあえず見てくれ」
フォルケ神官は、特別な箱にしまわれた本を、机の上に置いた。
書架に並べられている本とは、装丁からして違う。金をかけて、長期保存できるように丹念に作られていることがわかる。
「おぉ、ただものではありませんね、この本」
「ああ、特別製だ。試してみてくれ」
「では、失礼いたします」
タイトルも書かれていない革張りの表紙をめくると、内側にタイトルらしき文字がある。
まず、その文字が、この三か月触れてきたどの文字と比べても異質だった。
それは、見たことのない、手書きの文字だ。それも、ただの手書きではない。
非常に注意深く、時間をかけて一字一字書いたのだろう、綺麗に整っている。文字の形も、文字と文字の間隔も、あまりに整然としている。
まるで、活字だ。
そして読めない。
次のページをめくると、やはり整然とした文字がずっと続いている。ところどころある乱れた文字が、これが印刷物ではないことを思い出させてくれる。
これ一冊を作るために、どれだけの時間と精神を使い果たしたことか。高級な装丁も納得の出来である。
しかし、中身が読めない。
今までの本の文字と、桁違いに綺麗な文字だということを考慮しても、共通点が見つからない。
知っている文字と似た文字を見つけたと思っても、その前後の文字がわからず、意味を見いだせない。
「どうだ、アッシュ。なにかわかるか」
恐る恐る、だが期待した様子で、フォルケ神官が尋ねてくる。
その、吉報を聞きたい、と願う心情が漏れ出た声に、申し訳なく思いつつ、私は首を振る。
「いえ、残念ながら……」
「そう、か」
フォルケ神官は、深く、深く溜息を吐き出した。
「ところどころ、私が知っている文字と似たような文字はあるのですが、わからない文字が多すぎて、意味が通りません。これは一体何なのでしょう?」
「ああ、説明をしないとな」
フォルケ神官は、気落ちした表情、亡者寄りの顔で本を見る。
「こいつは、前期古代文明のものと思われる本の、写本だ」
「ん? んん? 古代、文明?」
なんだそのロマン溢れるキーワードは!
「なんだその反応は。アッシュが読んだ本の中にも、古代文明の話は出て来ただろう」
「え、ええ、出て来ましたけど……けど?」
古代文明の遺跡で発見した宝で幸せになった乞食とか、逆にそれで身を滅ぼした暴君とかの物語はあった。
けど。
けど、である。
「古代文明の、写本……?」
活版印刷物のような、規則正しい文字の群れ。
これが、古代文明の、正確な写本。
だとすれば、その古代文明とやらは、活版印刷技術が普及していたことになるのではないか?
いや、いやいや、期待するのは早い。
活版印刷の仕組み自体は単純だ。活版印刷ができたことと、普及していたことの間には大きすぎる違いがある。
物語の中の古代文明は、近代化以上のオーバーテクノロジーを感じさせる記述があったが、実際の古代文明までそうだったと思ってはいけない。
前世だって、古代文明がコンピュータを実用化していたとか、核兵器を持っていたとか、そういう想像力をかきたてる逸話は付随していたのだ。だが実際のところ、私が知りえた範囲で、古代文明の遺物からそこまで先進的な技術の痕跡は発見されなかった。
そうだ、夢を見すぎるのはよろしくない。後で物凄く落ち込むのは私だ。
よし、落ち着いた。
どうも、今世では刺激が足りないせいか、想像力が逞しくなって困る。
「失礼しました。それで、古代文明の本の、写しがこれだと?」
「そうだ。前期古代文明はおよそ二千年前だと言われている」
前世の歴史を考えると、二千年は結構近い気がする。
「その前期古代文明の後を継いだのが、後期古代文明と言われるものだ。こっちはおよそ千年前のものだな」
二つもあったのか、古代文明。いや、普通もっとあってもおかしくないか。
「今、俺達が使っている文字は、この後期古代文明で使われていたものだ。後期古代も大分昔だが、文字はほぼ同じで、読めなくもないからこれは確実だ」
