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フシノカミ  作者: 雨川水海
灰の底
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灰の底25

 自宅に駆けこむと、すでに両親は避難した後だったらしく、竈の火も消えている。

 クワがなくなっているのは、護身用に持ち出したのだろう。

 私の槍も持って行けば良かったのに、と苦笑しながら、私は毒薬を入れた小瓶を取り、少量の水を足す。


 小瓶の中の毒は、バンさん直伝の狩猟用の毒で、普段は乾燥させて保存している。狩りに向かう時に、水を混ぜて使用するのだ。水を混ぜなくても効果はあるが、槍の溝(毒窩)に仕込むために必要な、粘着力が出てくる。

 小瓶の中身が、十分な粘性を取り戻したことを確認して、私は槍を二本と弓一式を掴んで家を飛び出す。


 食料が目当ての熊が相手なら、まあ使うことにはなるまい。

 万が一、教会にやって来て人を襲おうとしたら、防衛のために振り回すつもりだ。

 私はまだ熊を相手にしたことがないので、バンさんの支援を受けられない状態で積極的に戦う気はない。


 まあ、私がそう思ったところで、状況がそれを許さないのであれば、戦うことになる。


 教会が見えるところまで来た私は、黒い巨体に出くわした。


 鹿を狩ったことはある。

 猪を狩ったこともある。

 蛇と睨み合ったこともある。

 狼をやり過ごしたこともある。


 いずれも、命の危険を感じる相手だった。

 罠にかかった鹿でさえ、迂闊に近寄ろうものなら角を振り回し、その強靭な脚で蹴り飛ばそうとして来る。

 だが、教会の扉へと悠々と歩を進めるその巨大な生物は、今までのどの経験より、命を脅かす存在だと、背筋を走る寒気が警告する。

 野生の熊は、それほど暴力的な威圧感を、見た目だけで周囲に知らしめていた。


 その熊が、なぜ、人が大勢いる教会へと近づいて行くのか。

 可能性はいくつか考えられる。


 山菜取りの子供達を追って、ここまで来てしまった。

 人の声に興味を持ってしまった。

 なにか以前に、人と接触した経験を持っていた。


 それらはどうでも良い。

 問題は、教会の中の人をどうするかだ。

 熊は雑食だ。動物も食べるし、植物も食べる。人を食べることはそう多くはないが、一度味を覚えれば、人しか食べなくなるとの言い伝えもある。

 熊が冬眠から目覚めるこの季節、口からだらだらと垂れる涎を見れば、今の熊は食欲を優先して動いているようにしか見えない。

 私に気づいて振り返った熊の眼を見て、その感想はより強まる。


 最も原始的な殺気は、食欲と同じ色をしている。

 食べる気だ。


 家にいる時に、弓に弦を張って来れば良かったと、内心で後悔する。悠長に弦を張る時間をくれそうにない。

 私は弓を使うことは諦めて地面に捨て、槍も一本、地面に突き立てる。

 そして、残った一本の槍に、そっと毒を垂らしながら、私を爛々とした目で見つめる相手に声をかける。


「この村へようこそ、熊殿。一体なんのご用です?」


 友好的な挨拶に、相手は獰猛な咆哮で応えてくれた。

