紙の上の世界4
時間が経つにつれ、順調に話は進んでいった。
リインのおかげだ。
貴族や為政者としてまるで未熟なボクは、なんとなくこういうことをしたい、と口にするしかできない。それをリインが報告や文書の形にして、イツキ兄様やスクナ子爵、そこから他領の領主へと回してくれる。
すると、ちゃんと欲しかった返事が戻ってくる。
初めは、サキュラ領内の都市がどこにあるかが、ボクの机の上に届いた。
続いて、スクナ子爵家から、スクナ子爵領内のものが。それから、他の辺境貴族の領地の情報が、どんどんと机の上に重なっていく。
スクナ子爵家が力を尽くしてくれているおかげで。あるいは、力を尽くし過ぎているせいで。広い世界から集められた情報が、狭い机の上から溢れてしまいそうだ。
「それ、あっという間にとんでもない量になっちゃいましたね」
机の上の惨状を食い止めるべく、せめて地域ごとに分別しようと奮闘していると、アッシュが肩越しに覗いてくる。
いつもは、机に向かって作業をするアッシュを、ボクが覗きこむんだけど、逆になってしまった。
「流石にその量は一人だと時間がかかり過ぎますから、お手伝いしますよ」
優しい申し出に、しかし、首を振る。
「ううん、大丈夫だよ。アッシュはアッシュでまた色々やっているんだから、手を煩わせるわけにはいかないよ」
「やっていることがあるのは事実ですけど、アーサーさんのお手伝いを全くできないわけではありませんが……」
「ありがとう。でも、これくらいやらないと、アッシュの足を引っ張ってばかりだから申し訳ないよ」
農業関係であまり役に立っていないから、地図作りをやってみたいってボクが言ったんだ。
それなのにアッシュに助けてもらったら、余計に迷惑をかけることになってしまう。
「助けて頂いているので、アーサーさんが気にすることはなにもないのですが……私がダメなら、マイカさんやレイナさんはどうです?」
アッシュが水を向けた先、アッシュの机の資料を見ながら、農業改善計画書の中身について話していたマイカとレイナ――ボクと同じく農業に疎いレイナが、マイカにあれこれ質問をしていた――が、会話を止めて顔を上げた。
「なに? アーサー君のお手伝い? あたしはもちろんいいよー」
「わたしもいいわよ。お母様から少しだけ話は聞いていたし、ここの外のことを知るいい機会になりそうだもの」
二つ返事で了承するマイカと、勉強熱心に了承するレイナ。
二人とも、この紙の量に怯まないのはすごい。……アッシュの調べ物が過酷なせいで、おかしくなっているだけかもしれないけど。
「アッシュの気遣いも、二人が手伝ってくれるのも嬉しいけど、ボクがやるって言いだしたことだから、ちゃんと最後までボクがやるよ。それにこれ、本当に大変だから他の人にやってもらうのは申し訳ないし」
どこの街からどこの街に行くには、あの村まで一日かけて移動して宿泊、次にこの村まで半日かけて移動して宿泊して、そこから一日かけて……みたいなものが、たくさん集まり過ぎた。
これをなんとか統一した表記に頭の中で変換して、書き直さなくちゃいけない。
やっているうちに頭の中がごちゃごちゃになって、それはもうすごいことになる。机の上の何倍もの混乱が、頭の中に広がる。
ボクが笑って手を振って断ると、アッシュが困ったような顔をして、マイカは唇を尖らせて、レイナが眉間のシワを右手の人差し指で押さえて、溜息を吐いた。
「その、本当に大変なことがわかっているから、あなたを手伝いたい……という話を、アッシュはしていると思うのだけれど?」
違うかしら、とレイナがアッシュに確認する。
アッシュは、その通りとばかりに大きく頷く。同時にマイカも頷いて、レイナがやっぱりね、と再び溜息を吐いた。
な、なんだか、ボクが悪い子だって言われている気分なんだけど……。
「最近のアーサーのこと、お母様も心配していたのよ。ああ、寮監殿ではなくて、お母様よ?」
寮の管理者、軍子会の監督者ではなく、侍女であるリインの懸念を、その娘が語る。
「その机の上に広がった報告書、一人では手に余る量だから、ちゃんとアッシュやわたし達に協力を得ているのかと、何度も聞かれているのよ?」
「それは、だから、これはボクがやるって言いだしたことだから……」
「それを言うなら、アッシュがいつかやりたいことだって言い出したからでしょう?」
レイナらしい容赦のない口調で、ボクの反論はばっさりと切り捨てられた。
「お母様、アーサーには人の上に立つ者として、従者を使うように教えたのに、振る舞いがなっていないとご立腹だったわ」
