背筋の伸ばし方11
【シナモンの祭壇 レイナの断章】
マイカの登場は、わたしの生活にとって新鮮だった。
冬の枯れ庭に、春が来たほどの変化をもたらした。
「レイナちゃん、ナッツの蜂蜜漬け食べる? これね、甘くて美味しいんだよ」
「いえ、せっかくだけど、わたしは遠慮するわ。というより、まだ食べるの? マイカ、さっきのご飯も大盛りでお代わり……」
「大丈夫だよ。ちゃんとバランスよく食べてるから」
「え、バランス?」
ちょっと、ルームメイトの言葉がわからない。
バランスよく食べる、というのは、一体どのような状態を表すのだろう。好き嫌いなく食べる、という意味かしら?
「あ、ハーブティーも欲しいな。厨房か寮監室からお湯をもらって来ようっと」
わたしが戸惑っているうちに、マイカはもう先に進んでいる。
レイナちゃんも飲むよね、と声をかけて、返事も待たずにお湯をもらいに出て行ってしまった。
「……そういうのは、一応、従者一族のわたしがやるべきだと思うのだけど」
変化したことは、この部屋で過ごす時に、自分以外のリズムがあることだ。
ただ、窮屈さは感じない。マイカのリズムがあっても、それに合わせることを求められないせいだろう。
マイカは、わたしが思っていたよりも、自分のことを自分でできてしまう。
農村育ちだから、ある程度はできるんだろうと考えていたけれど、それにしてもなんでもできた。
着替えも掃除もお茶淹れも、一通り。料理なんか、わたしがほとんどできなかったことを考えれば、わたしよりも一人で生きていけそうだ。
手がかからないだけでなく、今のようにわたしにお茶を用意してくれる。
思った以上に、このルームメイトとの生活が始まってから、わたしはこの部屋で過ごす時間に癒されている。
「お待たせ、レイナちゃん! さあ、お茶にしよう! お茶は飲むよね?」
「聞かれる前にそこまで用意されてしまうと断りづらいじゃない。ご相伴にあずかるわ。ありがとう、マイカ。今度、我が家愛用の干し柿でお返しするわね」
元気の良い年下の女の子の誘いに、苦笑いしながら乗ることにした。
「マイカは、ここでの生活はどう? 始まったばかりだから、戸惑うことがあるんじゃない?」
お茶を手渡されて、会話の種を蒔く。
もっと他愛のない話をすべきなのかもしれない。そのナッツの蜂蜜漬け美味しい? とか。
でも、どうにもわたしはそういうのが苦手らしい。
つい、派閥の子達が集まった時のように、相手がなにをしているか、問題ないかを確認してしまう。
あと、ナッツの蜂蜜漬けの味を聞いたら、食べたくなりそうだから、そういう意味でも危ない。
「戸惑うことかぁ、そうだね、やっぱり村とは違うから? 違うけど? う~ん……?」
わたしの質問に、マイカは口の中にナッツを一つ放りこんで、それをよく噛んで、飲みこむまでじっくりと考えこんだ。
「戸惑うことは色々あるような気がするけど、どれもこれも別に大したことないね?」
この子、強い。
頭の中で考える前に、そう感じた。
これまでと全く違う場所に来て、色々あるような気がするだけで、別に大したことない、とはすごすぎないか。
思わず、まじまじとその顔を見てしまう。
もう一つナッツを放りこんで食べている同居人は、甘い物に頬を緩ませた、とても可愛らしい顔をしている。
顔立ちだけでいえば、わたしの方がよっぽどきつく見えるはずだ。軍子会でもさんざんそう言われているから、多分そうなのだ。
わたしとマイカ、並べて立って、どっちが頑丈そうかと人に聞けば、まずわたしの方が指さされるだろう。
でも、中身は違いそうだ。
「マイカはすごいわね。わたしはここに早めに入ったけれど、それでも戸惑っていた……というより、緊張していたと思うわ」
正直なところ、今でも肩に力が入り過ぎているんじゃないかと思っている。
前は、肩に力が入り過ぎていることさえ気づいていなかったのだから、大分マシになった。
「わたしも叔父上に会う時はすごく緊張したなー。でもね、そしたらアッシュ君が声をかけてくれて、力を貸すから大丈夫って言ってくれてね。それが大人っぽくて優しくて頼もしくて素敵だったなー、アッシュ君」
温められた砂糖菓子のようにとろけた笑みを浮かべるマイカは、わたしの目から見ても可愛い。
女の人として可愛いというより、こう、もっと広い意味で可愛い。子猫や子犬、なんなら花や装飾品と比べても可愛い。
人間って、こんなにも甘くて温かくてゆるゆるになれるのね?
