神官談義
【灰の底 ヤエの断章】
「おや、珍しい」
同僚の神官が、そんな声を上げた。
釣られて顔を上げると、領内にある教会からの手紙を受け付ける神官が声を上げたようだ。
わたしは都市内、中でも領政に関わる執政館からの手紙を担当しているので、その手紙がどれほど珍しくてもまずは関係ない。
巡り巡って、ということはあるので、最終的にどうなるかはわからないが……と思ったら、その神官がこちらを見て微笑む。
「わたしに、ですか?」
「はい、こちらはヤエ神官がご担当した方がよろしいのではないかと」
そう言って差し出された封筒は、ノスキュラ村教会とサインがしてある。
ふむ、なるほど。自然と頷きが出る。
わたしの神殿での担当業務は領政関係。
何故ならわたしが領主一族の出身で、現在領主代行を務めるイツキ兄様の職務を一部手伝っているため、神殿に対する領政側の要望も円滑に進められるからだ。
そして、ノスキュラ村には、わたしと同じ領主一族であるユイカ姉様がいらっしゃる。
あの小さな村の動静は領政にも影響が届きうるのだ。その村の教会の動きについて、わたしが目を通すのは道理である。
「確かに。こちらはわたしが確認します。ありがとうございました」
「はい。よろしくお願いします」
封筒を受け取って、ペーパーナイフで封を切りながら、同僚の神官が思わず声を上げたことに同意する。
あの村の教会から、年一回の定期報告以外の連絡が来るなんて、本当に珍しい。いえ、珍しいというより、初めてではないかしら。
あそこの教会つき神官はフォルケという名前だったわね。
王都で派閥争いに敗れて左遷された、典型的な無気力な神官だと思っていたから、そのうち意欲的な神官に替えてユイカ姉様を助けなければと考えていたところだ。
あの無気力な神官が、定期報告以外に連絡を寄越すなんて、なにか問題でも起こったのかしら。
近頃のノスキュラ村は明るい報せばかりで、村の経営がとても順調に見えていたのだ。変なつまずきにならなければいいけれど……。
目を細める心地で取り出した手紙を確認すると、中身はなんと……教会に置く本の請求だった。
珍しいといえば珍しいけれど、汚損した本の交換や、村長や神官が新たな本の必要を感じて行う、通常の手続きだ。
それも数冊という、ごく少ない単位のもの。
とりあえず、村とその教会に災いが降りかかった、などということではないらしい。肩がちょっとだけ軽くなる。
うん。むしろ、これはいいことだ。
村の教会がやる気になった兆しかもしれない。
近頃、耳に嬉しいノスキュラ村の活性化を見るに、ユイカ姉様が本格的に動き出したということだろう。
領政のごたごたから解放され、村長夫人として村の運営に集中できるようになって、三年になるだろうか。
ようやく、ユイカ姉様は村での地盤を整え、村の発展のために動き出せるようになった。そういうことだろう。
低迷の傾向があった狩猟活動の持ち直し、一度は失われた養蜂の再興、そしてこれまでになかったアロエ軟膏という特産品の開発。
それらに加えて、その役割を果たせていなかった教会の活性化と。
ここまで一気に状況を好転させるなんて、あの人は一体どんな手を使ったのだろう。悔しいけれど、わたしでは見当もつかない。
これでも、ユイカ姉様が去った後、その穴を埋めることを期待されている身なのだけれど、ぽっかりと空いた穴は、わたしには大きすぎるように思えてならない。
軽くなったはずの肩が、また重くなったような気がする。
いけない、いけない。心に影が差したことに気づいて、慌てて顔を上げる。
ユイカ姉様と自分を比べすぎるのはよくない。
わたしに姉様の代わりができないように、姉様にだってわたしの代わりはできないのだ。姉様には姉様の、わたしにはわたしの生き方がある。
猿神様もおっしゃられている。
大樹の下を歩む獣が、大樹の上を飛ぶ鳥についていく必要はないのだ。それぞれの食べる物があり、それぞれの住む場所がある。自分の命を、自分の進み方で全うすればいい。
心の中で三神の教えをそう唱えても、胸の奥がうずく。
もう治ったと思っても、ふと気づくとまた痛む古い傷だ。痛みが染みる。
こんな時はあの人の声が聞きたいものだ。この仕事が終えたら、執政館のイツキ兄様のところに顔を出そう。運がよければあの人に会える。
そうと決めたら、手早く仕事を進めよう。ええと、ノスキュラ村の教会からの要望の本は……?
