鉄仮面ラン
【シナモンの祭壇 ランの断章】
冬の執政館は忙しい。
収穫の秋を終え、領内の各農村から集まる、収穫量の報告。そこから次の一年に使える予算を計算し、非常時のための備蓄を用意し、将来のための計画を策定する。
領内の他の都市で分担はされるものの、それでも最終的には領主の手元――現在のサキュラ辺境伯家では、領主代行のイツキ様の元へとやって来なければならない。
領地全体の一年分の成果と、将来の計画が、冬の執政館に殺到するのである。
その業務量たるや、侍女や侍従達が死者のような顔色で徘徊しているのが珍しくない、というほどだ。
冬の執政館は墓地より不気味、とは否定しがたい風評である。
我がタチバナ家は、代々の侍女・侍従を輩出する家である。現在のタチバナ屋敷に住んでいる者も、多くが執政館で働く文官達だ。
つまり、冬のこの時期、うちの屋敷の廊下にも不気味な死者がうろつくことになる。
まあ、不気味と言っても、わたしにとって生まれ育った頃から見ていた光景だ。
季節に咲く花を見るのと一緒で、今年も冬が深まって来たと感じる程度。今さら驚くこともない。
とはいえ、廊下ですれ違う侍女が限界を超えていそうなのを見て、タチバナ派閥の長としてなにも思わないわけではない。
「レンゲ、少し待ちなさい」
ようやく見習いを抜けた若い侍女に声をかけるが、返事は大分遅れてから返って来た。
「はい? ええと、わたしは、レンゲです……?」
これはひどい。どうやら自分の名前まで曖昧になっている。
眼の下にはクマが濃いし、侍女服も乱れている。襟を締めるリボンタイは、この時期に緩めていたり、外している侍女は珍しくない。
ないのですが、この子は一体どういう結び方をしているのか。それに、袖や襟の折り目も、三つ編みにしている髪も、とにかく乱れている。
この時期、制服を着崩すのは問題ない。
しかし、乱れているのは問題だ。
「あなた、今日は休みなさい。そんな状態で仕事をしてもミスが増えるだけです」
「はい……。でも、お仕事が……他の人に迷惑も……」
「でも、ではありません。わたしからの指示です。あなた一人が足らなくなったところで、それでどうこうなるほど、あなたの先輩達は柔ではありません」
まあ、戦力が一人いなくなったと悲鳴は上がるでしょうけど、ここまで根を詰めている彼女が無理に仕事をしたところで、悲鳴の数が増えるだけです。
世の中には、できる無理とできない無理がある。この子は、その見極めがまだできていない。
溜息を吐いて、わたしの後ろについていた召使いに、彼女を部屋に連れて行くこと、彼女の同僚に休む旨を伝えることを指示する。
しかし――今休みを指示した侍女の立場を思い出す。
レンゲは、侍女の中でも最も若輩に位置する。自然と、彼女の仕事の配分は少ないはずだ。その彼女をして、あの疲労困憊具合。
レンゲが優秀だから業務量が増えているか。あるいは、レンゲのような若手にまで業務が雪崩れこむほど、今期の執政館の業務が殺人的か。
……後者の方がありえる。
「今期はリイン先輩もヤエ様も、軍子会の方に取られてこちらを手伝ってくれませんからね」
完璧侍女と呼ばれるリイン先輩に、サキュラ辺境伯家に残された最後の頭脳派と言われるヤエ様。この二人が冬の手伝いに入れないとわかった時、これはひどいことになると覚悟はしていたけど、目の当たりにするとやはりひどい。
負担がかかりすぎて、レンゲ同様に限界を超えている者もいるだろう。
「イツキ様に、業務の見直しを提案した方がよさそうですね」
そうと決めたら、手早く朝食を済ませて執政館に出勤しなければ。
****
領主の執務室では、現在の使用者であるイツキ様がすでに到着していた。
「おはようございます、イツキ様」
「うむ、おはよう、ラン」
返された挨拶は眠たげだ。頭に寝癖もしっかりついている辺り、イツキ様も一晩では疲れが取れていないことがうかがえる。
それでも、まだ限界ではないらしく、書類を一枚差し出してくる。
「昨日、最後に悩んでいた街道整備の件だが、やはり今年も予算は出さないことに決めた。これに手を出すと今年の予算がギリギリすぎる、というのが理由だ」
「承知いたしました」
一礼して、書類を受け取って確認する。
イツキ様の決定を受け、街道整備を要求している都市を納得させる資料をつけて回答するのがわたしの仕事だ。