「はっ!? もしかして、あたしがもっと軍子会で戸惑って緊張していたら、アッシュ君にもっと優しくしてもらえる!? どうすれば緊張ってできるんだっけ!?」
大真面目なことで、おバカ……少々抜けたことを考えるところもまた可愛い、ような気がする。
「どうしよう、緊張の仕方がわからない! レイナちゃん、教えて、どんな時に緊張するっけ!?」
同居人に頼られてしまった。
それはいいのだけれど、妙な頼られ方をしてしまった気がする。
「まあ、そうね。初めてのことをする時とか、大事な人の前にいる時とか、思いもしないことを目にした時とか……やっぱり緊張するわ」
「なるほど……それ全部アッシュ君がいると起こるやつだ!」
全てわかった、という顔で、マイカは仰け反るように椅子の背もたれに身を預ける。
「そうか~、考えてみればアッシュ君と一緒にいる時くらい緊張することなんてどこにもないもんね。そうか。アッシュ君はそんなところまであたしを変えちゃっていたのか」
どことなく嬉しそうな顔で、ますます責任を取ってもらわなくっちゃ、なんて呟いている。
なんというか、この子と話をしていると、アッシュのことが心配になってくる。
マイカの血筋のことを置いておくとしても、こんなに可愛い子で、こんなに可愛い顔をするのだ。
初めて軍子会の参加者の前で挨拶をした時からわかっていたけれど、男子から人気が出ないはずがない。
その人気者の眼差しを、独り占めしている男の子、アッシュ。
彼をどうにかしてやろうと思う者は出てきそうだ。注意してあげた方が、よさそうね。
初対面の時から礼儀正しく、落ち着いた雰囲気のアッシュのことを、わたしは結構気に入っていた。
****
軍子会を水でたとえると、その水面に最後に投げ込まれた石はマイカとアッシュだ。
この二つの石によって生じた波紋が、水面の下にどんな影響を与えるか。わたしはその反応を見ることに、しばらく注意を向けていた。
どういうことかというと、神殿での座学の時間、マイカとアーサーとアッシュが、三人してなんかやっているのをはた目に、講堂の授業に参加していた。
わたしも読み書き計算は一通りできるので、三人に合流しようかという思いもあったのだけれど、軍子会全体の様子を見る方が大事だと考えたのだ。
その考えは、間違っていなかったように思う。
寮館に入り、それぞれが時を過ごして、落ち着き始めていた軍子会だったが、最後に飛びこんだ石の波紋は大きかった。
静まりそうだった水面が揺らぎ、底の方では濁りが生じたみたいだ。
せっかく、神官が教えてくれているというのに、座学の間もぼうっとしている者や、私語を交わす者が目につく。
ある程度、上の立ち位置を勝ち取っていたわたしが見張っていなければ、荒れていたかもしれない。
そんな講堂の空気が、肌で感じるほど動いた。注意が一斉に動いたのだ。
ガヤガヤと話し合いながらやってきた、楽しそうな三人組に。
「ごめんね、今日も足を引っ張って。まさか農作物の成長を見分けるために、あんなに呼び方があるとは思わなくて」
肩を落として申し訳なさそうにしているのはアーサーで、その隣で力強く拳を握っているのはアッシュだ。
「ええ、面白いですよね。あれほど細かく名付けられるのは、どれだけ興味を持って観察されていたか、どれだけ重要な存在だったか、という証拠ですよ。やはり食べ物ですから、それはもういつであっても、どこであっても、人は注視してきたんでしょうね」
そのアッシュの隣で、マイカが背伸びをして体をほぐしながら笑っている。
「アッシュ君らしい感想だけど、ここは落ちこんでるアーサー君を励ますところなんじゃない?」
「え、落ちこむようなことありました?」
「うん、まあ、今日もアッシュに色々と教えてもらうことになっちゃったから、時間をかけさせてしまっているなって……」
「そんなことないですよ。覚えるの早いですし、手伝って頂けているだけで十分! でももしも申し訳ないとか気になるのでしたら、これからのお手伝いに期待しちゃいますね!」
「ちょっと自信がなくなってきたけど、がんばるよ」
「大丈夫ですよ。アーサーさんは若いんですから、これからどんどん成長できます。鉄は熱いうちに打てとか、矯めるなら若木のうちとか、昔から若者はいかようにでも変わっていけると言われているんですから、アーサーさんの今日の失敗なんて、時間のスパンを大きく取ればないも同然ですよ。というか私、アーサーさんが失敗したとは思っていないので本当にないのでは?」
