背筋の伸ばし方8
【シナモンの祭壇 レイナの断章】
できることはした。
ダーナもグレンも、とうとう来たかと目を光らせることを約束してくれた。
部屋の中はもう一度軽く掃除したし、自分の荷物はきちっと片付けて、マイカ様の荷物が多めでも置けるようにした。
最後に、髪や服装を整えて、乱れがないかをしっかりと確認する。
大丈夫だ。
全て間に合った。
ほっと息を吐くと、座りこんで休みたくなった。ひょっとすると、疲れているのかしら。
気を張り詰めているとは思っていたけど、こんなに疲れているとは……。
ついつい、ベッドに視線が向いてしまう。
あそこに座りたい。
できるなら寝転がりたい。
贅沢を言うならお昼寝……。
ふらっと体が揺れたと思ったら、知らず知らずにベッドに歩み寄っていた。
いけない、いけない。
ここでベッドに寝てしまったら起きられる自信がない。少なくとも寝癖をつけたままマイカ様をお迎えすることになりそう。
それにしても、とうとうマイカ様がいらっしゃる。
今日からここは二人部屋、部屋の中でもマイカ様を支えるべく気をつけなければ。
……できるかしら?
気を張っている間は、大丈夫。
自信はある。
ただ、今日まで寮の部屋は疲れを取るため、多少気を抜いて過ごしていたから、その憩いの場がなくなると手落ちが増えそうで恐い。
いえ、やれる。
やるのよ、レイナ。
ゆっくりと呼吸をして、心を静めながら体も休めていると、足音が聞こえて来た。
トントントトン。
早いテンポで小気味よく、この季節のサキュラの風がそうであるように颯爽と向かってくる。
今まで聞いたことのない音色に、なんとなく、直感した。
マイカ様がいらしたのだ。
期待通り、足音はこの部屋の前で止まった。
ノックも小気味よく三回して、そこからいきなり扉を開けることもない。こちらの返事をちゃんと待っている。
うん、少なくとも、初対面の礼儀を守る方だ。
「はい、どうぞ」
そのことを嬉しく思いながら、返事をする。
優しくドアを開けて、待ちかねた人物と、ようやく、目が合った。
綺麗な人だった。
艶のある黒髪は、ヤエ様と一緒で、サキュラ辺境伯家の確かな血筋を感じる。
姿勢がよく、何気なく立っているようでいて、正面から見てきちんと美しく見えるように練習した後が見て取れるほどだ。
そして、大きな目が、柔らかくこちらを見て、わたしの名乗りを待っている。
間違いない。
この人は、お母様の話していたユイカ様の娘、代々サキュラ辺境伯家を継ぐ、アマノベ家の血を引く者、我が家が仕えるお方なのだ。
「初めまして、レイナと申します。サキュラ辺境伯家に仕えている侍女リインの娘です」
納得に体を満たされながら、できる限りの丁寧さで頭を下げる。
顔を上げると、マイカ様の大きな目が、今度は好奇心を滲ませてわたしを見つめている。
わたしがそうしたように、マイカ様もこちらがどんな人間か、どんな教育を受けているのか、確認しているのだろう。
確認が終わったのか、マイカ様は一つ深い笑みを浮かべて、名乗りを返して来た。
「はい、初めまして、マイカ・ノスキュラです。これから二年間、よろしくお願いします」
丁寧でいてさっぱりした挨拶だ。
母親であるユイカ様、また父親であるクライン卿のことは一言も漏らさない。言うまでもないと考えている、のではなく、言う必要を感じなかったように見える。
親が誰かという権威を見せびらかせなくても、自分の手で、自分のやり方で押し通してみせる。
そういう自信を感じる。
「母からうかがっております、マイカ様」
ひとまず、マイカ様の事情は把握している旨、お伝えする。
それからふと、これだけではお母様がその立場を利用して、マイカ様とわたしを近づけるために部屋割りを決めたように勘違いされるかもしれないと気づいて、付け足す。
「あ、母は今回こちらの寮監をしておりますが、部屋割りはイツキ様の采配です」
その言葉の意味を、マイカ様は少し考えて把握したらしく、パッと花が咲くように明るい笑みに変わった。
「うんうん、そうですか。これからぜひ仲良くしてくださいね」
口調も、ゆっくりと落ち着いたものから、すらすらと早いリズムに変わる。
こちらの方が、素なのだろう。足音といい、マイカ様はどうやら軽快な、早いリズムをお持ちのようだ。
そして、素を見せてくださったということは、わたしの言い足した言葉によって、警戒を解いてくださったのだろう。
「あ、早速ですけど、もっと気軽に話してもいい? これから一緒に暮らすんだから、ずっと堅苦しいのは疲れない?」
恐れ多いことに、同居人として大胆なほど歩み寄って来てくださる。
こう真っ直ぐに言われると、いえそんなことは、と遠慮する言葉も出しづらい。
いや、出すべきだとは思う。
でも、やっぱり、わたしは疲れていて、マイカ様の明るい声は温かくて、よく染みた。
「それは……わたしもちょっと、そう思います」
だから、つい、本音を漏らしてしまう。
いけないことだなとわかりながら、マイカ様が予想よりしっかりした方に見えて、お母様にそうするように、甘えが出てしまった。
「じゃあ、お互いに友達として話そう、そうしよー。てなわけで、あたしのことはマイカでいいよ、レイナちゃん」
