紙の上の世界2
あれから、地図のことが頭から離れない。
もっと言うと、アッシュの言う、正確な地図というのがどんなものか、知りたくて胸の奥が疼くようになった。
最初は、なんてこともなく我慢できていた。
でも、アッシュが我慢させてくれなかったんだよ。
肥料について調べるために、農業の基本的な知識を教えてもらっているんだけど、それがすごく面白い。
いつも食べていた野菜の育ち方、育てるための土の違い、その土を耕す道具、知らないことを次々と教えて、知ることが楽しいって覚えさせてくる。
そんなことをされたら、正確な地図がどんなものか、その地図にはどれくらいボクが知らない場所があるのか、知りたくてしょうがなくなっちゃう。
不正確な地図を見ながら、今日も今日とて机に向かっているアッシュに声をかける。
「ねえ、アッシュ……。その、地図作りをいつかするって言っていたけど、どうかな? いつになりそう?」
「うーん、今は農業関係で精一杯ですね。中々地図まで手が回らなくて、しばらくはちょっと……」
ひどい。
こんなに人の頭を一杯にさせておいて、お預けにするなんて。
いいよ。
アッシュがそのつもりなら、ボクにだって考えがあるよ。
決意し、机に向かうアッシュに後ろから声をかける。
「ねえ、アッシュ? ちなみになんだけど、アッシュが地図を作るとして、まずなにから始める?」
問いかけに、そうですね、とアッシュは呟いて、ちょっとだけ顔を上げた。
「手に入るだけの近隣の地理情報、移動距離がちゃんとわかるものだけ選んで、それをちょっとずつ地図に当てはめて……いえ、まずは基準になる長さの単位が必要ですね? 守るべき地図のルールを決めないとダメですよね」
「うんうん、もっと教えて?」
ふふ、知っているんだよ。
アッシュって、聞かれるとなんでも答えちゃうでしょ。
ほら、どんどん教えてよ、正確な地図の作り方。
できるだけ、ボクがやってみるから。
「うーん、長さの単位……とりあえず、世間でよく使われているものを基準にするしかないかもしれません、掌の大きさとか、歩幅とかでしょうか?」
よく使われている基準というと、確かにその辺かもしれない。
掌の大きさとか、指の長さとかは、ボクもよく使う。
「あ、でも、世界の大きさから出すっていう手法もありますね。というか、世界にどれくらい未知の場所があるか知って欲しいので、世界の大きさは絶対に測っておきたいです」
「あ、待って。もうボクがわからない話になった」
世界の大きさを測るって、一体どうやればそんな途方もないことができるの。
まさか山を越えて歩いて行くなんて言い出さないよね?
「昔の昔のすごい人が考えたやり方なんですけど……ちょっと待ってくださいね」
そう言って、アッシュが机の上に新しい紙を広げて、慎重な手つきで羽ペンで円を描く。
「まあ、ちょっと一部ですけど、この円を世界だとします。世界が丸い説が正しかったとしての話なので、それはご了承くださいね」
わかったと頷いて、アッシュの肩越しに紙を覗きこむ。
「この円を二等分にすると、こう」
羽ペンが線を引いて、円を半円にする。
「で、この半円をさらに二等分にすると、こう」
再び線が走って、半円の半分、扇形になる。
「もう一度二等分にして……う~ん、もう一回、二等分にしちゃいましょう」
扇形がまた半分になって、閉じかけた扇形くらいになり、それも半分になって閉じた扇形くらいになる。
「大分小さくなったね?」
「十六等分になりましたからね。ちょっとこの一角を切り取ってみましょう」
アッシュが小刀を取り出して、十六等分された円の一部、十六分の一を切り取ってしまう。
「うん、本当に小さいですね。この外側の弧になっているところ、小指の爪先くらいの大きさですね」
「そうだね?」
これがどうかしたのかな。
首を傾げて見つめる先で、切り取られた紙を、元の場所に戻して、わかりきったことを、わかりやすく教えてくれた。
「つまり、元の円の大きさって、小指の爪先、十六個分ってことですね?」
「え? あっ、本当だ! こんなの考えたこともなかった! わあ、これ本当にそうなるね!?」
言われてみればその通り、簡単な話だ。でも、こんな風に考えたことがなかった。
だって、円の大きさなんてわからなくてもなにも困らない、なんの不便もない。
そのはずなんだ。この世界の大きさを測ろうなんて思いつかない限り。
「まあ、これは円が歪さのない完璧な円であって、二等分する時にも正しく分割されていないとズレが生じるんですけど……おおよその数字は合うはずですよね」
「そうだね! そうか、これを使えばこの世界の大きさも測れるわけだね?」
そうかそうかと頷いて、じゃあ早速これをやってみようと考えて、そのすぐ先で困った。
「アッシュ? ええとね、例えばここから王都までの長さがわかったとして……その長さはこの世界を何等分にしたものか、どうすればわかる?」
「はい。ここからその問題の説明になります」
アッシュって本当にすごい。こんなことでも、聞いたら答えが返って来るんだ……。
「さっきの十六等分されたミニ世界を使って説明……の、その前にですね。神殿に、石柱の日時計がありますよね?」
「うん? うん」
なんで、いきなり日時計の話なのかわからないけど、とりあえず頷く。
「あの日時計の影の長さって、同じ日の同じ時間でも、あっちの都市とこっちの都市でちょっとずつ違うはずなんですよ」
「え? そんなこと……」
ない、と言いかけた口を押える。
はっきりと否定することは失礼だし、なによりアッシュが言うと、その、本当にそうなのではないかと思えてきて、戸惑う。
