ヤエの謀略
【シナモンの祭壇 ヤエの断章】
声も良い。
大講堂から響いてくるジョルジュ卿の声に、うっとりしてしまう。
ドア越しなので、せっかくの声が聞きづらくて残念です。その分、瞼を伏せて、耳に意識を集中させて傾聴している。
やはり、ジョルジュ卿も本職は騎士ですね。声の通りが大変によい。腹から声が出る、というのはこういうことでしょう。とても素敵。
今、わたしがなにをしているかというと、現在、軍事系の講義をしているジョルジュ卿の出待ちである。
領主代行からの命を受け、今期の軍子会の面倒を見ている者同士、ジョルジュ卿に相談する時間が欲しいのだ。
私情によるものではなく、公務による待ち伏せです。
だから、衛兵は呼ばなくてよろしい。
こちらを訝し気に見てくる同僚に、手を振って問題ないことを伝える。
わたしがそんな問題を起こすわけがないではありませんか。これでも、領主一族であり、ユイカ姉様に次ぐ知略派と目されているのですよ。
当然、やるとしたら問題にならないようにしてからやります。
領主一族なんですから、やる気になればいくらでもできますとも。色々苦労もしたんですから、それくらいやらせてもらいます。
まあ、やりませんけど。もちろんではありませんか。
自分で考えるだけでも、大声では言えないと感じるのです。清廉な騎士であるジョルジュ卿は、眉をひそめるでしょう。
そういう表情もまた、あの人は格好いいのですが……こほん、騎士は取り締まる側ですしね。あの人に嫌われたらわたしは絶望します。
だから、やりません。
……とりあえず、まだ。
ジョルジュ卿の声を聞きながら、どのようにお付き合いをすべきか今日も今日とて考えていると、講義が終わったようだ。
声が聞けなくなって残念に思いつつ、ドアを開けてジョルジュ卿のお顔が拝見できて笑顔になる。
「お疲れ様です、ジョルジュ卿」
「お疲れ様です、ヤエ殿」
講義で発していた声が、声量を小さくすると余計に温和な印象になる。
「本日の講義はいかがでした?」
「そうですね。落ち着きがないように感じます。実技の方は、もう少し全体が落ち着いてから本格的に始めたいところですね」
「ジョルジュ卿の目から見てもそうなのですね」
「はい。ヤエ殿から見ても?」
「わたし自身が見たというより、他の担当神官からなのですが」
そう前置きをして頷く。
ちょっと軍子会の子達の評価に関わってくるので、それとなく小部屋の方に移動を始めると、ジョルジュ卿も心得ていて会話を続けながらついてくる。
「わたしは現在、基礎教育の必要がない自習組の担当をしていますから、大講堂の参加者の様子は遠目にしかわかりません。ですので、そちらの情報は他の神官から聞いています」
「読み書き計算がすでにできている自習組ですね。あの面々の他にもいるのですか?」
あの面々とはアッシュさん一行を指すのは明白だ。
なんと言っても、アーサーさんとマイカさんがいる集団で、わたしやジョルジュ卿が軍子会の教導役になるべき要因が集まっている。
……要因のはずの二人ではなく、予想外の人が中心になっているのが大分おかしいですが。
ふと疑問が湧いたけれど、今そちらは考える必要はない。
首を振って考えを戻す。
「現在の自習組は、あの三名だけです。他にも読み書き計算が問題ない人達もいるでしょうが、交流のために大講堂に混じっているのでしょう。あの年頃で自習しなさいと言われて、迷いなくやりたいことがある方が珍しいのではないかと」
「確かに。軍子会に入った頃なんて、同世代の友人とお喋りをするより楽しい勉強なんて、まるで思いつかなかった気がしますね」
あ、笑った――ぐっと奥歯に力を入れて、気合いで笑みが崩れすぎないように表情を保つ。
ジョルジュ卿、大変素敵な笑みなのですが、不意打ちはおやめください。あなたの仕事用の笑みから、私的な笑みへの切り替え、その世界樹の天辺から地上までに匹敵する落差はもはや凶器ですよ!
