シナモンの祭壇1
暖房器具に使われているのは、木炭とのことだった。
その木炭を鉄製のストーブに入れて、煙突を壁の穴に通すことで、室内の空気を清浄に保っているようだ。
何の話かって?
都市サキュラの領主の館、その応接室の暖房の話だ。かつ、領主の館が二階建てにできている理由でもある。
この世界の建物は、基本的には木造一階建て、平屋である。
それと言うのも、暖房設備(及び調理設備)である竈が、主に粘土でできているためだ。
想像してみて欲しい。木造の家の二階に、粘土製の焚き火装置がある光景を。絶対に火事になると思わないだろうか。それに、衛生的にも少々遠慮したくはならないだろうか。
それでもなお二階建てを求めるなら、このような鉄製ストーブが必要になるのだろう。
七輪的なものでもある程度の暖房にはなるのだろうが、こちらも火事の危険が高い。
結果、農村でも都市でも、二階建てというのは非常に珍しい。
実のところ、都市にはもっと発達した光景を期待していたので、初めは驚いてしまった。
もっとも、石造りの市壁を抜けたら、そこは木造建築一色でした、と言う方が、驚愕度が大きかった。一度火事になったら相当にひどいことになるはずだ。
どうして壁を石で作ったのに、建物は全て木造なのだろうか。手間や費用の問題があるにしろ、この領主の館の他、三、四軒しか石造りが見当たらなかった。
「ふぅむ、何か事情があるのでしょうか。興味深いですね。流石は都市、到着早々に面白いことがたくさんあります」
ひとしきり応接室を観察して、ソファに座り直した私に、隣で全身を強張らせているマイカ嬢がぎこちなく笑いかけてくる。
「さ、流石だね、アッシュ君。この状況でも物怖じしないんだもん」
前世らしき経験があるので、このくらいは慣れっこである。
一方、そんな経験もないマイカ嬢は、そのまま石化するのではないか、というくらいに緊張しているご様子だ。
ここは少し緊張を解いた方がよさそうだ。
「恐がる必要がありませんから。お会いする相手は、ユイカさんのご兄弟なのでしょう?」
「そ、そうだよ。サキュラ伯爵家の嫡男だって」
そう考えるから緊張するのだ。
「いえいえ、マイカさんの叔父にあたる人物でしょう。ご親戚ですね。きっと可愛がってくださいますよ」
「それは、まあ、そうだけど……でも会ったこともないし」
「ユイカさんからお話を聞いているはずですよ。優しい人だと言うことですし、マイカさんが丁寧に接すれば、何事もありませんよ」
「そうかなぁ。そうだと良いなぁ」
「そうですよ。それに、私もできる限りお手伝いしますから」
「ほんと?」
もちろん、と私が頷くと、マイカ嬢はようやく肩の力を抜いて微笑む。
「はぁ、都市への留学、アッシュ君が一緒ですごく嬉しい。一人だと不安だったんだ」
「私も嬉しいですよ、とっても」
まさか、こんなに早く村外への一歩を踏み出せるとは思わなかった。ユイカ夫人の采配には、感謝してもしきれない。
今朝がた後にした故郷の方角へ感謝の念を飛ばし終えると、隣でマイカ嬢が真っ赤になっていた。
また緊張してしまったのだろうか。
「二人とも、十分に大物ですよね」
応接室にいる最後の一人、行商人のクイド氏が、羨ましそうに呟いた。
クイド氏は、私とマイカ嬢を行商のついでに、村から領主の館まで送り届ける役目を受けてくれたのだ。
「クイドさんだって、別に緊張していないようですが?」
「いや、俺は慣れがありますからね。アッシュ君のおかげで」
「はて?」
「アロエ軟膏の卸先、主にこちらですよ」
言われてみれば、ユイカ夫人の実家なのだから、真っ先に話を持って行ったのは領主一家というのは自然だ。
「いやもう、最初は緊張しましたよ。良い年して、さっきのマイカちゃんみたいにガチガチだったんじゃないかな」
「商売の結果いかんで人生が変わったでしょうし、緊張するのも仕方ないと思いますよ。その点、私は気楽なものです」