「あはは、アッシュ君が気にしてないんだから、本当にないって言っちゃって良いかもね」
三人は、今日も楽しそうでなによりだ。うらやましいくらいである。
その代わりとでも言うように、不機嫌な眼差しを送る者達もいる。
マイカと仲良くなりたい者と、アーサーと仲良くなりたい者……そのくくりで行くと、全員になるかもしれないけれど、他人を蹴落としてでも仲良くなりたい、という輩が厄介だ。
「マイカ、アーサー、アッシュ。こっちよ」
下手に他の参加者に誘われる前にと、手を振って呼びかける。
マイカがすぐに手を振り返してわたしの方にやって来て、アーサーとアッシュがその後を追ってくる。
「授業お疲れ様、レイナちゃん。今日はなにをやったの?」
「算数よ。主に足し算ね」
「あー、足し算か。それは最初にやらないとだね」
「そちらは、今日も昨日と同じく調べ物? 進んだ?」
わたしはマイカを見て質問したが、彼女はアッシュへと顔を向けて、返事を任せたようだ。
「文献の調査は順調に進んでいますよ。いくつか必要な記述も見つかりました。皆さんに協力して頂いているおかげですね」
「そう、よかったわね。すごいわ」
マイカから聞いたところ、この三人はアッシュの希望で農業について調べているらしい。
農村生まれだから、納得できる調べ物だ。納得はできるけれど、それにしても軍子会にやって来た途端、もう将来の村の発展のために動いているというのは、素直にすごいと思う。
果たして、今の軍子会の参加者に、そこまで先のことを考えている人はどれくらいいるか。
しかも、そこまで優秀なのであれば、もっと威張ったところがありそうだが、協力してもらっていることへの感謝を常に口にしている。
はっきり言って、軍子会の中で一番良い男子かもしれない。
もし、彼が都市に住んでいたのであれば、バティアール家でわたしの婿候補として名前が挙がっていてもおかしくないくらい。
なにかもったいないような気がして、席に着いたアッシュをつい見つめてしまう。
そこに、別な声が飛んで来た。
「おい、そこの赤毛の農民。座る場所が違うだろ」
嫌な声だった。何度も叱ってきた相手で、ネズミを放りこんできた問題児達だ。
多分また問題を起こすのだろうと咄嗟に思ってしまう。
赤毛の農民――アッシュが、問題児達の方を振り向く。
「座る場所とは? 席が決まっていると聞いていませんが?」
「立場を弁えろってことだ。農民は大人しく後ろの隅にでも下がっていろ」
「ああ、そういうご用件ですか」
アッシュの顔は笑顔のままだったが、マイカとアーサーの表情が冷えた。
二人が、友達をバカにされて怒らないはずがない。
「あなた達、控えなさい。講堂の席は決められていないし、決めるとしたら神官の指示によってよ。あなた達が口を出すことではないわ」
「俺達はそいつのために言っているつもりだけどな。頭の悪い農民が俺達と並んで勉強なんて、かわいそうだろ?」
「なにを言っているのかしら……」
アッシュは読み書き計算ができていると聞いている。だから、基礎教養の座学に出席せずに自由が許されているのだ。
座学に出席することが命じられている問題児達と、さてどちらの頭が良いか、という話になれば、まあ答えは明らかだろう。
これはどう言い返したものか。
流石に、あなた達の方がバカよ、とはわたしは言えない。目の前で言い切った問題児達とは違って、そういう教育を受けているもの。
迷うわたしの袖を、アッシュが引いて、代わりに立ち上がる。
「ご心配ありがとうございます。ですが、大丈夫です。私がついていけないことがあったら、同じ席の皆さんに教えて頂きますから。あ、お願いできますよね?」
アッシュのお願いに、マイカが胸を叩いて頷き、アーサーも照れ臭そうに微笑む。
「任せてよアッシュ君! ……あたしの方が教わること多そうだけど」
「うん、ボクでよければ。まあ、アッシュがついていけないなら、ボクもついていけない気がするけど」
わたしももちろん、二人と同じ返事だ。
……ただ、二人ともアッシュの方が勉強のできるような言葉を付け足していることが気になる。
マイカの方はよくわからないけど、アーサーよりできるの?