「う、リインが怒っているんだ……」
それは、ちょっと恐い。次に顔を合わせる時に緊張しそうだ。
「でも、リインに教わったのは、従者に対する振る舞いであって……その、ボクと、皆の関係って、そうじゃない……よね?」
貴族としての上下、主家と従者、為政者と民。
ボク達の関係は、そういう縦に並ぶものではなくて、横に並ぶものの名前のはずで、少なくとも、ボクは、そうでありたいと思っている。
友達でありたいと、思っている。
泣きたいほどに。
「バカね」
従者が主家に向けるにはひどく不敬な言葉に、主家に対する従者とは思えない親愛を混ぜこんで、レイナが答えた。
「わたし達が友達だって言いたいなら、なおさら手伝うのに理由なんていらないわ。友達がなんだか苦労しているなら、手を差し伸べるものよ」
言葉通り、差し伸べられた手に、戸惑う。
「ほら、遠慮していないで手を取りなさい。友達なんでしょう?」
その言い方は、ずるい。
手を取らないと、友達だと思っていないことになってしまう。
それは流石に嫌だ。
友達じゃないと言われるのなら、まだいい。
だけど、友達じゃないと、ボクが言ってしまうのは、嫌だ。
おずおずと手を伸ばす。
厚かましくないだろうか。迷惑じゃないだろうか。
迷いに遅いボクの手を、さらに伸びてきた手が掴んだ。
レイナではなく、マイカの手だ。
なにが起こったの!?
「えっ?」
驚いた声を上げたのはレイナだ。ボクは驚きすぎて声も出せてない。
驚いた(多分)当事者の二人をよそに、マイカはボクの手を引っ張って、さっさとレイナの手とくっつけてしまった。
ついでに、その上からマイカがボク達の手をまとめて掴んで、離れないようにくっつけてしまっている。
なにこれ、なにされてるのこれ。
マイカの凶行を見ていたら、アッシュが下からも掴んできて、ボクとレイナがどうがんばっても、手を離せなくなってしまった。
ものすごい混沌とした場ができた。しかもボクとレイナは逃げられない。
ボクがアッシュを、レイナがマイカを、それぞれなんでこんなことになったのか疑問一杯で見つめると、息ピッタリに答えを返された。
「あたしも友達だから、参戦してみた」
「ここで友達から外されるわけにはいかないので、参戦しました」
この二人は、本当に仲が良い。
こういう時、笑顔までよく似ている気がする。見ていると、釣られてこっちまで笑ってしまう、温かい笑顔だ。
今もそう。
二人が笑っているから、ボクもつい、笑ってしまう。
気がつけば、レイナの笑い声もする。
「ああ、もう、滅茶苦茶だわ」
目元に滲んだ涙を拭って、その指でレイナが指さしてきた。
「でも、ここまで滅茶苦茶な友達なら、アーサーでも遠慮しないで声をかけやすいでしょうね。これくらいで丁度いいのかもしれないわ」
そうかもしれない。こんな楽しい友達が相手なら、ボクも少しは、お願いしやすいかも、なんて思えてしまう。
「でも、それ、レイナが言うの? 君も、結構意地を張って我慢するところがあるよ」
覚えている。
寮が開かれたばかりの頃、レイナはいつも眉間にシワを寄せて、一人であっちもこっちも上手く回そうと、奮闘していた。
それを指摘すると、レイナの頬が、少し赤らんだ。
「ええ、そうね。でも、だから、説得力があるでしょ」
確かに、とても説得力があった。
「じゃあ、お手伝い、お願いしようかな」
少なくとも、こんなに寄ってたかって無理をしないようにと言われたら、甘えたくなるくらいには、説得されてしまった。
****
地図作りの手伝いは、主にレイナにしてもらうことにした。
農業に詳しいアッシュ・マイカチームと、農業にちょっと疎い(ちょっとを付けることになぜかアッシュがこだわった)ボク・レイナチームに分かれるのが、一番効率の良いように思えたからだ。
「確かに、この距離を計算し直すのはかなり手間がかかるわね……」
「レイナもそう思う?」
レイナが取りかかっているのは、報告された全ての距離を、統一した距離の単位、『陽歩』という単位に計算し直す作業だ。
陽歩は、空を進む太陽が、その直径の一個分を動く間に、徒歩で進む距離になる。
これも人によって、季節によって、距離が変動してしまうので、正確さには欠けてしまうけど、旅人が一番広く使っている(と思われる)距離の測り方で都合がよかった。
それに、他の測り方と比べると、これでもまだ正確な方だと言える。
「距離の表現の仕方って、こんなに種類があるのね。馬車で、徒歩で、とか。荷物あり、荷物なし、とか。言い回しも測り方も違うから、やっているうちに今どの計算をしているのか混乱してくるわ」