「そう言ってくれると、安心……して良いんですかね。ずっと年下に慰められているって、これ大丈夫?」
深刻そうな顔になったクイド氏に、マイカ嬢が力強く頷いた。
「大丈夫ですよ。だって、アッシュ君相手ですし」
なにそれ。
「言われてみれば……アッシュ君が相手ですもんね」
二人とも、私を一体なんだと思っているのです。
再度、マイカ嬢の気分が落ち着いたところで、ドアがノックされた。
とっさのことに驚いたマイカ嬢に代わり、私が返事をしておく。ドアを開けて現れたのは、侍女の女性だ。
「お待たせいたしました。現在、領主代行をしておられます、イツキ・アマノベ・サキュラ様がお会いになられます。ご準備はよろしいでしょうか」
一礼した侍女に、マイカ嬢が一つ深呼吸を入れてから応じる。
「はい、よろしくお願いいたします」
「かしこまりました」
洗練された所作で侍女が下がると、入れ替わりに、二十代中頃の男性が入室した。
「領主代行のイツキと言う。王都に出て不在の領主に成り代わり、歓迎しよう」
型にはまった堅い挨拶とは裏腹に、目元には柔和な感情が浮かんでいる。特に、マイカ嬢の顔をしっかりと見つめた時、ひときわ表情が緩んだように見えた。
顔立ちそのものには鋭い印象はあるが、ふと覗いた内面は優しげである。ユイカ夫人の弟君というのも、納得だ。
マイカ嬢が、小さく呼吸を整えて、初めて目にする自分の叔父に挨拶を返す。
「この度は貴重なお時間を頂戴し、誠にありがとうございます。ノスキュラ村の村長クラインに代わり、一年のご挨拶に参りました」
マイカ嬢の挨拶は見事だった。
村では明朗快活で元気な女性だが、そこは村長家の一人娘である。両親からきちんと礼儀作法を仕込まれている。見る者、聞く者に心地良さを与える挨拶というのは、練習なくしてそうそう身に着くものではない。
イツキ氏から見ても、それは同様だったらしい。小さく、おぉ、という感嘆の声が聞こえた。
「村長クラインより、一年の村の経営について、報告を預かって参りました。どうぞお納めください」
「うむ、確かに受け取った。ご苦労であったな」
丸めて封緘をされた紙の束を受け取って、イツキ氏は頷く。満足そうな表情だった。その満足そうな表情が、どんどん緩んで、笑み崩れていく。
「あぁ、いかんな。すまない! 村の報告と挨拶はもう終わったのだ、ちょっとばかり私人になっても良いか。構わないよな!」
先程までは冷静で物静かな体面を保っていたイツキ氏が、了解を強引にむしり取って、マイカ嬢の前に膝をついて視線を合わせる。
「久しいな、マイカ! と言っても、最後に会ったのはお前がまだ言葉も喋れぬ時のことだ、覚えてはいないだろうな」
「あ、は、はい。残念ながら……母より、お会いしたことがあるとは、うかがっておりますが」
「うむ。マイカの出産はこの家で行われたからな、生まれた時から知っているぞ。いや、大きくなったな! それに、姉上に似て、実に美しくなった!」
マイカ嬢が面食らうほど、イツキ氏は興奮しているようだ。久しぶりに姪御に会えたのだと思えば、無理はないかもしれない。
イツキ氏は、姪御の頬に手を伸ばして、愛しげに撫でる。
「おぉ、目元は特に姉上に似ているようだが、耳はひょっとして義兄上に似ておられるのではないか? 先程の挨拶も立派なものだったが、どこか義兄上らしい生真面目さがあったな!」
「そ、そうでしょうか。礼儀については、お母さんからと……お母さんから教わっていました」
「うむうむ。姉上と義兄上は、相変わらず仲が良いだろうか」
「それはもう」
いささか戸惑っていたマイカ嬢も、両親の仲の良さについては考えるまでもないと即答する。隣にいる私も思わず同意の頷きをしてしまうくらいに仲が良いのだ、あのお二人は。
するとイツキ氏は、さも嬉しそうに大笑する。
