紙の上の世界5
この日の地図作りは、特別だ。
いつも自習に使っている神殿の小部屋で、レイナだけでなく、アッシュも、マイカも、ヤエ様も集まってもらった。
中央の机の上に、主役となる地図を広げる。
ボクとレイナは、いくつか地図を作ってみたけれど、この一枚はちょっと特別だ。
王都から持って来たあの不正確な地図を、今できる精一杯の正確さで描き直したものだ。
縮尺は一目盛りが五〇〇陽歩にもなり、都市と都市の間にある小さな村はとてもではないけれど描き切れない、ボク達が作った中で一番大きな世界地図でもある。
「これは見事な地図ですね」
ヤエ様が褒めてくれるけど、まだまだだということを、作っているボクとレイナはよく知っている。
「王国北部の部分はかなり正確にできたと思うけど、南の方はきっといい加減な情報を渡されているし、東西の幅も情報不足で誤差が大きいと思う」
だから、本当に正確な自信があるのは、サキュラ辺境伯領からスクナ子爵領にかけての南北の細い線になる。
でも、幸いなことに、今回はここが一番重要になった。
「それじゃあ、始めるよ」
地図作りに使う、一〇〇〇分の一陽歩の定規を取り出して、迷わずに地図上のサキュラ辺境伯領の上に置く。
「まず、サキュラ辺境伯領南部にある街、ヒカはここ」
あらかじめ記載されていた地名に、定規を当てる。
「そして、ここから真っすぐ南に行ったところに、スクナ子爵領のカゲツという街があることが、地図を作っている時に判明した。距離は直線でおよそ一九四四陽歩……」
一〇〇〇分の一陽歩の定規で、メモリ四つ分、より少し上に羽ペンのインクを落とす。
ここがカゲツだ。
「この二つの地点で、同じ日の正午に、日時計の影の長さを測ってもらった。その数字はこの紙に写して来たよ」
日時計の高さと、その影の長さ。
まさか、そんなものを欲しがる日が来るなんて思いもよらなかった。
ドレスも、宝石も、王都にいた頃には欲しいとも思わなかったのに、この影の長さだけは、どうしても欲しかった。
世界の広さを知るために。
机の上に紙を置くと、ヤエ神官が三角比の表が載った高等数学の本を隣に置いた。
「よし、計算を始めるよ。皆、手伝って、お願い」
新しい紙の上に、計算を書き出す。
日時計の高さで、影の長さを割る。出て来た数字を、ヤエ様とアッシュが三角比の表から、角度を調べる。
ヒカの日時計から求められる太陽の角度と、カゲツの日時計から求められる太陽の角度の差が、ボールの形の世界で、二つの地点の角度の差になる。
アッシュが説明に使ったあの閉じた扇が、どれだけ細いかがわかるのだ。
計算の結果は、驚くほどに細い。
閉じた扇というたとえではわかりにくいくらいだ。
「角度の差が、三度もない?」
二.八八度。
たったこれだけ。
思った以上に、サキュラの街とスクナの街は、世界全体から見るとほんのちょっと……それこそ、小指の爪の先くらいしかないのかもしれない。
驚いて、その驚きを確かめるために、すぐに次の計算を紙に走らせる。
二つの地点の角度差が出たら、それがボール状の世界を何分割した数字なのかを計算する。
ボールを三六〇分割にしたとしたら、二.八八度は一二五分の一?
つまり、この世界は、サキュラとスクナの間の距離の一二五倍ということになる。
二地点の距離である、約一九四四陽歩と乗算すれば、世界の広さはもうすぐそこだ。
計算をする前から、見たこともない大きさになるだろう数字が眩しすぎて、少し恐いくらいだ。
でも、計算をやめられない。
知りたい。その気持ちが、驚きと恐怖に止まりかけた頭を動かす。
「世界の大きさは――二四三〇〇〇陽歩!」
出た。
出してしまった。
世界の大きさを、小さな机の上、狭い紙の上に、出してしまった。
もう、ここまでくると、数字の桁が大きすぎて想像もつかない。
とんでもない大きさだ。頭が真っ白になる。
にじゅうよんまん……?
この距離を旅するには、何日歩くことになるんだろう。
三〇〇陽歩も進めば、もう日が暮れるらしい。果てしのない彼方の数字に、意味すらわからない。
「おお、流石に桁が大きいですね。もうちょっとすっきりさせたいところ。一〇〇〇陽歩で、長陽歩とか大陽歩とか、新しい単位を作っちゃいましょうか」
そこで一人だけ平気な顔をしている人! ちょっと黙ってて!
こっちは今すごくびっくりしてるの!
「まあ、それは後でもいいですね」
そう、後で良いの。
今はこの驚きをどう受け入れたものかの方が大事。
だって、たった今計算された数字は、目の前に現れた世界の広さは――それ以上の言葉は、舌が痺れたように出てこない。
ただ愕然とした気持ちで、机の上の地図を見下ろす。
自分が知っている中で、一番大きな地図。
世界地図だと呼んでいたもの。
世界地図だと思って、作ったもの。
その北の端から南の端まで、陽歩にしてどれくらいか、もちろん記憶している。
一五五五五陽歩だ。
おまけをして一六〇〇〇陽歩にでもしておく? そんなもの、世界の広さである二四〇〇〇〇陽歩の前には誤差だと言い切ってしまえる。
「この地図は、五〇〇陽歩を一メモリで作った。同じ縮尺で、少なくとも南北だけでも本当の世界地図を作ろうとしたら、この地図の何倍の大きさが必要?」
「ざっくりと言って、十五倍くらい、かしらねぇ」
答えたのは、同じくこの地図に使った数字を知っているレイナだ。
その計算の早さは流石だと思うけど、彼女にしては大雑把な計算結果からすると、彼女も相当衝撃を受けたようだ。
十五倍。この地図の十五倍?