当然、却下するとなれば反発を受ける。
「苦労をかける」
「それがわたしのお仕事ですので、お気になさらず」
いえ、すごく気にして欲しいですが。
悪いと思っているなら、時間ができたら美味しい食事をご馳走してください。愚痴が尽きるまでお酒もたっぷり付き合ってもらいます。
いわゆる、愛嬌のある人ならば、そんな甘えた言葉もすらすらと出て来るのだろうが、生憎とわたしは厳しさに定評のあるリイン先輩の薫陶を受けた侍女だ。
そういうのはさっぱり出て来ない。
代わりに、可愛げのない言葉はすらすらと出て来る。
「わたしのことより、ご自分のことを気遣ってください。まず、その寝癖です。襟もよれています。執務室にいる領主代行がその有様では、家臣に示しがつきません」
「ああ、すまん。街道整備の件を帰ってからも悩んでしまって、気づいたらもう朝でな」
「言い訳をしても身だしなみは整いません」
控えていた召使いに声をかけ、お湯を持って来るように指示を出す。あのぼさぼさの寝癖、水をつけて梳かないと直らないでしょう。
「ああ、うん、ほんとに苦労をかけるな」
「まったくです。身だしなみくらいしっかりと……イツキ様、襟がよれていると言いましたが、そもそもボタンがきちんと留められていないのです。ああ、もう、失礼します」
襟を直そうとして余計に乱れさせる様子がじれったくて、つい手を出してしまう。
いつもより余裕がなく、気が短くなっていることを感じる。領主代行付きの侍女として、イツキ様の業務量はわたしの業務量、同じくらい疲れてはいるのだ。
「ここのボタンが外れているのです。はい、これで襟を立てれば……」
やれやれと嘆息を漏らしながら襟をただして差し上げると、間近に迫ったイツキ様の目が、じっとわたしを見つめている。
召使いに用事を出した今、この執務室にはわたしとイツキ様の二人きりだ。
早朝のため、執政館自体に人も少ない。そんな状況下で、若い男女がこれほど間近となれば――なーんて展開、あるわけがないのです。
相手はイツキ様ですよ、イツキ様。
ジョルジュ卿と並んで人気がありつつ、人気を上回る朴念仁であるため何年も女っ気のないこの人が、今さらわたしと二人きりだからと間違いを起こすはずがない。
相手であるわたしも、いつも小言ばかりで可愛げのない女ですしね。
「どうかしました? わたしの身だしなみに乱れはございませんよ」
そんなわけで、緊張する理由も、羞恥を感じる理由もなく、間近でイツキ様に尋ねる。
「うむ、まったく乱れていないぞ。いつも一分の隙もないなと、感心していたんだ」
「当然です」
領主代行付きの侍女なのだ。見られるのも仕事のうち、いかに大変な時期とはいえ、いや大変な時期だからこそ、服装に一切の乱れを生じさせてはならない。
つらい時に平然としてこそ、周囲から流石は領主代行付きだという敬意を獲得できる。
……とリイン先輩から叩きこまれた。
わたしだって許されるなら寝癖を直す時間を投げ捨てて寝ていたいし、襟を開いて楽な格好で仕事をしたい。
ほんと、疲れた、眠い。
街道整備の要望を出したところに却下を告げるのだって面倒なのです。
なにを言ったって食い下がって来るでしょうから、その説得がまた気合いと体力のいる作業で……。
そういう内心を、全部隠してイツキ様を見つめる。
わたしの顔はいつもの無表情をしていることだろう。鏡を見なくてもわかる。もっと素直に感情を出せたらと思うこともあるけれど、こういう時は、自分の可愛げのなさが便利でもある。
「ランが隙のない格好だから、俺が多少だらしなくとも、なんとか領主代行らしい空気を保てているよな。いつも綺麗でいてくれて、ありがとう」
「イツキ様……」
疲れた頭に染みる、綺麗、という言葉。
「あなたにしては中々のお世辞ですが、その程度では小言は一つも減らしません」
「それは残念。でも、本当に思っていることだからな。しっかり者の侍女がいて助かるよ」
「それはよろしかったですね。さて、次は寝癖です。まだお湯は届きませんか」
こうなったら水でもいいので早く届かないものかと、ドアの外まで召使いを確認に出る。
ようやくお湯を持って来た召使いに、顔が赤いと言われた。見間違いですね。
業務多忙につき召使いも疲れていたのだろう。
しばし、業務の見直しのため執務室の前で考える時間が必要になった。