「やはりな! サキュラの全ての恋人達の憧れは健在だな!」
憧れとは……。
あの人達は一体なにをこの都市でやったのだろう。
本人達が詳しく語ってくれないので、ユイカ夫人を娶る時に一波乱があった、という程度しか未だに知らない。
他人の私でも不安になるイツキ氏の反応に、マイカ嬢はもっと不安そうにしている。
だが、イツキ氏もそこのところを長々と話してくれない。
「マイカの留学を楽しみにしていたのだ。姉上と義兄上の子が、どのように育ったのか、この目で見たくてな」
「あ、はい。この度は、私どもの留学をお許し頂き……」
儀礼的な言葉を言いかけて、マイカ嬢は言葉に迷ったようだ。突っかかったのかとも思ったが、彼女はユイカ夫人の娘であることを、次の言葉で物語る。
「どうも、ありがとうございます。その……叔父上?」
大丈夫だろうかと上目遣いにうかがいながらマイカ嬢が呼ぶと、イツキ氏は顔をおさえて仰け反る。声にならないほど嬉しかったようだ。
しばらく悶えた後、イツキ氏は真っ赤になった顔で、向き直る。
「す、すまない。あまりに、こう、胸を撃ち抜かれたような衝撃が……できれば、公の場でなければ、その、これからもそう呼んでくれると……」
緩んだ表情を必死に引き締めようと努力しているようだが、成功しているとは言い難い。
私人として接することを望んだ叔父に、マイカ嬢が見事に応えた形だ。さぞ嬉しかっただろう。さすがはユイカ夫人の一人娘である。
イツキ氏は、自分の表情が危ういことに気づいているらしく、可愛い姪御から目をそらして、私とクイド氏を見つける。
「ふ、二人とも、すまないな」
「いえいえ、お構いなく」
商人らしい如才なさで、クイド氏が自分は何も見ていないと首を振る。
「そうですとも。久しぶりの肉親の再会ですので、感極まるのは人の情かと」
私としても、実に微笑ましいやり取りを拝見出来て、心が潤った。
「う、うむ、助かる。……ええと、そうだな、クイドは何度も会っているが、君は初めてだな」
「はい、ご挨拶が遅れ、恐れ入ります。ノスキュラ村のアッシュと申します。この度は、私のような一農民に留学の機会を与えて頂き、感謝の言葉もございません。このご恩は、勉学に励み、成果をもってお返しする所存にございます」
ばりばりやってやりますよ。
情熱を持って挨拶をすると、イツキ氏は緩んでいた表情を驚かせた後、納得したように表情を引き締めた。
「なるほど、姉上と義兄上が推薦するわけだ。ここまで堂に入った挨拶、中々お目にかかれんぞ。失礼な言い方になるが、農民の生まれには見えないな」
クイド氏が、すかさずに肯定する。
「ええ、アッシュ君は特別ですよ。なんかもう、すごい人です。俺にはそれしか言えないですが」
「あたし、礼儀についてはアッシュ君の影響が大きいと思うなぁ」
マイカ嬢の発言については、そんなことないと思う。
私が気になったところを聞き出していた、ご両親の教育の賜物だ。
「ふうむ、今回の軍子会は楽しみだな。聞いているかもしれないが、今回は、マイカの一つ下の我が弟も参加する」
マイカ嬢にとって年下の叔父である。この世界では、そこまで珍しいことではないので、マイカ嬢は躊躇いなく頷いた。
「はい。確か、アーサー様とうかがっております」
「様付けはいらないよ。普通の同年代の友人として扱って欲しい。当人もそれを望んでいるのでな」
イツキ氏が苦笑して応えると、私を見て、君もだ、と告げる。
「軍子会は、都市縁の有力者達による子弟教育の場であると同時に、交流の場だ。人脈作りでもあるから、完全に身分から解放されることは難しいが……同年代の友人を得られる貴重な機会でな」
イツキ氏によると、彼自身も身分を超えた友情を得ることができ、とても大切に思っているそうだ。
そう語るイツキ氏の、懐かしむような笑み、それだけで物語が生まれそうだ。
実に素晴らしい。私は脳内に広がる空想に興奮しながら、何度も頷く。