「ということで、私の席について問題はありませんね。むしろ、私はこの席の方が都合はよさそうです。ですが、せっかくご心配を頂きましたから、いつかお礼をいたしますね。お名前をうかがっても?」
問題児達がたじろぐ。
言い返してくるとは思わなかった、そんな顔をしている。しかも、きっちり軍子会で一番目と二番目に身分の高い味方をつけて、圧倒的に有利な立場から、ここまできっちり言い返せるなんて。
わたしも少し驚いた。
結局、問題児達は名乗らずに逃げ去って行った。
まあ、名乗れないわよね。お礼は握手ではなく、握り拳でなされるのだと察せられるのだから。
「恥ずかしがり屋さんのようですね。だから、気になる人に素直に声もかけられないんでしょうけど」
アッシュがちらりとわたしを見た。
気になる人に素直に声をかけられない、とはちょっと意味がわかりづらい。多分、未熟な態度のまずさのたとえなんだろう。
「あ、レイナさん、かばって頂いて、ありがとうございました」
「いえ、これがわたしの役割だと思っているわ。それに、アッシュには必要なかったようだし」
「そんなことはありませんよ。レイナさんが前に出てくださって、大変心強かったです」
アッシュはそう言ってくれるけれど、きっと、本当に必要なんてなかっただろう。
それでもお礼を言ってくれることに、つい頬が緩む。
わたしは自分のため、家のため、お母様のためにしていることだけれど、それでもお礼を言われると嬉しく思う。
ああやって叱ると悪口を言われるようになるから、余計に染みる。
「レイナさんは大変ですね。こういう時に諫める役だなんて、心労お察しします」
「生意気な性格で、口うるさいだけよ」
つい、自分に向けられていた悪口が、自分の口からぽろりと漏れる。
男子からも、女子からも言われていた陰口が、すっかり全身に張り付いていたのかもしれない。
「レイナさんみたいな人は、優しいと言うんですよ。面倒見が良いから言葉が多くなるタイプですよね。村にもいたんですよ、あれこれ気づいてしまうからこそ、自分から苦労を抱えこみにいってしまうお姉さん役の人が」
「あー、ほんとだ、サミー姉に似てる! なんでか前からレイナちゃんのこと知っている気がするなーって思ったけど、サミー姉と似てたからかも。きっとそうかも。いや絶対そうかも」
「マイカさんもそう思いますよね? やんちゃな子達を守ろうと駆けずり回っていたサミーさんが思い浮かんで、レイナさんのことも心配になるんですよね。家に帰る時間になると、疲れ果てたサミーさんがトボトボ帰っていく背中が忘れられなくて……」
「わかる、確かにサミー姉の後ろ姿を思い出す……。あたしもサミー姉には一杯迷惑かけちゃったから、レイナちゃんには迷惑かけないように……ていうか、お返ししないといけない気がしてきた」
マイカ、それはサミーという人、本人に返してあげて。
なんだか見も知らないその人が、すごく不憫な気がする。
苦笑すると、同じようなことを考えている顔のアーサーが、その話題を続ける。
「そのサミーという人は、どんな人なの?」
「サミーさんは私達より少し年上で、村で子供達の世話役をしている人ですね。大人からの信頼も厚いしっかり者なんですよ」
「ああ、年上でしっかり者なところも、レイナと一緒なんだね」
アーサーがわたしの方を見て、なんとなく想像がつきそう、と笑う。
どうして、赤の他人のはずのわたしの顔を見て想像がつくのか。そう言い返したいけれど、多分軍子会の問題児達を注意する姿が、やんちゃな子供の世話をしているようにしか見えないんだろうなと、自分自身で思ってしまった。
「うん、一緒一緒。レイナちゃんよりもっとこう、パワフルな感じだけど……でもやっぱり根っこの部分が似ている気がする。村から出てくる時も、一杯注意もらったもんね。川は危ないから一人で近づくなとか、騎士ごっこは危ないから手加減しろとか、鐘を見つけても悪戯するなとか……」
「あ、私もちょっと言われました。熊と一人で戦うなとか、森で迷子になったら遊んでないでまず帰って来いとか」
「待って? アッシュの注意、おかしかったよね? マイカのは、なんかこう、そういう注意はどこかで聞いたことありそうって思ったけど、アッシュの方はおかしかったよね?」
わたしもアーサーと同じ意見だわ。
普通、熊とは一人で戦わないし、森で迷子になったら遊ぶ余裕はないでしょう。遊んでいて迷子になったならありそうだけど……。
次の授業を担当するジョルジュ卿がやって来るまで、わたしは友達とのお喋りを続けた。
周りの音がなにも聞こえていなくて、気づいた時にはジョルジュ卿がすぐそばに来ていて驚いた。




