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フシノカミ  作者: 雨川水海
特別展『断章』

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紙の上の世界1

「あ、お帰りなさい、アーサーさん」


 寮館の部屋に戻って来ると、当たり前のように、同居人にそう言われた。


「うん、ただいま、アッシュ」


 答えた自分の声も、ずいぶんと当たり前のように響いたと思う。

 アッシュと同じ場所で、同じ時間を過ごすことに、それだけ慣れてきたみたい。


 初めて会ってからそんなに時も経っていないのに、これほど一緒にいることに違和感がないなんて不思議だ。ただ、不思議がる胸のうちに、同じくらい、納得する気持ちもある。

 誰かと話をした時間――それも、裏も表もない、ただ楽しいだけのお喋りをした時間は、すでに、アッシュが人生で一番になっていると思う。

 マイカやレイナとのお喋りも足せば、もう絶対と言っていい。

 神殿での調べ物の時間、食堂でご飯を食べる時間、寮室での自由な時間。

 正式なお喋りの場であるお茶会に比べればどれもちょっとした時間だけど、そのちょっとも、足せば結構な量になるのだと初めて知った。

 それは、くすぐったい楽しさを伴う学びだ。


「アッシュにお土産を持って来たよ」


 楽しさのお礼になるかはわからないけど、アッシュが前に見たがっていた物を差し出す。

 領主館の自分の部屋にしまっておいた、丸められた皮紙だ。


「はい? なんでしょう?」


 それがなんなのかわからなかったらしく、アッシュは首を傾げながら、とりあえずといった様子で皮紙を受け取る。


「昨日の話なんだけど、王都がどんなところかって話になった時、サキュラ領と王都の間がどうなっているか、アッシュは知りたがっていたでしょ?」

「ええ、村から出たことがなかったので、この都市近辺であっても、地理がどうなっているのか、ちゃんとわかっていないんですよ。クイドさんから話を聞いても、太陽の沈む方向に馬車で行ってお昼前とか、森を右手に道沿いに進み続けるとか……ちゃんとした地図が欲しくて」


 その話を聞いた時に、ボクは言ったのだ。いざという時の防衛にも関わるから、確かに地図は簡単には手に入らないね、と。

 そして、言いながら、ボクは思い出してもいた。

 王都からやって来たボクの、数少ない持ち物の一つ。王都からサキュラまでの旅路を示すために用意された、地図がある。

 それも、この都市の周辺だけのものではなくて、世界全体の地図。


 あれを見せれば、アッシュは喜んでくれるかな?


 ちょっとした思いつきに、胸が弾んだ。

 地図を見た時、アッシュがどんな反応をするか。喜ぶのか、はしゃぐのか。その時の表情を考えると、じっとしているのが難しくなる。

 結局、夜が明けて、そわそわしながら朝御飯を食べて、すぐに領主館に取りに行ってしまった。


 そして持って来たのが、この皮紙。

 さあ、アッシュはどんな顔をするのかな?


