イツキのポッキリ見聞録
【シナモンの祭壇 イツキの断章】
断章「紙の上の世界」の時系列
リイン・バティアールは、優秀な人物だ。
立場と能力を兼ね備え、現在、執政館で働く侍女達の頂点に立つ人物であろう。
もちろん、彼女より上の世代のベテランも、まだまだ現役であり、能力的にリインに匹敵する者、あるいは凌駕する者もいる。
しかし、そうした先達は、俺が領主代行として領地の実権を譲り受けることと並行して、徐々に日陰の方に移行し、後進に活躍の場を譲っている。
そんな我が領の文官派閥において、リイン・バティアールの存在とは巨大なものだ。領主代行の筆頭侍女をしているランが、先輩と呼び慕って頭が上がらないのだから、相当だ。
言うまでもないが、俺はリインには勝てないぞ。
リインはユイカ姉上のお付き侍女だったため、実の姉とセットであれこれ世話になった。なんというか、もう一人の姉のようなものなのだ。
その頼もしさと恐ろしさはよく知っている。
ランと二人で、リインの仕事ぶりに唸ったことは一度ではない。
アーサーが地図を作りたいと言い出した時もまた、リインの采配は冴えていた。
「各地の位置情報を集めようとすると、現在の執政館の業務は崩壊するでしょう。かといって、あまり時間をかけてもアーサー様によろしくありません。ですので、情報収集自体はスクナ子爵家に丸投げしましょう。イツキ様のお名前で一筆お願いします」
「スクナ子爵家に? 大丈夫なのか。今後の付き合いに影響が出そうだが」
「あの方のお名前で、各地の情報を集められると言えば、スクナ子爵家から感謝されることはあれ、眉をしかめられる恐れはありません。決して下手に出ないように、むしろ恩を着せてやるという文面でお願いします」
「スクナ子爵家を相手に、上の立場で書けと? スクナ老は、父上でも一目を置く手練れだぞ」
領主としてはるか先達を相手に、それでいいのかと俺が案ずると、リインの目が据わった。
いかん。どうやらダメなことを口にしてしまったらしい。
「老木を相手に若木が遠慮していたら、大木に成長する見込みがございません。相手を蹴り倒すくらいの意気込みがなくてどうするのです。イツキ様はこのサキュラの次期領主なのですよ、スクナの領主を相手になにを譲る必要があるのです!」
はい。
リインの叱咤に、俺はそう頷くしかなかった。
あと、俺が弱腰だから気をつけるようにとランも諭されていた。あっちも身を小さくして、はい、と返事をしていた。
こういうお叱りは昔からよくあって、リインとは俺にとって姉上よりも厳しい姉代わりなのだ。
そんな強い存在であるリインが、力のない声で挨拶しながら、執務室にやって来た。
「失礼いたします。イツキ様に、至急のご報告が、ございます」
声に力がないことも異常だが、目の焦点があっていない。いつもピシッと姿勢の良いリインが、微妙に頭をふらつかせているのも変だ。
これは、あれだな。ポッキリだな? ポッキリしたんだろう?
犯人もわかっている。リインをこんな状態にさせられるのは、アッシュだけだ。
「……どんな報告?」
聞くのは恐いが、聞かないわけにもいかないので、恐る恐るたずねる。
リインは、言葉で答える代わりに、一枚の羊皮紙を差し出して来た。丸まっているそれの中身を、なんとなく察する。
「それが、アーサーが作っていたという地図か? もう完成したのか? 早くない?」
「情報が一通り集まった後は、いつもの面々で力を合わせて作り上げたようで……」
「……それ、中身を見ないとダメか?」
腰が引けたことを言ったら、ぎろりと睨まれた。
「嫌でも見て頂きます。わたくしの手には負えない代物ですので」
「なんで石鹸並みの危険物がまた出て来るんだ。今期の軍子会はどうなってる」
熱した鉄でも触るように、恐る恐る地図を受け取る。伸ばして中身を見る時なんて、呪いの書を覗き見るような心地だ。
そして、見てしまったら、俺の心もポッキリだ。
「……詳細すぎる。出回っている地図とは一線を画すぞ」
集めた情報から作ったんだから、現地に行けば誤っている部分もあるだろう。それは大きな差であるかもしれない。
それを考えても、この地図の価値は高い。下手に流出したら、色々と悪さを思いつく輩は大勢いるはずだ。
「はい、この地図情報は、秘匿が必要です。必要ですが、ここで地図を作っていると、すでにスクナ子爵家は知っています」
「どんな地図ができたか、聞かれるよな。スクナ子爵家でも、この精度の地図ができているなら、さして問題にならないと思うが……」
「スクナ子爵家ならば、集めた情報を元に、頭の中にこの形を作れる者はいるかもしれません。ですが、この地図を作るために、アッシュさんは専用の器具まで用意したとレイナから聞いていますので……」
「他の者に見えない頭の中の地図と、誰にでも見える紙の上の地図では、価値が違うな」
この地図情報は秘匿したい。だって、情報量が多いから、どうしたってサキュラ辺境伯領の近辺が一番詳細で正確だ。
しかし、スクナ子爵家は情報集めが得意で、半端な嘘や誤魔化しは通用しない。というか、俺が、スクナ子爵家を相手にとぼけきる自信がさっぱりない。
「スクナ子爵家の相手もそうですが、そもそもこの地図をどこまで公開します? 完全秘匿ですか? 軍で使用させますか? その場合、どれほど正確であるかの確認作業も必要になりますが、それは誰にどのような形で――」
「待て! 待て待てリイン! ちょっと待て! 色々考えなければいけない問題があるのはわかるが、俺の心の折れ具合がまずい! 気持ちがもたない!」
「わたくしはそれほどの代物を先程まで一人で抱えさせられていたわけですが、容赦する余裕があるとお思いですか?」
ダメだー! 俺以上にリインの気持ちがへし折れてしまっている!
どうするんだよ、うちで最高の侍女がこの有様とか本当もう勘弁して欲しいんだけど!?
「お労しや、リイン先輩……」
泣いているフリをして距離を取っていないで、先輩を助けろ、俺のお付き侍女―!