「ほほう。それはすごいですね。一度読んでみたいです」
「写本なら都市の神殿に行けば読めるぞ。流石に原本は、保存状況も悪いからまず触れない」
「原本は私も触るのが怖いですよ。読めれば良いので、写本で十分です」
しかし、一千年前の本が読めるとはすごい。
前世にも一千年前の文学作品はあったが、文字が違い過ぎて読むのはすごく難しかった。
なんせ書いている一千年前は手書きが主流で、使われる文字にもはっきりした規定がなかった。読んでいる一千年後は、活字が主流で、使われる文字はきっちり規則があった。
「で、その後期古代文明の文字の元が、前期古代文明だと言われている」
「ふむ。一千年前のものは読めなくもないけれど、その二千年前のものは読めない、ということですか?」
「そうだ」
まあ、無理もあるまい。
二千年前の文字を読むというだけで至難の業だ。それが一千年前にクッションが一つあるとはいえ……あるいは、そのクッションが一つあることで、かえって混乱していることだって考えられる。
私は、そういうことだと納得できる。
だが、
「俺は、こいつを読み解きたくて、王都で研究していたんだ」
フォルケ神官は、全く納得できないことを、声の震えで訴える。
「同じ研究をしている人とも何度も語り合った。過去の研究も読み漁った。でも、まだ読めない。ちっとも読めないんだ」
フォルケ神官は、決して声を荒げなかった。本に置いた手に、力をこめることもない。
それなのに、彼が狂おしい情熱に身を焦がしていることが伝わってくる。
納得できないのだ。いや、諦めきれないのだ。
「王都では、神殿に研究の専門家として食わせてもらっていた。だが、成果が出なかったから、こうして辺境に飛ばされちまった」
それでも古代語の解読をあきらめきれず、大金をはたいてこの写本を一つだけ持ってきた。
毎日毎晩、目の下のクマが消えないほどにこの本に向き合ってきたのだという。
フォルケ神官の独白に、亡者神官の真実を知った。
「どうして、そこまで古代文明の本を……?」
「ん、そうだな。俺も不思議だ」
私の問いに、フォルケ神官は、なぜか嬉しそうに頬を緩めた。
「正直、よくわからん。今も昔も、なんでこんなにこだわっているのか、自分にも全くわからん」
だが、とフォルケ神官は、ますます嬉しそうな顔になって、私を見た。
「ひょっとすると、アッシュ、お前さんが本を読みたいのと、同じ理由だったのかもしれない」
「――ほほう」
思わず、私も頬を緩めてしまう。
私と同じ理由ということは、つまり、楽しいから、ということですね?
「なら、仕方ありませんね」
「ああ、仕方ないのさ」
「やめられませんね」
「やめられねえのよ」
二人して、くつくつと肩を震わせて笑い合う。
「私にこれを見せてくださったと言うことは、解読のために手を貸せばよろしいのですね」
「もちろんだ。最初の本を貸した時、わずかの手がかりから全文を読み解いた手並みは見事だった。考えてみれば誰にでも思いつきはする。だが、それを実行するのは言うほど簡単じゃない」
「お褒めに与り光栄ですね」
こちらとしても、超絶稀覯本である二千年前の本には興味がある。願ってもないことだ。
「ひとまず、今までのフォルケ神官の調べた限りでわかっていることは、どんなことでしょう。お聞かせ願えますか?」
「おう、任せておけ。似たような文字がある、とお前が言ったのは流石だった。これは今までの研究者の間でも意見が一致していることでだな」
フォルケ神官は、こんな辺境に放り出され、大好きな古代文明の本の解読ができないこと――というより、それについて誰とも話し合えないことが、よほどストレスだったのだろう。
この後、陽がすっかり暮れるまで、実に楽しそうに語り続けた。
聞いているこちらはかなり消耗したが、フォルケ神官の子供のように屈託のない笑顔を見ると、まあいいか、と素直に思えた。