「農業関係の本ですか。それも基本的な部分がわかる本、と。ノスキュラ村は農村ですから、当然手をつけるべき分野ですね、ええ」
要望の真っ当さに頷く。
ユイカ姉様も、村の根本的な問題に手をつけようとしているわけですね。
うんうん。少人数でできる養蜂やアロエ軟膏で実績を積んだので、その説得力をもって村全体を巻きこむ大規模な計画に取り組もう、ということでしょう。
実に周到。
本の請求理由は、農業の現状を憂える村の少年からの要望。
少年と言われると幼い印象が強いですが、これはまあそれだけ前途に期待の持てる、成長の余地の多い若者という意味でしょうね。
う~ん、そうきましたか。
農業の問題は、十年や二十年をかけて取り組むものですから、これから村を担っていく若い世代の人材を旗頭に抜擢したのですね、ユイカ姉様。
この視点の大きさは、流石は次期領主の筆頭候補だった方。わたしも見習わなければ。
さて、農業の本と一口に言っても、中々に範囲が広い。
村の教会に収められている本にも、農業関係のものがあるはずだけれど、本があることとその内容がわかることは別の問題だ。
その村の少年……いえ、青年が読めなければ、ユイカ姉様や教会つき神官が教える必要がある。しかしながら、ユイカ姉様も、教会つき神官も、農業とは縁の遠い生活をして来ただろうから、基本的な農業の知識が欲しくなるのはもっともだ。
この神殿に、丁度いい本はあっただろうか。
ユイカ姉様と親戚であるわたしも、当然農業には疎いのですぐには思いつかない。同僚の神官達も、どこまで把握しているかどうか。
どのように処理するかを考えながら、要望書を読んでいると、手紙の文字が欲しい本の詳細に入った。
「土の中身についてわかる本? はい?」
無意識に、首が傾いだ。
土の、中身。言葉はわかる。
わかります。
ただ、ちょっとさっぱりわかりません。
ええと、それは、土の種類、という意味でしょうか? 赤い土とか黒い土とか?
それとも、土の質ですか? 粘土とか、砂とか、砂利とか……。
ああ、表現の問題で土の中となっただけで、実際は土の下について知りたいということかもしれません。作物が根を張る土の下のことを、土の中身と表現した。
それならば納得です。
わたしの納得は、しかし続く文章によって粉砕された。
「土に含まれる要素って言い換えられていますね……」
例として、鉄の素や空気にも含まれるものとか。
土に水が含まれるように、他にも含まれている要素がある。水と同様に作物に影響を与えるそれらについて、詳細に知りたい、と。
これは……。これは、まったくわかりませんね。
なんですか、鉄の素って。
鉄は鉄なのでは? 鍛冶場では、雑多な金属が混じった人狼の毛皮を溶かして仕分けると言います。
そういう、鉄に仕分ける前の鉄、ということでしょうか?
悩むわたしに、要望書の文字が熱心に語りかけてくれる。
この考えを表す、適切な言葉がわからない。
他の人がそれをなんと呼んでいるかわからない。
そのことを知っている人がいるかもわからない。
ただし、前期古代文明であればわかっていたはずだ。知っていたはずだ。使っていたはずだ。
なぜ、そんなことがわかるのか。
本に書いてある。
この言葉は、そういう考えに行き着く言葉だ。
だから、この言葉を説明している本が欲しい。この言葉について書いてある本が欲しい。
文字は、わからないと咆えている。しかし、教えを乞うてはいない。
本が欲しい。
文字が訴えているのはそれだけだ。本さえあれば、自分はそこから必要なものを呼び起こしてみせる。
過去の瓦礫の中に埋もれたなにかを、自らの手で掘り出してみせる。
要望書を持ったまま唸ってしまう。
ただの文字、インクが作る規則的なシミに過ぎないものから伝わってくる、途方もない熱。
あるはずもないこの温度を、情熱というのだろう。
言葉の上では、石ころのようにありふれたものだ。
しかし、実際のそれを目の当たりにした時の、この強烈な感動。
いつだって驚かされる。
形もない、影もない、五感のなにを駆使しても存在を確かめられない高温は、石ころから鉄剣を生み出す魔法のように、この胸を打つ。
その熱を自分が持っていると感じたこともあれば、誰かの行いに感じたこともある。
その時も、あの時も……つい最近では、飛行機を夢見る男の子の瞳にその熱を感じた時も、わたしの心は焦がされてきた。
三神の言葉を前にしたような、敬虔な気持ちさえ湧いてくる。
恐らく、自分にとっての神とは、この熱なのかもしれない。
ならば、神官としての責務を果たさなければ。
「農業関係の本を片っ端から目を通して、指定された言葉を地道に探しますか」
虱潰し、というわけだ。
賢いやり方とは言えない。しかし、他に方法はあるのか?
