教会の軸
【シナモンの祭壇 フォルケの断章】
今日も、前期古代文明の解読は夕飯前に終わりそうにない。
溜息を吐いて、隣の椅子に置いていたコップに口をつけると、中身は空だった。
一体いつの間に?
悪魔がやって来て飲んだんじゃなかろうな。なんたってコップの中身はあのアッシュが作ったハーブティーだ。
仲間の悪魔が飲みに来てもおかしくない。
ありがたい聖句を唱えて悪魔からお茶を取り返しても良いが、それよりだったら淹れ直した方が早い。
悪魔の相手をしても時間の無駄だからな。
やれやれと椅子から立ち上がり、肩や腰からパキパキと音を鳴らしながらドアへと向かう。
すると、聖堂に人がいる物音。これは丁度良いと、ドアを開けながらそこにいる人物に注文する。
「おい、アッシュ。そこにいるならちょっと茶を淹れてくれ」
もうちょっとで良い感じになりそうなんだ、と代わり映えのない進捗を続けようと聖堂にいる人物を見て、思い出した。
「ああ、そういやそうだった。アッシュは領都に行ったんだったな」
聖堂にいたのは、ターニャとジキル、その二人だけ。
茶を頼むと小言を茶菓子代わりに差し出す赤髪は、もうこの村にいない。
「あ、ええっと、あたしでよければ、お茶を淹れますよ?」
間抜けな俺の言葉に、ターニャが気を遣ってくれたので、ありがたく言葉に甘えることにする。
「すまんが頼めるか。いつも通りカマドの近くにそろっているから、自分達の分も淹れて良いぞ」
「はい、ちょっと待っててくださいね」
茶汲みに動いてくれたターニャを見送り、やれやれと頭を掻く。
「流石にずっと同じことを考え過ぎて、頭がバカになっちまったか。あのうるさいのがいなくなったことを忘れるとは」
「ああ、まあ……なに? あいつとマイカが村を出て、まだ三日だし、仕方ないんじゃない?」
俺のぼやきに、ジキルが少し躊躇いがちに相槌を打って来る。
「まあ、そうだな。ここに誰かいる時は、まずアッシュがいたわけだし」
アッシュが教会に通うようになってから、マイカも来るようになり、ターニャ、ジキルと続いて、終いにはアッシュに懐いているらしいチビっ子も集まるようになった。
それでも、アッシュがいない時はほぼ無人。
皆、アッシュがいるから集まっていたわけだ。当然と言えば当然だ。あいつが勉強を教えていたんだしな。
「そういやアッシュから、今度こそ勉強を教えるんですよね~って言われてたな……。あ~っと、ジキル? 今どんなことやってんだ? わからんところがあるなら教えよう」
「え? マジで教えてくれんの? フォルケ神官が?」
「おい? そんな不思議なことを言ったか、俺?」
晴天で雷鳴を聞いたような面しやがって、失礼な奴だ。
俺はこの教会の正式な神官様だぞ。
まあ、面倒臭いと思っちゃいるがね。
しかし、言葉の綾とはいえ、一番弟子に指名したアッシュが仕事を中途半端にして旅立ってしまった以上、その師としての責任は感じないでもない。
「アッシュほど暇じゃないからあれだが、こうして聖堂にいる時にゃ、わからんところを教えるくらいしてやるよ」
「ああ、うん、じゃあ……えっと、よくわからない言葉があるんだけどさ?」
「ほう? よくわからんってのは、読めないってことじゃなく?」
「読むだけならもうできるって。つっかかったりもするから、時間はかかるけどさ。それよりも、なんのことを言っているのかわかんないのがあってさ」
マジか。
アッシュとマイカに続いて、こいつももう文字が読めるのか。
「てことは、言葉の意味がわからないのか? なにがわからないんだ」
「いっぱいあるんだけど……ええっと、さっきあったのは、養蜂の話で、なんだっけ、〝巣のある場所をジクにして動き回る〟ってやつ? このジクってなんだっていう……」
ジクは軸だろ、と簡単に言い返しそうになる。
が、この村の状況を考えれば、確かにジキルにはわかりづらい話だ。水車は大分前に壊れてそのままって話だし、風車もこの辺で見たことがない。
軸を目にすることが少なければ、そりゃ言葉もわからないよな。
「あっとな、あれだ、行商に来るクイドの馬車があるだろ? それの車輪、わかるか?」
わかるわかる、と頷かれたので、ほっとする。
車輪の他に例が思いつかなかったところだ。
「あれをよく見たことあるか? 車輪の真ん中を棒が通っていて、反対側の車輪と繋がっているんだ。で、その棒を中心に、車輪がくるくる回って進んでる」
ここまではわかるか? う~ん、微妙にわかってなさそうな顔をしている。
「今度、クイドが来たら車輪を見せてもらえ。とにかく、車輪の真ん中に棒が通っている。その棒が、軸ってやつだ」
「へえ、馬車に使われる道具なのか。うん? なんで、馬車の道具が、養蜂の話に出て来たんだ?」
わけわかんねーって顔になりやがった。
悪いことじゃない。教えられたことを、疑問の発端になった文章にちゃんと当てはめて、おかしいって気づいたんだ。
真面目に考えている証拠、真面目に聞いている証拠だ。真面目にやってんなら、こっちもきちんと教えてやらなきゃならん。
「まあ待て。軸ってのは、確かに馬車の部品の一部ではある。つーか馬車以外にも使われるけど、とにかく、軸ってのは道具の中心に使われるもので、そこから物事の中心って意味がある」
「んん? ええっと、難しくなってきたぞ……?」
「若いのに石頭だな。……って言う時、本当に頭が石になっているとは思わないだろ? 石みたいに硬いって意味なのはわかるな?」