 ひょっとしたら気の良い挨拶かもしれないが、生憎と熊語はわからないので、ひたすら恐怖を感じさせる威嚇にしか聞こえない。


「まあまあ、そういきり立たずに……。ただお腹が空いているだけなら、私は敵ではありませんよ。食料が必要なら、少しばかりお渡ししても良い」


 熊は、周囲の気配を、顔を巡らせて確認する。

 用心深い奴だ、私以外に敵がいないか確認している。


「どうです、このまま何もせず、少しばかりお腹を満たして森へ帰る。それでお互い、満足できると思いますよ」


 熊は、敵が私一人と判断したらしく、立ち上がって再度威嚇の咆哮を放つ。

 耳が痛いほどの音量が、自分の遥か頭上から降って来て、腹の底まで響く。

 心胆寒からしめるとは、こういうことを言うのだろう。


 確かに、恐い。


 だが、私に脅しは通用しない。

 なぜなら、私はこれを上回る恐怖を知っている。恐怖への耐性があるのだ。


「どうやら、大人しく帰るつもりはないようですね。私も、この村を破壊されるのを、大人しく見ているつもりはありません」


 ここは私の村だ。

 誇張も語弊もある言い方だが、ここは、私の村なのだ。


 私が本から得た希望を元に、本から取り出した意志と知識とを織りあわせて、理想の夢物語として紡ぎだした、私の村だ。

 理想には、まだまだ遠い。

 夢には、まだまだ届かない。

 これを本だとすれば、ほんの一、二ページ目に過ぎない、私のかすかな夢物語。


 そんな私の村なのだ。


「それを壊そうと言うのならば、よろしい。宣言します」


 脳髄から背筋を貫き、全身に満ちていくごく低温の意志――殺意。


「熊殿。紛れもなく、私は、あなたの敵だ」


 私の殺気に反応したか、熊が威嚇を止めて突進を仕掛けてくる。

 巨体が、驚くほどの速度で迫る、と思う間もなく、野太い腕が薙ぎ払ってくる。

 回避は、反射で行った。襲い来る熊の右腕を掻い潜るように身を前に投げている。後ろに退けば、突進にひき殺されるだけだ。


 問題ない。私の頭は、野生の熊の殺意を前にしても、冷静を保てている。


 横に逃げた私を視線で追って、熊は突進を止める。

 四足歩行で向きを変える、より速く、私は毒槍を構えて、その横っ腹に突撃する。

 可能な限りの加速の後、全体重をかけた刺突は、振り向きかけた熊の右腕の付け根に突き刺さった。

 威嚇の咆哮ではなく、悲鳴が上がる。だが、そこは野生、熊はひるんだわけではない。


 巨体で振り向く動作をそのまま続行されると、槍の穂先が(そういう構造なので)折れて、振りほどかれてしまう。

 たたらを踏んだ私は、熊の正面で、隙だらけだ。


 熊の左腕が振るわれるのと、私が咄嗟に折れた槍で防御態勢を取ったのは同時。


「っ!」


 一瞬過ぎて、何がどうなったのか、私は知覚できなかった。

 わかるのは、槍の柄が粉砕され、私が吹き飛ばされ、右の二の腕にぞっとするほど冷たい感覚があることだけだ。


 槍の柄が砕けたのは、熊の一撃に耐え切れなかったからだ。

 私が吹き飛ばされたのは、体重が軽すぎて、一撃がかすっただけでもそうなるだろう。


 そして、右の二の腕にある冷たい感覚は、目視で確認するに、熊の爪にごっそりと肉を削られた結果、神経が直接空気にさらされているからだろう。その部分以外は、噴き出す血で、心地いいほど温かい。