「確かに。公人としての立場があればあるほど、私人として信頼できる人間というのは貴重ですからね」
「そう、そうなのだ! 下手な人間とは酒も好きに飲めない立場、というものがあってな。いや、よくわかるな、アッシュ。本当に農民の息子か?」
「物語が好きでして、そういうお話も読んだことがあったなと」
前世の話であるが、何食わぬ顔で言っておく。嘘はついていない。隠し事があるだけだ。
隣のクイド氏とマイカ嬢は、アッシュ君だから、となぜか別な方角から納得している。私が誘導した方向に進んで頂きたい。
「おお、アッシュはもう字を読めるのだな。ああ、いや、姉上からの手紙にもそうあったか。うむ、流石、有望だ」
「恐縮です。ともあれ、そういうことでしたら、幸い私は一農民の倅に過ぎません。都市での利害関係もなく、立場も吹けば飛ぶようなものです。弟君の話し相手になれないか、お声をかけさせて頂きます」
「うむ、なんとも心意気の良い! 姉上と義兄上が推薦するのだから期待はしていたが……」
感心してくれるイツキ氏に、私はにこやかな笑みで返す。
村での事件もあり、年少者の相手は苦手だと考えているが、都市の有力者の子弟となれば歩み寄る苦労もやぶさかではない。
利害も立場もないと言いつつ、我ながら打算たっぷりである。
まあ、イツキ氏の話を聞いて、そういう友情を育めたら楽しそうだと思ったのは事実なので、ご勘弁頂こう。
純粋な憧憬と、不純な思惑。
どちらが第一なのかは、我ながら判然としない。発火装置と燃料みたいな関係ではなかろうか。
そして、私の隣の二人は、アッシュ君だから、とまたもや呟いている。
私の名前で言い訳が通るのだろうか。
イツキ氏の話はまだ尽きないようだが、ドアをノックして侍女が入って来て、会話を止めた。
「イツキ様。そろそろお時間になります」
「む、むむ……。もう少し……」
「申し訳ございません」
あと五分、と二度寝をねだる子供のように、イツキ氏は粘る。
「いや、後で一層頑張るので」
「申し訳ございません」
「ようやく姪に会え」
「申し訳ございません」
「だいじょ」
「申し訳ございません」
「わかった。三人とも、すまないが仕事が立て込んでいるのだ」
ことごとく言い訳を潰されて、イツキ氏は決然と立ち上がる。
冬支度を済ませた各農村から、一年の報告が集まっているのだから忙しいだろう。税収や来年の計画をまとめ、整理しなければならないものと思われた。
「クイド、二人を送って来てくれたことに感謝する」
「商売のついでのことであり、報酬も十分に頂いています。気持ちとしても、この二人の依頼ならば喜んでやりますよ」
行商人の言葉に、イツキ氏は心から感謝している表情で頷く。
「マイカ、アッシュ。二人の滞在先は我が家で用意してある。他の留学にやってきた子等と共に生活する寮になっている。案内が来るまで、ここで待っていてくれ」
「はい。お気遣いありがとうございます」
「お忙しい中、お会いできて光栄でした」
「うむ。実に楽しい時間を過ごさせてもらった。また、落ち着いたら話をしよう」
頭を下げた私達を、というより主にマイカ嬢を、イツキ氏は名残惜しげに見た後、颯爽と立ち去って行った。
その立ち姿からは、姪御への未練が目に見えるような気がした。
後ろ髪引かれるようなイツキ氏の足取りを、すぐ後ろにぴったりついた侍女の靴音が急かしている。
「次期辺境伯閣下は、ずいぶんと面白い方のようですねぇ」
この部屋に入って来た時と、全く印象が違う出て行き方をした人物に、そう評価をひっつける。
隣の二人から、何とも生温い視線を返されてしまった。
拙作をここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ここから、第二部になります。投稿方針については、活動報告をご覧いただければ幸いです。