「お、おう。あ、そうか。軸のことも同じって話だな? 石頭ってのは本物の石じゃないし、軸ってのも本物の軸じゃなくて……こう、なんだかんだの真ん中って話なんだな?」
「そうそう、わかってるじゃないか! お前が言ってた〝巣を軸にして動く〟ってのは、巣を中心にして車輪が回るように、蜂が動くってわけだ」
「あー、ここまでわかれば、この言葉もなに言っているのかわかりやすいよ。なるほどなー」
納得できたようでなによりだ。こっちも長々と話したかいがある。
これでさっぱりわからんなんて言われたら、こっちもやりきれない。
「まあ、言葉の難しいところだな。同じ言葉でも、その前後にある言葉で意味が変わりやがる」
古代語の解読も、そのせいで難しいところが多々ある。
本当、言葉ってやつは厄介で、面白い。
「ああ、そうだ。軸ってのも、ただ単に中心って意味だけじゃなくて、車輪は軸がないと回らねえから、それないと困る大事な中心って意味にもなったりするな」
「へえ、大事な中心ねえ……。蜂にとっちゃ巣も大事だろうな。あいつらの家なんだし」
中心であることを繰り返し呟いて、ジキルの目が虚空を見つめる。
「アッシュが、軸だったんだろうなぁ」
ジキルの眉根が寄っている辺り、あまり口にしたくない言葉だったのかもしれない。
見た感じ、こいつもガキ大将タイプだもんな。それでも言わずにはいられなかった言葉でもあるのだろう。
俺も、ひょっとしたら似たような顔をしているかもしれない。
ついさっき、聖堂からの物音を聞いて、アッシュであることを疑いもしなかった。いつものように、アッシュに茶を淹れてもらおうとしていた。
ここ最近の俺にとって、あいつは確かに軸だった――なんて恐ろしいたとえ話に背筋が震える。
「おい、やめろよ! おっかねえこと想像しちまっただろ!」
「は? なんだよ、おっかないって。なにビビッてんだ?」
「バカ、アッシュが車輪の軸になってると考えてみろ。馬に繋がなくても勝手に車輪を回してどっかに走り出しそう……いやどこまでも走り出しそうじゃねえか!」
「うっわ、ほんとだ! しかもすげえ速そう! え、それどうすんの? てか、どうなんの?」
「どうにかなると思うか、あのアッシュだぞ!」
「どうにもならねえと思う!」
地獄の底まで独りでに突進していくのがまざまざと想像できる。
それに巻きこまれてたまるか。すでに巻きこまれている気もするし、逃げられない気がするが、夢くらい見させろ。
「ま、まあ? 幸い? アッシュは領都に行ったんだ。俺達の軸ではなくなったわけで、大丈夫だ」
「そうだな! アッシュは領都に行ったもんな!」
夢見る俺の意見に、ジキルが乗って来るのが早かった。
こいつもアッシュの相手に苦労したんだろうな。よくわかる。
ほっとして、温かい空気が流れる。布団で寝つくような温もりだ。
しかし、人間いつまでも寝てはいられない。
夢はいつか覚めるのだ。
具体的には二年という数字。
なぜなら、軍子会は二年で終わりだ。
そうしたら奴は帰って来る……いや、そうとは限らない。
「軍子会の後に任官すれば、村に帰って来るのはもっと後になるということもありえるな」
「任官? それって、領都で働くってことか?」
「そういうことだ。元々、軍子会ってのは領主の手下を育てる場所だから、可能性はある。アッシュの場合はどうなるかはさっぱりわからんが……」
わからんが、あいつの場合、一部の知識はすでに王都の神官にも教えられる領域だ。
やる気になればなんだってできる。というか、やる気になったらなんだってやるのがアッシュだ。
どう転んでも良いよう、なにか対策を取っておくのが、知の番人たる神官らしい振る舞いだ。
「とにかく、アッシュはしばらく帰って来られないのは間違いない。そこでだ、アッシュの代わりの軸がいる。順番から言って、ジキルとターニャが次の軸だな」
二人が前輪の軸になっていれば、アッシュが帰って来て後輪の軸になってもちょっとは減速できたり、方向を変えたりできる……かもしれない。
まず無理だろうが、少なくとも、なにもしないよりは可能性がある。頼むぞ。
自分の都合もたっぷりこめて、ジキルに依頼すると、アッシュの代わりは無理だなって顔になった。
気持ちはにやつくほどわかるが、絶対に逃さん。
「とりあえず、やってみろ。アッシュがいなくなっても勉強しに来る奴がいたら、どうしたって俺以外にも手伝いがいる。俺は恐がられているからな」
アッシュがやっていたように、聞きたいことがある奴の代わりに、俺に聞きに来る奴が必要だ。
そして、その役目は、その気がなくても教会通いの長いジキルとターニャに回るだろう。
「アッシュと同じことはやらなくて良いぞ。ていうかできてたまるか。俺も前よりは聖堂に顔出すように……まあ、なるべく出すようにするから、それなりによろしく頼むわ」
教会で勉強する村人、という馬車が走り出してしまっているんだ。
車輪の軸がどっかに行ってしまったから走れません衝突しました壊れましたとなったら、教会つき神官として責任はどうでも良いんだが、絶対にアッシュから嫌味が山ほど押し付けられる。
下手すりゃ妙な契約が追加される。
そんな恐ろしい未来を避けるために、俺はジキルとターニャに協力してもらって、教会の新体制を築いていかなくちゃいけないのだ。
なるべく、自分に負担がかからない馬車にしてしまいたいね。