眉間にシワが寄るのを感じて、トントンと指で叩く。
「ヤエ神官、ずいぶんと難しい顔をしておられますが、珍しい。どうされたのかお伺いしても?」
おっと、いけない。ついつい一人で考えこんでしまった。わたしの悪い癖だ。
職務上のことであれば、相談してもいいし、相談すべきだということを、すぐに忘れてしまう。
これだから、領主一族としてのわたしは、ユイカ姉様に及ばないし、中々言いづらいがイツキ兄様にも及ばないのだ。
反省をしながら、実は、と声をかけてくれた同僚に、ノスキュラ村の要望書の難解さを話す。
「ほう? ほうほう! 土に含まれる様々な要素ですか」
「ええ、なにを言っているのか理解するのも一苦労なのですが……こうした内容、聞いたことはありますか?」
「土のものは聞いたことはありませんが、水の話を連想しましたね。井戸水など澄んだ水もあれば、川の水など濁ったものもあって、その濁りには体に悪さをするものが混じっているから沸かして綺麗にするという話です」
「ああ、それはわたしも軍子会で習いました。目に見えなくてもそこにあるものがある、と。なるほど、土の中にも、目に見えないものがあるという考えですね」
「考え方としては、近いかもしれないと思いましたね。とはいえ、同じかどうか。他の神官にも聞いてみましょう」
それはいいと顔を向けると、聞き耳を立てていた神官達が机に押しかけていた。
「空気が実際には色々な要素からできている、という話は聞いたことがあるわ。あれはどこの棚の本だったかしらね……」
「空気の話だと、天気関係じゃないか?」
「いえ、もっと意外な分野だった気がするのよ。ええっと、そう、医療関係だったような?」
「え、医療に空気の話が出て来るのか? それ気になるな。普通に見てみたくなったぞ」
「ちょっと遠いかもですけど、料理の本にもそれっぽいのありましたよ。栄養素とかなんとかいう、目に見えないけど食べ物に含まれているなにかの話、近いと思いません?」
「それならヤック料理長が似たような話をしていた気がします。シナモンの灯火に調査に行ってみますか」
「それあそこの料理を食べたいだけじゃないの? ついて行っていい?」
「食事の話より鉄の素、ここの記述でしょう。金属関係の本ならこういった記述があるのでは?」
「あるかもしれんが、農業とは分野が遠くないか? やはり農業関係の本から当たるべきではないだろうか」
「ああ、そうでした。鉄の素が本命ではなく、あくまで畑の話でしたね。そうですね、手分けして農業関係の本を当たってみますか」
雑多な会話が湧いて、あちらこちらへと流れが生まれ、じゃあそういうことで、と流れに乗って進んでいく。
ある者は医療関係の本棚へ、ある者は食事処へ、ある者は農業関係の本棚へ。
発端であるわたしが遅れる勢いだ。慌てて立ち上がり、農業関係の本棚に向かう。
「おや、ヤエ神官もこちらですか」
「ええ、最終的に要求されているのは、この分野の本でしょうから」
「そういえばその通りですね」
一緒に本棚に向かう神官が、根本を忘れていたように呟く。
「滅多にない面白いテーマの問い合わせで、はしゃいでしまいましたね。問い合わせ自体がまず珍しいのに、わたしども神官が頭を突き合わせてもすぐに答えが出ない、誰もわからないとは珍事ですよ」
これはお祭りの予感ですねえ、などと笑う同僚から、情熱の温度を感じる。
自分にとっての神が、情熱の化身なのだとすれば――同じ信仰を抱いている神官は、多いのかもしれない。