「あるはずですよ、本当にこの世界が丸いなら、そう考えるのが自然です」
星空や毎年の太陽の動きを見る限り、まず間違いないと思うけれど。
なんてことのない風に、アッシュが付け足す。
「夏至の正午に影ができない場所だってあるはずです」
「本当に? そんな場所が?」
「割とこの近くにあると思うんですよね。村でも夏至の度に、ずいぶんと影が短いなーって思っていましたから。ここから南の方ですよ、きっと」
「そ、そうなんだ」
イツキ兄様に聞けばわかるだろうか。今度、領主館でご飯を一緒にする時に聞いてみよう。
「丁度良いので、夏至の正午に影ができないところを使いましょうか。それが一番わかりやすいですし」
そう言って、さっき切り取られた十六分の一の弧、閉じた扇の端っこ部分に、アッシュの羽ペンが分割線と垂直になるよう日時計を建てる。
「この地点の日時計が、夏至の正午に影ができないとします。それはつまり、この日時計の真上に太陽がいるということですよね?」
日時計を描いた分割線を、羽ペンがそのまま真っ直ぐ伸ばしていき、その先に太陽が描かれる。
なるほど。確かに、影ができないということは、影を作る光、太陽が真上にある。
その考え方、その理屈はわかる。
「同じ日の同じ時間、別な地点では太陽が真上にないので、日時計には影ができます」
十六分割世界からちょっと離れた紙の上に、もう一つの日時計が、影を伴って建てられる。
「この時、影と日時計の延長線上に太陽がいることになりますよね?」
影の頂点と、日時計の頂点が線で結ばれ、その線の延長上にも太陽が作られる。
「うん、うん。図にしてくれているから、なんとかわかる。この太陽は、影のできないところでは真上にいるはずの太陽だから、つまり……」
指先で、影のある日時計をなぞる。
「この、日時計の影は、世界が丸くて弧を描いているからできているはずで、この影と太陽を結ぶ線の傾きが、どれくらいのなのかわかれば」
十六等分世界に描かれた、影のない日時計に指を移して、アッシュの顔を見る。
「この影のない場所から、円を何分割した場所なのか、計算ができる?」
「この世界の大地や太陽が、よっぽど複雑怪奇な動きをしているのでなければ、正解を導けるはずですよ」
ここまで説明されたら、後はわかる。
影のない日時計と影のある日時計の距離はどれくらいか、それを調べれば、この世界の大きさも計算にかけられる。
「すごい」
漏れた声は、火を吐いたように熱かった。
説明をされれば、簡単な考え方の組み合わせだ。
ところどころで複雑な計算は必要になるのだろうけれど、「こんなことができそう」と思いつくだけなら誰にでも機会があってもおかしくない。
できるのだ。
この世界の大きさを計算することが、きっとできる。
それは、あまりに大きな感情の動き。
きっと、この世界の大きさと同じくらい、大きい。
「ねえ、アッシュ、その、これね? 地図を作るの、ボクなら、なんとかできるかもしれなくって……」
指を組んで、祈ってしまう。
思えば、誰かにお願いするなんて、一体いつ以来のことだろう。
なにかをしようとすれば、誰かに迷惑がかかるから、ずっとずっと、しないようにしていた。
「やってみて、いい?」
久しぶりに口にする、自分の望みは、小さく震えていた。
「あの、ほら、アッシュはまだまだ忙しいよね? それだと、地図作りってずいぶん先のことになっちゃいそうだし、農業計画はボクが手伝えることってまだ多くないし、そのお詫びになるかはわからないけど……こっちならやれそうなことが多いから、こっちを手伝ってあげられたらと思って」
慌てて、自分の望みに、アッシュの手伝いというドレスを着せる。
褒められたことではない。そう思うけど、それだけで心が軽くなるのも確かだ。
「おお、いいんですか? この地図作り、情報集めだけでもすごく大変だと思いますよ?」
ボクのやましさが気のせいだと言うみたいに、アッシュが明るい笑顔を見せてくれる。
「うん、まあ、大変なのは、そうなんだろうなって思うんだけど……ほら、ボクも一応、サキュラ辺境伯家の末っ子だから、周りの地理情報を集めるには便利な肩書きだと思うんだ」
多分、この点についてはアッシュより色々とできると思う。
少なくとも、サキュラ辺境伯領の情報は集めやすい。領外の情報となると、また別な問題があるけど、一農民であるアッシュより使えない名前ということはないだろう。
うん、それくらいなら、ボクの嘘塗れの名前でもできることがある……と、思う。
「アッシュのお手伝い、しても良い?」
「もちろんですよ! 本当に助かります。なにせ手が足りなくて猫の手も借りたいとはまさにこのことで、あなたの手を借りられるなら猫どころか農耕馬の手を四頭立てで借りたようなものですね」
「そんなに喜んでくれると、ボクもほっとするよ」
その表現はよくわからないけど。苦笑すると、アッシュに隣の椅子を示された。
「さ、アーサーさんも、そちらに座ってください」
「うん? どうしたの?」
うながされるまま、とりあえず座ると、アッシュはにっこにこの笑顔を見せてくれる。
「地図作りをやって頂けるということで、細かい注意点もお伝えしますね」
「え?」
「日時計があればどこでも良いと言う訳ではなく、太陽の動きの関係上、日時計と日時計の位置関係が真北か真南に当たらないと計算が――」
「あ、そうなの? ちょ、ちょっと待って! 今までの話もすごく難しくて、整理しきれてないからちょっと、ちょっと時間を頂戴!?」
とんでもないことを引き受けてしまったかもしれない。
それでも、やっぱりやめる、と言い出すつもりは、全然湧いてこなかった。