この地図だって、ボクの上半身を隠せるような大きさなのに、その十五倍だなんて、描くための紙を用意するだけで大変だ。紙を繋ぎ合わせて作るしかない。
この上、南北に加えて東西も正確に作ろうとしたら?
世界がボールの形なら、縦と同じように横にも大きいはずだ。必要になる紙の大きさは、多分、寮館の二人部屋より広い紙面を必要とするだろう。
あの部屋より広い紙だなんて、どこにしまっておけばいいのだろう?
想像したら、ふっと笑いが漏れた。
世界地図が床一面に広げられた部屋だなんて、ちょっと、欲しい。
「五〇〇陽歩縮尺で、このまま世界地図を作ってみたい気もするけど」
呟いたら、レイナがぎょっとした顔になった。彼女も、それがどれくらいの大きさになってしまうか、想像したのだろう。
大丈夫だよ。そんなすごい顔をしなくても、本気で作ったりしないから。
「流石にそれは無理だから、縮尺を変えて、もう一度地図を描き直さないとね」
「あぁ、そうね。普通、そう考えるわよね。よかった、世界地図を敷き詰めた部屋が必要になるかと思ったわ」
「うん、普通はそうだよ。アッシュじゃないんだから」
ボクが言うと、レイナはほっとした顔で頷き、アッシュはとんでもないと肩をすくめる。
「私だってそんなことしませんよ」
アッシュははっきり言い切ったけれど、全員が疑わしそうな顔を見合わせる。
そして、案の定、アッシュの言葉は続いた。
「でも、大小さまざまな地図を集めて博物館みたいにするのは面白そうですね。目玉は部屋一面の超巨大世界地図……あれ、思ったよりありでは?」
「ないわよ!?」
考える余地のないことを、レイナが一瞬も待たずに否定することで伝えようとするけど、アッシュは楽しそうに地図博物館の構想を語り出す。
アッシュは、やっぱりアッシュだね。
最後には、レイナも含めて、皆で笑った。
****
丸めた地図を握りしめ、寮館へと帰る道。夕暮れの影と並んで歩きながら、新しい世界地図について考える。
部屋並みの世界地図を、机に載る大きさにするには、どれくらいの縮尺にするべきだろう。
握りしめている五〇〇陽歩の縮尺から、倍にして一〇〇〇陽歩を一メモリ? これでもまだ大きいかも。さらに倍の二〇〇〇陽歩を一メモリ?
とんでもない比率になってしまう。また笑いが湧き上がってくる。
サキュラとスクナの間が一メモリ分、小指の爪先くらいになる。
サキュラと王都の距離だって、小指の長さくらいになるだろう。あんなに窮屈な思いをした、長く感じた旅路が、指でつまめるくらいの大きさだなんて!
なんて小さい。
なんて狭い。
アッシュの言った通りだ。世界は広い。
ボクの見てきた地図は、ボクの作った地図は、あまりに狭い。
地図に空白が必要だ。もっともっと、多くの空白が、地図には必要だ。
いつか、その空白に世界を収めるために。
きっと、空白には素敵なものがあるのだろう。
綺麗なものも、美味しいものも、驚くものも、楽しいものも……。そして、恐いものも、たくさんあるのだろう。
ボクが、そうだったから。
王都の狭い世界から出されて、サキュラという広い世界を知って、それらを全部知ったから。サキュラの先にある広い世界にも、またそういったものがあるんだと信じてしまう。
ボクが、これ以上世界の空白を収めに行くことはできないだろうけれど、この世界は広いと示すことで、いつか誰かに、その時がやってくることくらいは夢を見させて欲しい。
考えこんでいるうちに、顔が下を向いていたらしい。
偶然、地面を過ぎったその影に気づいた。
鳥の影だ。つられて空を見上げると、一羽の鳥が、太陽に向かって飛んでいく。
なんて、羨ましい。
渇いた時に水を見るほどの強さで、そう感じた。
あんな風に自由に飛べれば、この広い世界の端まで見に行けるのに。
地図の空白を、埋めて、埋めて、埋めて、世界を縮めてしまえるのに。
あの自由な翼が、羨ましい。
鳥を求めて、思わず、手を伸ばしたくなる。
そんなことをしてもなんの意味もないと、すぐに我慢する。
手を伸ばしても、鳥には届かず。
鳥を掴んだとしても、翼は手に入らず。
翼を手に入れたとしても、自由にはなれない。
それでも、鳥を羨んで疼く手――その手を、誰かが掴んだ。
「アーサー君、こんなところでぼうっとしてちゃダメだよ。置いて行っちゃうよ?」
マイカだった。
空を飛ぶ鳥に魅入っていたボクの手を掴んで、引っ張っている。
「ほら、早く帰ろう?」
マイカの引っ張る先には、アッシュとレイナが足を止めて待っている。
ボクを、待ってくれている。
「今日のヤックさんのご飯はなんだろうね? あたしもうお腹減っちゃった!」
繋いだ手から伝わる柔らかな温もりに、鳥に向けていた嫉妬が溶かされる。
「うん、ボクも今日ははしゃぎすぎたよ。お腹、空いたね」
あの鳥は、一羽で飛んで行った。ボクは飛べない代わりに、一緒に帰る人がいる。
それでいいよね。
少なくとも、今は、それだけでいい。




