商人クイド1
【シナモンの祭壇 クイドの断章】
「灰の底」の終盤から、「シナモンの祭壇」序盤の時系列。
行商人にとって、雨は敵だ。
雨が降っていると露店を開けない。商品が濡れちゃうからね。
もちろん、俺も、お客さんも、濡れていいことはない。
そういう時は、村長さんや神官さんにお願いして、村長家か教会で店を開かせてもらう。
騒がしくなるし、雨や泥で床が汚れるから、あまりいい顔はされない。でも、そうしないと村人が必需品を買えないから、仕方なく使わせてくれる。
ノスキュラ村の一つ前に寄る村で、この敵に降られてしまった。
がっくりくるけど、こればっかりはどうしようもない。いくら天気に注意して日程を組もうと、どこかでこの敵には必ずやられるものだ。
雨が降ったせいで、まだ明るいのに人気が消えた村は、ちょっと不気味だ。
濡れた外套の重さに圧し掛かられながら、教会の戸を叩く。
「すみません。行商人のクイドです。お願いに参りました」
返事を期待せずに声を上げる。
分厚い教会の戸は、音をよく吸収するから、戸を叩いても神官の耳まで届かない。そもそも教会の聖堂は、大抵無人だ。
頻繁に子供が遊んでいたり、勉強していたりする場面に出くわす、ノスキュラ村の教会はちょっとおかしい。
それでも、礼儀として戸を叩いてから聖堂に入って、奥にある神官の居室に声をかける。それがいつもの行商人の流れだ。
ところが、向こうから戸が開いた。
「よく来たね、クイドさん。雨の中、大変だったろう」
「え? あ、どうも、いつもお世話になっています」
神官さんの素早い出迎えにびっくりしたけど、とりあえず頭を下げて挨拶する。
「この雨だと外で店を開くのは無理だろう。教会をお使いなさい」
「ありがとうございます! そのお願いに来たので……とても助かります」
「うん、クイドさんの行商は、村に必要なことだからね、村の皆の教会を使うのは当たり前だ。遠慮なく使ってくれ」
言い出しづらいことなので、向こうから申し出てくれるのは大変ありがたい。
後で聖堂の三神像に祈りを捧げておこう。その前に、もちろん商売の方を頑張らなければ。
「クイドさん、教会の右手に馬留めがあるから、そこに馬を繋いでおいで。簡単なものだけど、屋根も風除けの壁あるから、大事な馬を野ざらしで雨に打たせておくよりはいいと思うよ」
「うわ、すごく助かります。いつの間にそんなのできたんですか?」
「前にもクイドさんが雨に降られた時があったろう? その時に話が出てね、余っている木材の継ぎ接ぎでも、ないよりマシだろうということになったんだよ」
マシなんてものじゃない。馬の体調と機嫌が全然違う。
明日以降の旅程が断然楽になるし、馬の寿命だって変わって来る。短期でも長期でも、利益が出て来る。
「ありがとうございます! ありがとうございます! すごく助かります! その分だけちょっとオマケさせてもらいますね! ちょっとしか無理なのが申し訳ないですけど!」
「ははは、村人一同、クイドさんに無理されたら困るから、気にしなくていいよ。これからもこの村に行商に来て欲しくて作ったものだからね」
「それはもう、もちろんですよ! これからもどうぞご贔屓に! すぐに準備しますね!」
早速、馬から荷台を外して馬留に向かうと、確かに簡素な建物が増えていた。
でも、屋根も風よけの壁もあるから、馬留というより馬小屋に近いかもしれない。馬も二、三匹は入れる大きさだし。
こんなの用意してもらって、たまにしか使わないのは申し訳ないなぁ……。
あ、そうだ。付き合いのある商会にもこのことを教えてあげよう。
馬を休ませられる設備があると聞けば、この村に立ち寄る商人も増えるだろう。商売敵が増えるけど、村の人にとっては、扱う商品が違う商人がいるのはいいことだ。
噂話も別な種類が聞けて、娯楽も増えるだろうし。
ついでに、バレアスにも教えといてやろう。
領内巡回の衛兵にとっても、馬を休ませられる場所は貴重だからね。村にとっても、衛兵が頻繁に寄ってくれるのは安心できることだ。
用意してくれたご好意に、ちょっとでも恩返しになると嬉しい。
「あ、やっぱりクイドさんだ。待ってたよ~」
馬留に馬を入れると、教会近くの家から、奥さんが顔を出して手を振ってくれる。
「あ、どうもです。今さっき着いたところで、今日は教会で商売させてもらいますね」
「雨の中をここまで来るの、大変だったでしょ。いつもありがとうね」
「お礼を言うのはこちらの方ですよ。この馬留、というか馬小屋のおかげで、大分楽させてもらえます。そうそう、前に来た時に注文してくれた布生地、希望のお値段のうちで仕入れてありますから、後で来てくださいね」
奥さんが注文した布生地、提示された予算からするとかなり厳しかったけど、職人さんのところに直接行って交渉したら、なんとか予算内で収めることができた。
一部分だけ染色が甘くて、投げ売りするにはもったいない、かといって正規料金を頂くわけにはいかない、みたいな掘り出し物があった。
条件を細かく詰めるのって大事だね。
「やった、助かるわ~! クイドさんが来たこと、皆にも知らせてくるから、教会で準備して待ってて!」
「はい、お待ちしてま~す。あ、雨なんで急がなくていいですよ。今日はこの村に一泊することになるので、明日の朝まで受け付けてます」
この雨の中を強行軍して、途中でぬかるみにでもはまったら大惨事である。
これが衛兵時代で、村が襲われている、とかの緊急事態だったら危険を承知で進むけど、幸い平和な行商活動、一日二日の遅れても問題ない。
一泊する分、お世話になる宿代は包むけど、それくらいでどうこうなる経済状況でもないもんね。
ノスキュラ村の新しい特産品はそれだけ売れる。ユイカ様とアッシュ君には頭が上がらないね。
特に赤髪の方には色んな意味で、頭が上がらない。
「あら、そう? じゃ、夕御飯になにか温かい物でも差し入れしなくっちゃね!」
「え~、そんな、申し訳ないですよ。あんまりご馳走になると、商品のお酒を出さなくちゃいけなくなっちゃいます」
「え~、それは出させたくなっちゃうわ! よし、どうせ今日は雨だもの、畑にも出られないし、皆を集めて教会でクイドさんの歓迎会しましょ、歓迎会!」
「ええ? あ、行っちゃった……」
そんなことされたら、確実にお酒を持ち出さなくちゃいけなくなっちゃうんだけど……。
まあ、いっか。
最近、この村でも利益が出てるし、馬小屋を用意してもらっちゃったし、その分だけこの村にお返しすると思えば、うん、いいことにしよう。
問題があるとすれば、ノスキュラ村で売る分のお酒が減ることかな? 最近、お金回りがよくなったノスキュラ村では、お酒もよく売れる。
おかげで、お酒を造ってる村とのお付き合いも上向きで……っていうのは、今は関係ないか。
ノスキュラ村の飲兵衛達、今回は、ちょっと残念がる人が多いかもね。
まあ、多分、ダビドさんがなだめてくれるだろう。本人も飲兵衛代表なんだけど、お酒を買う人に、飲み過ぎは毒だぞってよく注意している。
最近は二日酔いの姿も見かけないせいか、奥さんともますます仲良し。
ぐぬぬ、めちゃくちゃ羨ましい。行商に行く度、二人並んでやって来て、二人くっついて帰っていく。独身男に対する最強の暴力だよ、あれ。
俺の優しいお嫁さんは、一体どこにいるんだろうねぇ……。