「ボク、一応だけど、それなりの立場ということになっているから、持ってたよ、地図」

「本当ですか! あっ、じゃあ、これ!?」


 受け取った皮紙が地図だと気づいたアッシュに、頷き返す。


「流石ですね、持つべき者は素晴らしい友ですよ!」

「ふふ、大袈裟だよ」

「いえいえ、そんなことないですよ。昨日アーサーさんが言った通り、やっぱり地図って軍事的な意味も強いですからね。私はどうやって盗み見たものかと思っていたところで」

「うん、それは危ないからやめようね? やる前に相談してね?」


 地図を盗み見るなんてしたら、密偵かなにかだと疑われて、ひどいことになるからね。

 アッシュに相談されたら、できる限りだけど見せてもらえるようボクもお願いするから。多分、マイカも一緒になってお願いしてくれるから、地図くらいならなんとかなる。


 だから、やる前に相談して。

 絶対して。


 ボクの心配をよそに、アッシュは浮かれた様子で皮紙を広げる。

 ご飯を食べる時もそうだけど、こういう時のアッシュは、普段の落ち着いた雰囲気がなくなって、見ていて微笑ましい。ちょっと可愛く見えるくらい。


「ん? んん?」


 見ていて新鮮なアッシュの表情が、一瞬で曇った。


「これが、地図?」


 難しい顔で呟かれた言葉は、ひどく驚いているようだ。


「そうだよ? 王都から出て来る時に渡された世界地図だけど……」


 あ、ひょっとして、アッシュは地図をちゃんと見たことがないから、戸惑っているのか。

 それはそうか。アッシュってなんでも知っているから、当たり前に手渡して見せたけど、農村なら領地の地図を見たことある人だって少ない。

 それがいきなり世界地図を見せたら、どう見るのかもわからないだろう。


 椅子に座るアッシュの後ろから、地図に指を伸ばす。


「えっとね、地図の上の方、ここが竜鳴山脈……サキュラ辺境伯領の北にあるあの山だよ。ほら、飛竜がいるでしょ?」


 指で示したのは、牙を剝き出しにした竜が、その大きな翼で山を抱くように圧し掛かっている山脈だ。

 飛竜が支配した人外の地だと一目でわかる。


「竜鳴山脈が世界のフタとも言われているのは、この世界地図を見れば頷けるよね」

「世界の、フタ? なる、ほど?」


 大きすぎるお肉を頬張ってしまったみたいに、アッシュの返事がぎこちない。


「ええと、それじゃあ……この、大きな蛇は、ひょっとして海を表していたりします?」


 アッシュが指さしたのは、地図の右から下、左を長い体で覆っている海竜だ。海竜が住んでいるのは、もちろん海だから、その考えで合っている。

 流石はアッシュだ。理解が早い。

 うんうんと頷くと、アッシュは頭を抱えた。

 正解したのになんで?


「ちょ~っと待ってください? これ本当にでっかい蛇や翼の生えたトカゲが世界を覆っているって、皆さん、本気の本気で思っているわけではないんですよね?」

「うん? でも、山には飛竜がいるし、海には海竜がいて、人が近づくと攻撃してくるんだよ?」

「あぁ、ええ……まあ、その……そういう危険生物がいるのは、まあ、良いとして……。この地図はあくまで比喩的表現というか、象徴的描写というか、そういうあれであって……」


 珍しいくらいに言葉に迷ってから、アッシュは絞り出すようにたずねてきた。


「この世界って、ちゃんと丸いですよね?」


 アッシュが、両手をこねるように動かしてボールの形を表現する。

 それがなんなのか理解するまで、ちょっと時間がかかった。


「あ、ああ! 神官のお話で時々言われている、世界はボールみたいに丸いっていう話?」


 そうだった。神殿の言い伝えでは、世界はボールの形をしているという。

 アッシュも、村の教会でそう聞いていたのだろう。だから、地図を見て戸惑ったのだ。

 想像していた形と、全く違うから。


「うん、そうだね。それはボクも聞いたことあるよ、うん」


 でも、聞いたことはあっても、見たことはない。

 見たことがあるのは、全てこの地図のように、海竜が覆い、飛竜がフタをした、閉じた壺の世界だ。


 実際、サキュラに来て見上げる竜鳴山脈には、時々飛竜が見える。

 なら、海にも本当に海竜がいるのだろう。この地図ほどに巨大な竜はいなくとも、人を襲う竜は確かにいて、真実、人々を閉じこめている。

 人は、この閉じた壺の中で生きてきたし、この中でしか生きられない。そして、これからも、この中で生きていくのだろう。


 そういう意味で、世界はボールの形よりも、この地図の壺の形の方が正確なのだと思う。世界がどんな形をしていても、人に許された世界はこれだけなんだから。

 その正しい地図を見て、アッシュは、煮えたぎる鉄のような言葉を漏らした。


 なんたることでしょう、と。


「こんな大間違いの地図が、旅路の地図として実用されているなんて……! いえ、竜が描かれていることにちょっとロマンを感じちゃったりはしますよ? しますけど、実用の地図に必要なのは正確さですよ! ロマンは二の次! ドラゴンの国なんてファンタジー以外で必要ありません!」