「ジョルジュ卿にもそういう年頃があったのですね」
くらくらしながらも、かろうじて無難な台詞を絞り出す。
「よく周りから真面目だ真面目だと言われていますが、そう言われるくらい気を引き締めて、ようやく一人前になれている程度の人間ですよ」
「ジョルジュ卿は、十分ご立派ですよ。あなたで一人前なら、一人前未満ばかりになってしまいます。……わたし程度が評価するのは偉そうですけれど」
「とんでもない。ヤエ殿に評価されて光栄ですよ。あなたの思慮深さと判断の鋭さは、尊敬していますから」
「領軍の分厚い帳簿をまとめるジョルジュ卿にそう言って頂けるなんて、こちらこそ大変光栄です」
本当に、本気で、光栄です!
流石はジョルジュ卿、わたしの能力を評価してくれるなんて、わたしの心をこれでもかというほど喜ばせてくれるのですから。
これが他の気の利かない節穴どもだと、領主一族だから評価して当然、くらいしか言えない。社交辞令ならそれで十分だけれど、わたしを口説くつもりでもその程度しか言えないのなら、論外だ。
領主一族の血筋が、広く評価される事項であることは承知している。
名前にくっついているのだ、顔よりも知られた事実である。それしか評価してくれないということは、つまり、わたしについて誰でも知っているようなことしか知らないのだ。
辺境伯家の旗を背負っている以上、わたしに言い寄る男は多い。そんなわたしを口説く気があるなら、当たり前以上のことを言ってもらわないと。世界樹を拝んでから出直して来い。
その点、ジョルジュ卿は流石ですね。難点をあげるとすれば、ジョルジュ卿にわたしを口説くつもりがないことでしょうか……。
小部屋に入り、お互いに頷きを一つ。当たり障りのない会話はここまでだ。
残念ですが。
非常に! 残念ですが! ここまでです!
「改めまして、お忙しい中、お時間をありがとうございます」
「いえ、それはお互い様ですので」
ジョルジュ卿は微笑むが、わたしよりこの人の方が圧倒的に忙しいですからね。
わたしには他の神官という代わりがいて、イツキ兄様という代わりがいて、リインやランを筆頭に他の侍女という代わりがいるけれど、軍部のジョルジュ卿の代わりはいない。少なくともわたしには思いつかない。
どうして年若いジョルジュ卿がそんなに貴重かというと、その頭脳と生真面目さを高い水準で兼ね備えているところです。
騎士たるもの文武両道であれ、とはよく言うものの、それでもやはり戦場に出る役目柄、どうしても剣を振り回す方を重視する人が多い。
特に、ユイカ姉様の世代、決闘が大流行してしまったので、本より剣を持っている時間が多かった世代ができてしまった。
そんな中、貴重な頭脳労働担当がジョルジュ卿である。
しかも不正の心配がいらない生真面目さ。領軍の年間予算を百年分預けても安心できる騎士とは彼ただ一人である。
本人は、百年は絶対にやめてくださいと真顔になったけれど。
ともあれ、領主一族であるわたしより代わりが利かない貴重すぎる騎士なのだから、こちらも当然気を遣います。
いえ、イツキ兄様になにかあれば、また話は変わるのですが、その場合はわたしの価値と共にジョルジュ卿の価値も上がるだけです。
そんな希少価値の高い騎士に、軍子会の様子を改めて尋ねる。
「先程も言いましたが、少し落ち着かないですね。実技をやろうとすると怪我人が出るのではないかと思います」
「同僚の神官も似たように感じているようです」
一度は軍子会も落ち着いたのだ。この辺りは、リインさんとレイナさんの手腕が大きい。
リインさんは流石の手並みと言えるが、レイナさんもまだ若いのによく頑張りました。神殿での軍子会の様子を見ても、レイナさんが睨みを利かせているおかげで揉め事が明らかに少なかった。
ところが、と言うべきか。やはり、と言うべきか。最後にやって来た参加者の影響が大きかった。
マイカさんと、アッシュさんだ。
軍子会の担当者であれば、この二人の名前だけで、後はもう、なにをかいわんや。
「マイカさん、ユイカ姉様にそっくりで、とても可愛らしいですからね」
「ええ、血筋なのだなと一目でわかります」