 熊は、右腕の付け根に残った槍の穂先が不快なのか、それを取り出せないかと身をよじらせている。

 その隙に、私は引き裂かれた右腕の袖を破り、止血を試みる。破いた袖を巻き締めて、右腕の脇の下に結び目が来るようにする。

 脇の下の太い血管を圧迫すれば、そこから先には血が行かないので、止血効果は抜群だ――らしい。

 実際どうかは、これから自分で実験する。生き残ったら、実験ノートに記録しておこう。


「おや、そちらの準備ももうよろしいですか?」


 ほぼ同時に、熊も戦闘態勢を整えたようだ。

 もっとも、応急手当てをした私と異なり、向こうは槍の穂先はそのままだ。ついでに、右腕に力が入らず、歩きにくそうにしている。

 毒が回り始めているのだ。

 それでも、流石は巨体を誇る熊だ。倒れるまではまだ時間がかかる。実体験をふんだんに含んだバンさんの話によれば、動けなくなるまで三分は見た方が良いとのことだ。

 あと二分はある。

 私の出血の方も、恐らくそれ以上は持つまい。

 今も、意識しないと足元が不確かな粘液状に変化したように感じてしまうくらいだ。


「お互い右腕が用をなさず、制限時間つきですね。どうします、ここらで痛み分けと言うことで」


 もっとも、その場合、私は助かる可能性があるが、熊はないだろう。森の入り口辺りで倒れているに違いない。

 熊は、それがわかっているのかどうか。いずれにせよ、ここで退く気はないと、私に向かって走り出す。


 応じて、あらかじめ決めていた通りに、私は慎重に、急いで動く。

 左手に持っていた槍の柄を、熊の顔に投げつけ、熊が私を見失った隙に、もう一本の槍の下へと駆け寄る。

 私が槍を構え、熊に向き直ったのと、熊が改めて私に突進してきたのとは同時だ。


 今度は、私も逃げない。槍の石突きを地面につけて、熊の突撃に穂先を向ける。

 騎兵突撃を迎え撃つ槍兵は、恐らく、こんな気持ちになるのだろう。

 我に向かってくる重量物の地響き、対して我の身を守る術は、手中の細い一本の棒のみ。


 恐い。間違いようもなく恐い。


 相手が方向を変えなければ、槍を突き刺したとしても、あの巨体が勢いに乗って自分に倒れこんでくる。それだけで、死ぬ危険がある。

 分の悪い賭けだ。恐いのは当たり前だ。

 しかし、熊も恐いはずだ。自ら、鋭い槍の穂先に突き刺さりに行くのだ。その穂先は、十分に死ぬ危険がある。


 迫りくる死を待つ恐怖と、自ら死へ進む恐怖。


 これは、度胸比べだ。

 私は、力のほとんど入らない右腕も使い、しっかりと槍を保持する。後は、地面の力を借りて、あの重量物を貫くのみ。


 脈拍が上がる。

 緊張から酸素の消費量が増え、呼吸が荒くなる。

 だが、穂先は揺らがない。

 今の私は瀕死で、目の前に死が迫っている。だが、それ以上の恐怖の経験が、私を支えている。


 勇敢なる熊殿。

 野生で生きるあなたは、大怪我の経験があるかもしれない。

 ひょっとしたら、死の淵まで追い詰められた経験もあるのかもしれない。


 だが、断言しても良い。

 本当に死んでしまった経験だけは、あなたにはないでしょう?


 心臓が打つ最後の脈動。息を吐いたまま動かぬ肺腑。消えていく視界。生まれて初めて聞く、体内の生命音に邪魔されない、純粋な風の音。一つ、また一つ消えていく、意識の粒。


 この死んでしまった恐怖があれば、もはや他に恐れるものなど何もない。

 私は死んだ恐怖を以て、死の恐怖に抗える。

 その絶対の差が、残り一歩で激突する私と熊の、生死を分けた。

 熊がその巨体を誇示するように、二本の後ろ足で立ち上がる。


「負けましたね、恐怖に!」


 土壇場で、熊は恐怖に負けたのだ。

 突進の勢いが衰え、槍の穂先から逃げようと熊は身をよじらせる。

 だが、一トンにも達しようかという巨体についた加速が、その程度で止まるはずがない。槍に向かって、熊の巨体が倒れこんでくる。

 私は、穂先を心臓に向けて調整するだけで良い。

 分厚いものを貫いていく、生々しい感触の後、柔らかく脈打つ何かの手応え、そして槍にかかる衝撃。


「っ!」


 槍が耐え切れずにへし折れると共に、熊の巨体が私の半身をかすめて地面に沈む。


「土壇場で……恐怖に負けた騎兵の末路ですね」


 右へ逃げようとした熊の意思が、槍の手助けを借りて、手遅れになってから果たされたのだ。

 生き残ったのは、私だ。


 次の問題は、この後も生き残れるかだ。

 右腕の傷は深い。出血は、大分大人しくなっているが、止まったわけではない。

 出血多量。傷口の化膿による感染症。治療、治療が大事だ。


 気がついたら、膝をついて座りこんでいる。

 まずい、記憶が少し飛んでいる。意識を保たなければならない。

 周囲に人がいる気配がする。眼が良く見えない。


 いや、目をつぶっているのだ。瞼がひどく重い。

 これは、私自身で治療はできそうもない。誰かにやってもらわなければ。


「私の右腕の包帯は、止血処理が済むまで、解かないでください」


 輸血ができないため、これ以上の出血を避けなければならない。


「傷口は、軟膏を……私の家にある薬を使ってください」


 感染症は、アロエや蜜蝋を使った傷薬で被害を減らせるはずだ。


「できれば、傷口を縫ってください。包帯は、血が止まったようならあまりきつくしすぎないで」


 完全に血流が止まると治癒が始まらないはずだ。

 あとは、あとはどんな注意事項がある。


「そうだ、熊。熊は毒が回っているので、食べるなら、火を良く通して」


 いや、待って。

 これは関係ない。大事なことかもしれないけど、私の体の方が大事だから。


 でも、できれば熊肉を食料にしておいて欲しい。私もこの怪我を乗り越えたら食べたい。

 今世十年目にして私を瀕死の目に遭わせやがって、この熊殿。

 お前を食べて、私は生きてやるぞ。

 お前の分まで、絶対に生きてやる。


 死んでたまるか。私は、まだ、やりたいことがたくさんある。


 生きるんだ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 転生物は色々見てきましたけど、この胆力をこう描く作品は初めてで痺れました。
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