友達と言われて、胸が沸き立つ。
お母様も、ユイカ様と二人の時は楽しく過ごしていたと聞いていた。
お二人のその関係に憧れがあったのだ。ひょっとしたら、自分もマイカ様と、そんな関係に。
内心の幼い喜びに、気恥ずかしさも湧いて来る。
「よろしい、でしょうか?」
こんなわたしで、という思い。
それを追いかけて、そんな呼び方をしても本当に大丈夫だろうかと疑問もやって来る。
わたしがいきなり馴れ馴れしくしたら、軍子会の風紀や、マイカ様の評判に障りが出ないだろうか。
咄嗟には判断できず、眉根が寄る。
「まあ、すぐにとは言わないけどね」
わたしの悩みを察して、マイカ様がこれも軽く流してくださった。
「農村の生まれだから、友達は皆呼び捨てだったし、あたしは全然気にしないからね。よかったら気軽に呼んでよ」
本当に、さっぱりとしていて、早い方だ。このリズムに、わたしも早く慣れないと。
今はまだ難しいから、お母様に相談して答えを出そう。
「わかりました。問題ないか母に相談してみます」
「うん、いつからでもいいからね。あたしも都市は初めてだから、聞きたいことたくさんあるし」
なんとまあ。マイカ様は、器も大きくていらっしゃる。
立場からして、もっと上からわたしに物を言っても良いのに、きちんとわたしの気持ちや立場を思ってくださる。
どこも慌てたところがない。
これなら、お母様がユイカ様を自慢するのもよくわかる。
ユイカ様も、必要がなければ偉ぶることのない方なのだろう。
家や血筋を持ち出さなくても、相手を黙らせるだけの能力を持っているからかもしれない。
二段ベッドのどちらを使うか、荷物を置く場所、タンスの割り振りなどを確認すると、マイカ様は手早く荷解きを始めた。
あっという間だ。
あっという間すぎて、心配になるほどに早く終わった。
それはマイカ様の動きが早かったというより、荷物が明らかに少ないことが原因だ。
「え? もう終わったんですか? お荷物、手持ちのあれだけ、ですか?」
「そうだよ?」
「ほ、他のお荷物は?」
「ん~? あたしのはないかな?」
いえいえいえ、いくらなんでも二年間の軍子会ですよ?
途中で買い足すにしろ、明らかに物が足りない。
「お着替えとかは!?」
特に足りない上に、絶対すぐに必要になりそうなものを、思わず叫ぶ。
「あ、大丈夫、大丈夫」
ああ、よかった。大丈夫らしい。遅れて届くのだろうか。
「アッシュ君が持ってきたものをクイドさんが売って、そのお金で都市で使う服とか諸々を新しく買うことになってるの」
とりあえず、追加ですぐに購入するらしいことはわかった。それならば安心だ。
手段の方は、ちょっと理解できなかったけれど。
「は、はあ、アッシュさん、ですか? 確か、マイカ様と同郷の……方だとか?」
それはわかる。ちゃんとお母様から説明を受けている。
しかし、農民の子であるアッシュなる人物が、どのようにしてお金を稼ぐことになるのが、よくわからない。
ユイカ様やクライン卿が推薦するくらいだから、さぞ優秀な人物なのだろう、とはお母様も言っていたけれど、商売方向に優秀な人物なのだろうか。
商売の話になると、ケイの顔がちらつく。
大丈夫かしら? あのそそっかしさを思い出して不安になる。
わたしの知っている商売絡みの人物とは違い、マイカ様にとって、アッシュさんは信頼に足るようだ。
需要と供給について、交通について、自慢げに聞かせてくださる。
ただ、申し訳ないのだけれど、わたしにはパッとはわからないお話だ。
これでも一応、お母様のお仕事について、たくさん質問をして勉強をしていたつもりなのだけれど、上手く整理ができない。
ところどころ、なんとなくわかるような話はあるのだけれど、それをどう利用してお金を稼ごうと言うのかがわからない。
「あの、マイカ様がなにを言っているのか、ちょっとわかりません……」
恥を忍んで素直に伝えると、マイカ様はあっけらかんと笑った。
「とにかく、アッシュ君はすごい、ってことだよ」
とても簡単なお答えだ。それが伝わればいいよ、という笑顔。
マイカ様は、随分とアッシュさんのことを信頼しているようだ。
話しているうちに、マイカ様はあっという間に荷物を入れて来た箱の片付けまで終えてしまった。
手伝う隙すらなかった。実家でみっちり特訓してきたわたしより早い。
「よし、荷物はこれでお終い! レイナちゃんはこの後どうする? あたしはアッシュ君と待ち合わせしてるけど」
「ええっと、わたしは母のところへ行こうかと。その、マイカ様との接し方について確認を」
ごく短い間で、相談すべきことができてしまった。
早めに相談して、マイカ様への態度を決めてしまいたい。
あと、アッシュなる人物に対する不思議さも、お母様はどう見ているのか聞きたい。
「あ、そうだね。じゃ、また後でね!」
ぶんぶん手を振って、マイカ様が寮室を飛び出そうとする。
「あっ、寮館内は走らないように!」
ほとんど反射で注意すると、おっとっと、という顔でマイカ様が笑う。
「うん、わかった。ありがと、レイナちゃん」
笑顔が引っ込んで、早いリズムの足音が遠ざかっていく。
途中から走ってない、あれ?