 あ、勢いのついた時のアッシュだ。

 困ったな。こういう時は、マイカじゃないと止められないんだけど……。


「アーサーさん、この地図でよくサキュラまで無事に来られましたね!? この地図、この真ん中にあるのが王都ですよね? で、こっちがスクナなんちゃらまでの道のり? なんでくねくねしてるんですか? これ縮尺も方角も位置も絶対狂ってますよね!? 実質、宿泊場所から宿泊場所までの文字案内の役割しか果たしてないじゃないですか!」

「あ、うん、まあ、そうだけど、そういうものだし……?」


 あくまで、世界地図の形の中に、どの道を通っていくかの説明を書き記したようなものだから、方角とか距離とかはあんまり関係ないよ? 地図って、そういうものだよ?


「地図っていうのは数学と光学と測量技術の集大成で、汗と涙と履き潰した靴の数が生み出す世界のミニチュアなんですよ! こんな不正確な地図じゃ、案内以外の場所に行けないじゃないですか!」

「そ、そうだね? 地図の案内以外の場所に行ったら危険だから、行っちゃダメだよ?」

「それでは、ちょっと気になるからと別なところを見たくなっても見に行けませんよ? 自由を求めて寄り道したくても我慢するしかないですよ? それで良いんですか!?」

「それでいいもなにも……」


 そうして来たのだ。

 王都からの旅路は、ずっと馬車の中にいて、ずっと我慢して来たのだ。


 時々目に入る景色や、風の香りが気になっても、それを見に行くことなんてできないから、護衛のジョルジュ卿に迷惑をかけないように、じっと我慢して。


「だって、本当に危ないんだよ? そんなあちこち行くなんて、したらダメだよ」


 きちんとした理由がある。

 ボクの我慢にも、地図の不正確にも、それで仕方ない理由が。


「たとえば、ここサキュラ辺境伯領だって、昔は地図になかったと思う。竜鳴山脈までまだ距離のあるここを開拓するのに、何度も失敗して、初代辺境伯がようやく今の基礎を築いたって聞くよ。知らない場所っていうのは、それくらい危険なんだ」

「うん、そうですね」


 妙に物分かりよく、アッシュが頷いてくれた。

 あまりに物分かりがいいので、この後に続く言葉が、正反対なんだとわかる。


「それでも、危険だからと言われて、全ての人が止められるわけではないです。いつの時代、どんな世の中であっても、行ったことのない場所だとか、知っている人が誰もいない場所だとか、今いるこことは違うどこかを必要とする人が絶えることはありません」


 だから、犠牲が出てもサキュラが開拓されたのでしょう。


 否定に使った歴史を、肯定のために使われてしまった。ここサキュラを開拓した末裔の言葉は、強い。


「未知の場所を必要とする理由は人それぞれ、百人いれば一人くらい抱えているかもしれません。なんらかの理由を抱えた人が百人いれば、一人くらいは実際に未知の場所に向けて旅立つかもしれません」


 続く言葉を口にする前に、アッシュの笑みはわずかに陰った。


「旅立った百人のうち、生き残れるのは、一人だけかもしれません。でも、どこが危険で、どこが安全か、それがわかる地図があれば、旅立つ百人の命が助かるかもしれません」


 サキュラの開拓の歴史が、胸にこみあげて来る。

 失敗をして、苦労をして、築かれた場所。

 その失敗の苦み、その苦労の痛みが、一瞬だけ、理解できたような気がした。

 王都からの旅路が描かれた地図を見る。ボクにはこれがあった。不正確で、出発地と目的地しかない地図でも、これのおかげで、王都から逃げて来られた。


 でも、サキュラでも逃げ切れなかった時、自分はどうすればいい?

 そして、この不正確な地図さえない人は、どうすればいい?