そう言いながら、レイナは彼女らしい几帳面な文字で、計算し直した数字を紙に走らせる。
その計算速度はかなり早い。レイナより先にやって慣れているはずのボクと、ほとんど変わらない。
「言うほど混乱しているように見えないからすごいね」
「そう? 一応、家の勉強で計算が上手だとは言われたことがあるけど、お世辞でなくそうなのかしら?」
そうだと思うと頷くと、レイナはちょっと嬉しそうに目元を緩めて苦笑する。
「でも、これは本当に大変よ。確かに、地図にする作業の前に、統一した距離の単位に直した方が結果的に早いでしょうね。間違いも少なくなる」
「本当、そうだね。方角の割り出しも大変だし……」
報告される内容から測るのは、距離だけではない。
どの方向に移動しているかもきちんと読み取らなければいけない。
午前の太陽に向かってだとか、午後の太陽を左手にだとか、野営中に目印の星が右手に見えるだとか。
しかも、人が道を真っ直ぐ歩いていても、その道が真っ直ぐであるわけではない。実際、丘を迂回する道、森を避ける道が多く、最終的に辿り着く方角が明らかに違う。
……距離もそうだけど、こっちもこっちでひどく頼りない情報だ。
正直、合っている気がしない。絶対にどこかで間違えている。
頭を抱えていると、アッシュが相談する前に相談に乗ってくれた。
「お待たせしましたー。いやー、すみません。注文したタイミングが悪かったのか、完成までに思いもよらぬ時間がかかりました」
そう言って、アッシュは丸めて持っていた革を机の上に広げた。
どうやら、革の道具入れだったらしく、中には長さの異なる木の棒が数本、大きさの異なる半円状の木の板、それから……なんだかよくわからない二又のナニカが入っている。
「えーと、これは、なにかな?」
さっぱりわからない。
けど、わからないことは、サキュラに来てから……というか、アッシュと出会ってから毎日のことなので、慣れてしまった。
答えの出し方もわかっているので、手早くアッシュに聞いてみる。
「これはご覧の通り、製図道具です」
「製図道具?」
「石工や大工といった職人方の一部が使っている、仕事道具の一種です。あなたへの贈り物としてあつらえた特注品ですよ」
王都でも、贈り物をもらったことくらいはあるけど、流石に職人が使うような道具の贈り物は初めてだよ。
「まあ、規格なんてないので、世界に一つだけの特注品にはどうやってもなっちゃうんですけど。あと、この先も使いそうなので、同じ規格指定で追加を何個かお願いしたので、そのうち世界に三つ以上できるんですけど」
「ううん……流石にアッシュからの贈り物でも、どうお礼を言ったものか迷うね」
アッシュからの贈り物、友達からの贈り物というだけで間違いなく嬉しいんだけど、いまいちどれくらい喜んで良いのかわからないよ。
すっごく喜べばいいのか。とっても喜べばいいのか。気持ちを持て余していると、アッシュがこれも答えを教えてくれる。
「お礼をしたくて仕方がないと優しさと仁義に溢れてしまった場合は、完成した地図でお願いしますね」
「地図? この道具って、地図に使うんだ?」
「地図にもというか、そうですよ。各地点の移動距離がわかったら、方角を決めないといけないでしょう? 報告書を少し見た限りですが、実際に地図上に描きながら考えた方がわかりやすいかと思って」
「あら、もう地図を作れるの?」
相変わらず計算をしていたレイナが、アッシュの声に顔を上げる。
「これだけ情報が集まれば、試作でちょっとずつ作っていけるでしょう。というか、地域を絞って、一度練習してみた方が良いと思います。私達、地図作りは初めてなんですから」
「それはもっともね。それで、アーサーへの贈り物のそれを使うのね?」
「クイドさんの説得をがんばって注文したので、ぜひ活用して欲しいですね! お金をかけてあれこれ規格の指示をしたので、きっとお役に立ちますよ!」
そこ、どういう説得をしたのかとても気になる。
しかし、アッシュはそんなことは些細なことだと、規格の指示の内容を話し出す。
「例えば、この定規、なんと陽歩の一〇〇〇分の一にしました。実際に職人さんに一陽歩分を何度も歩いて頂いて、その平均を出したんです。大変だったみたいですよ、縄を持ってあっちへテクテクこっちへテクテク、一陽歩分の縄を何本も作って、それを半分にして~と繰り返して、一〇〇〇分の一陽歩を出してもらいました」
それ、ひょっとして、ものすごくお金がかかったのでは?