ユイカ姉様にそっくりと言うことは、その美しさもユイカ姉様そっくりと言うことだ。愛を巡って三桁の決闘を引き起こした美貌にそっくり。
そんな見目の良いマイカさんが、一緒に来たアッシュさんに仲良くべったりくっついている。年頃の若者を集めた軍子会が、これで荒れないはずがない。
それを考えれば、落ち着かない、で済んでいる現状はかなりマシな方だ。
リインさんやレイナさんの心労がしのばれる。
「一目でわかる血筋と言うなら、アッシュさんもそうですけれど……」
「はい? ああ、自分ではよくわからないのですが、そんなに似ていますか?」
言い訳ができたので、まじまじとジョルジュ卿の顔を見つめてから頷く。
「とてもそっくりですよ」
こう、ジョルジュ卿の顔立ちは、浮薄なわけでもなく、厳ついわけでもない、柔らかい雰囲気が大変よろしいのです。
魔物と衝突が多い土地柄、少々荒々しい男性が多い中、ほっとする。ジョルジュ卿は傷跡もあって精悍さもありますが、それでもやはり温和な雰囲気が素敵です。
それと似ているアッシュさん。しかも、大変に頭がよろしい。
前期古代語の翻訳の一助になっているとか、ちょっと意味がわからないくらい頭がよろしい。マイカさんほどわかりやすい衝撃はないでしょうが、その能力が知れ渡ればこちらもかなり人気になるでしょうね。
「まだまだ波乱がありそうですね……」
「間違いなく。このような状況ですから、ヤエ殿やリイン殿が配置されていてほっとしています」
「それはこちらもですよ、ジョルジュ卿。当初の懸念とは違うところで効果を発揮しているようで、少々微妙な心地ですけど……」
呟くと、ジョルジュ卿は違いないと小さく笑う。
「アーサー様のご様子はどうですか。こちらはヤエ殿の方がお詳しいでしょう?」
馬車で送迎を任されたジョルジュ卿は、アーサー様の我慢強さを評価しつつ、あまり明るい表情を見せないことを心配してもいたので、気になっていたようだ。
これについては、文句なく良い報告ができる。
「ええ、間近で見ていますから、よくわかりますよ。最初の頃と比べると、ずいぶんと楽しそうに笑うようになりました」
それはよかった、とジョルジュ卿は父性的な安堵を浮かべる。
いいですね。珍しい表情、ぐっと来ます。
「そちらはどうなることかと思っていましたが、思いもよらぬ解決をしそうですね」
「ええ、まったくですね」
想定された問題が、思いもよらぬ問題と入れ替わっただけかもしれない。脳裏を過ぎった考えは、胸にしまっておこう。
外れていたら笑って終わりだけれど、当たっていたらどう反応していいかわからない。
そして、多分だけれど、当たっている気がする。
「あ、ジョルジュ卿、お時間はまだ大丈夫ですか?」
「大丈夫、とは言えませんね。倉庫の確認作業がまだまだまだありまして……」
まだが三つもつくとは、相当に大変なようです。
「そうですか。もっと情報を交換したいところですけれど……ジョルジュ卿、今日の夕食はなにかお約束が?」
「いえ、仕事が終わる見込みがないのでありません」
はい、知っています。大体ジョルジュ卿の行動様式は把握しているつもりです。
わたしだから知っているわけではありません。バカがつくほど真面目な奴、とジョルジュ卿を評価している大半の人間が知っていることです。
誰かが誘わない限り、この人の予定に遊ぶという文字はありません。
「では、領主館で一席いかがでしょう? イツキ兄様にはわたしから連絡をしておきますので、続きはその席で食事を取りながらというのは」
「仕事がいつ終わるかわからないので、お約束はちょっと……」
「そんなに根を詰めて体を壊したら大変ではありませんか。部下の人達にも、休む時間を与えないと。それに、軍子会の情報交換も大事なお仕事ですよ」
「わかってはいるのですが……いえ、そうですね。お願いしてもいいですか?」
よし。流石はジョルジュ卿、本人に休めと言っても効果が薄い!
部下を引き合いに出し、食事の席の打ち合わせも仕事だと言い聞かせてようやく納得してもらいました。
この人は本当にもう、放っておくと仕事ばかりして、誰かがこうして止めないと体を壊しますよ。壊しますとも。
ですから、その誰かが必要なわけで、わたしがその誰かになってもいいですよね?