「だから、こんな不正確な地図だって、アッシュは怒ったんだね」


 逃げるしかないほど追いつめられた人に、その逃げ道さえ許さない地図は、確かに世界を狭めていると言っていいのかもしれない。

 わたしは、サキュラまで来られて世界が広くなったけれど、それができない人もいるのだ。


「正確な地図があれば、世界は広くなります。世界が広ければ、もっと楽しく生きられる人もいるでしょう」


 アッシュの言葉に頷く。逃げて来た先で、楽しく過ごしている人間として、そう思う。


「広い世界か。正確な地図だと、世界ってどれくらい広いのかな」


 不正確な地図を掲げて、想像もつかないことを想像する。

 けど、まるでダメ。想像の上でも、少しも形にならない地図の姿に苦笑する。


「ちゃんとした地図を作ろうとしたら、わからない場所ばかりだよ。空白だらけの地図なんて、役に立ちそうもないよね」


 こういう時、いつも自分が少し嫌になる。

 すぐにダメな理由、できない理由、あきらめる理由が思いつく。


「そんなことありませんよ」


 こういう時、いつもアッシュに驚く。

 すぐに否定して、肯定してくれるから。


「空白だらけの世界地図を見たら、その空白を埋めようと旅に出る人がたくさんいると思いますよ」

「まだ地図もないんだから、危険なのに?」

「未知の場所に旅立つ理由は百人百通りです。知らないものを知りたい、見たことのないものを見てみたい、誰も行ったことのないところに行ってみたい。そんな、ただの好奇心が理由、それだけで旅立つ人は絶対にいますよ」


 そんな人、本当にいるんだろうか。命を失いかねないほど危険なのに。

 そう思ったけど、目の前の男の子を見て、すんなりと納得できた。


「機会があったら、私も是非行ってみたいですね。前人未到の秘境への大冒険! ロマンの塊ですよね。これならドラゴンがいても許せます」


 すごい行きそう。わくわくして旅立つ姿が目に浮かぶようだ。

 ボクはそれに手を振って見送るしかないけど……。


 そう思っていたら、手を差し伸べられた。


「その時は、アーサーさんも一緒に行きましょうね。大冒険、きっと楽しいですよ!」

「え、いや、ボクはそういうの……できそうに見える?」


 病弱というほどじゃないけど、体が丈夫な方でもない。

 マイカみたく強くもないし、レイナみたく色々できるわけでもない。大冒険なんてものにくっついて行っても、迷惑をかけるだけだ。


「ええ、できるというか、やりますよね?」


 なのに、アッシュは当然のように、見送りのために振った手を掴んで、冒険に誘う。


「だって、知らないこと知るの好きですもんね。そのうち我慢できなくなって、冒険の荷造り始めるタイプですよね!」

「ええ? そんなことないよ? ないない、絶対ないから。したことないもの!」


 慌てて首を振るけど、アッシュは頷いて笑う。


「またまた~。いつも農業のことあれだけ質問しているんですから、好奇心がすごく強いの、バレバレですよ!」

「あれはだって、あれはそうかもだけど……違うの、そういうのじゃなくて……」


 否定しながらも、どうなんだろうと思う。

 確かに、アッシュのやることについて行こうとしている自分がいる。

 それは、楽しいから? だから、アッシュについて行こうとしているの?

 そう思ったことはない。

 でも、思い返せば、アッシュと話す時に感じる胸の温かさには、楽しさが混じっていたような気がする。

 言葉に詰まっているうちに、アッシュはもう大冒険の準備をし始める。


「いつかの大冒険のため、やるべきことリストに、正確な地図作りも付け加えなければ……。うむむ、やることがまた増えてしまいました」


 ああ、もう、本当に……。


「楽しそうな顔するんだから」


 そんな顔されたら、どうしてそんなに楽しいのか、気になって仕方なくなっちゃうよ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 履き潰した靴の数 のフレーズであの名曲「この道わが旅」を連想しました、アッシュにピッタリですな
[一言] 他に国なかったよな?そこまで機密にする必要有るか? 戦争とか言いたくなるほどの争いだと狼とか寄ってくるよね?
[一言] 地図 幕末に伊能地図が果たした役目は大きかった。 日本が植民地化されなかった理由の1%くらいは伊能忠敬のおかげ。 コロンブスは地球の大きさについてポルトガルの学者と争って負けたのに新大陸発…
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