お金の使い方には疎いボクでも、ちょっと背中が冷たくなる。
レイナはもっと冷たくなったらしい。
「その物差し、職人をどれだけ拘束して作ったの!? どこからそんなお金が出て来たの!?」
「クイドさんの説得をがんばったらお金が出てきました」
「そこもうちょっとなにをしたか言いなさい! いけないことはしてないでしょうね!」
「クイドさんも行商人なので、地図ができたら見てみたいですよね――って、呟いただけですけど? 見せるとは言っていませんし、見せて問題ない部分の写しを差し上げればいいですよね」
さらっと言われて、レイナが押し黙った。文句のつけどころがなかったらしい。
レイナが黙ったら、後はもうアッシュの独壇場だ。
「そんなことより、これが、陽歩の一〇〇〇分の一ですよ。さらに十等分の間隔で目印を入れてあります。一メモリで一〇〇〇〇分の一です。地図の大きさを考えると、この一メモリを一〇〇陽歩ぐらいで、縮尺をするのが良いと思います。実際の地形の一〇〇〇〇〇〇分の一の地図になるわけですね!」
それから他の製図道具、分度器やらコンパスやらを取り出して説明をされる。
話を聞いてみれば、確かにあれば便利そうな道具だ。
方角に関する頼りない報告も、実際の地図の上に道を引けばわかりやすい。
一つだけでは頼りない報告をいくつも見比べて、他の街や村の位置関係とも見合わせていけば、当てはめるべき方角が見えてくる。
この村が北寄りの西にあるのはおかしい。そこに風光明媚な湖があるはずだ。この街が南にあるなら、この村はもっと真西に近いはずだ、とか。
ちょっとずつ、不正確な位置を消して、正確な位置を書いていく。
その地道な作業の中、少しずつ形作って行く地図の中に、絶対に欲しかった情報を見つけて、思わず他の作業をしていたアッシュを大声で呼んでしまった。
「見つかった! 見つかったよ、アッシュ! 影のできない街の真南に、街がある!」
「おお、本当ですか! それは都合の良い街がありましたね!」
この大発見に、アッシュもすぐに顔を上げて笑ってくれる。
それが嬉しくて、矢継ぎ早に発見したことを話してしまう。
「ヒカの街の南、大体一九〇〇陽歩の距離にカゲツっていう都市があるんだって! スクナ子爵領内の街で、つまりこれって、かなり正確な情報に基づく方角と距離だと思って良いと思う!」
「それはますます都合がいいですね! ある程度の誤差は仕方ないにせよ、その誤差が少なくできそうなのは大変よろしいですよ!」
「そうだよね!」
それがとっても嬉しい!
この嬉しさをアッシュがわかってくれて、さらに嬉しいよ!
「じゃあ、サキュラのヒカと、スクナのカゲツで、同じ日の正午に日時計と影の長さを測ってもらって、そこから計算すれば――」
「ええ、いよいよですね」
いよいよだ。
いよいよ、世界の大きさを測ることができる。
小さな机の上で。




