背筋の伸ばし方5
【シナモンの祭壇 レイナの断章】
わたしとダーナは、リイン寮監殿に呼び出しを受けた。
一階の玄関広間にある寮監室は、大半の寮生にとって居心地がいい場所とは言えない。
叱り役の寮監や、その寮監を補佐する召使いがいるためであり、この中にまで招かれるということは問題が起きた時がほとんどだからである。
「話はおおよそ聞いていますが、わたくし達が離れている間に、彼女の寮室に荷物を運んだというのは、間違いありませんね」
「はい。指示を出したのはわたしですので、責任はわたしにあります」
背筋を伸ばして答えると、寮監殿は真っ直ぐ見つめたまま頷く。
「よろしい。責任を取る覚悟があったのならば、なにも叱る必要はありませんね」
問題なしと言われて、ほっとする。
大丈夫だと思っていても、ひょっとしたらという考えも頭にあったのだ。
自分の責任で行動するというのは、思った以上に恐いことなのだと実感する。
「今回の場合は、非常時であり、十分な理由があったため、規則破りに該当しません。事後になりますが、部屋主からも許可と感謝がありました。後程、本人からもお礼があるでしょう」
それと、と寮監殿は咳払いをして、かすかに目元に笑みをたたえた。
「寮監としても、玄関広間を荷物でふさいでおくことは問題になります。自主的に行動し、問題を解決したことに感謝を。ありがとう、レイナさん。ありがとう、ダーナさん。立派でしたよ」
ふわぁ、お母様に! 寮監として! 褒められたわ!
あ、いけない。表情がとろけそう。
せっかく褒めてもらったのだから、最後に台無しにしないように気を引き締めてお礼を述べる。
ありがとうございます。
口元が緩んだせいで、言葉がちょっと震えたのは、見逃してもらえた。
「ただし……別な問題が起きそうですよ、レイナ」
「はい。……はい?」
寮監殿の視線は、おかしく感じるくらいわたしにずっと向いている。
わたしの個人的な問題、ということだろうか。
「ネズミ、出たそうですね」
忌々しい名前に、舌がもつれて、ひゃい、と言ってしまった。
あ、寮監殿が、お母様の顔になって呆れた顔になってしまった。
「……ダーナさんのおかげで、そこまでひどく思われていないようですが、あなたはネズミが苦手なようだ、と勘づいた者がいるようですね」
「そ、そう、ですか。まあ、その……はい」
改めてお母様に言われるとすごく恥ずかしい。顔を伏せると、寮監殿が溜息を漏らす。
「苦手なものがあるのは仕方ないことです。ですが、問題は、それを使ってあなたに嫌がらせを企んでいるようですよ」
はい?
なにか恐ろしくて、くだらないことを言われた気がする。
「嫌がらせって、なんでしょう?」
いえ、わかる。わかるわよ。嫌がらせ。
でも、本気でやるの、嫌がらせ?
わたし達、もう軍子会に入る年で、一人前になるための最後の段階にいるのに、嫌がらせって。
しかも、わたしに? 寮監の娘よ?
だからって威張り散らすつもりはないけれど、手を出したらまずいって思われるには十分な立場でしょ?
今期の軍子会で下手な真似はしてくれるなって、領主様と領主代行様の連名で、各派閥長に連絡が回っているはずなのに。
あとで派閥もかばってくれなくて、大変なことになると思うけど。
愕然というか、呆然というか、とにかくわたしが固まっていると、寮監殿がまだまだだと言いたげに首を振って、ダーナを見る。
「ダーナさんは、理由がわかりますか?」
「わたしなりに思うところですが……レイナさんは入寮初日から、かなり口うるさく注意して回っていましたから、目障りに思われていた節があります」
目障り。そうはっきり言われると、少し胸が痛むのだけれど……。
「そのレイナさんが、今日は男女を合わせた多くの寮生をまとめてみせました。このままレイナさんが寮のまとめ役になりそうだと思えば、目障りに思う連中は今のうちになにか痛い目を見せて大人しくさせよう、となってもおかしくはないです」
「そうですね。感情的には、ダーナさんの言う通りです。派閥の政治絡みのことでいえば、サキュラ家の方々が入寮する前の今が、手出しを許される最後の機会ですから、この時を狙ってバティアール家の足を引っ張ってやろうというところもあるでしょう」
感情面と、政治面の両方から、わたしに対する嫌がらせは予想できるらしい。
これも、わたしがお母様の言うことは素直に聞くから、思い至らなかったことなのかもしれない。
領主様や領主代行様から言われたことは皆がちゃんと守る、という意識があった。
少し考えれば、過去に命令無視や従者一族の反抗があったことを思い出せるのに。
つまり、軍子会はもうそういう場でもある、ということなのね。
一人前になる直前だから、派閥に関する思惑が混ざり、一人前になる直前だからこそ、感情的な諍いも普通に起きる。
当然のことだけれど、目の当たりにすると、どうすれば良いのか少し迷う。
「嫌がらせが、ありそうなのはわかりました。その、ネ……が、使われそうだって、言うことも」
うぐぅ、想像しただけで鳥肌が立つわ。
アレを使った嫌がらせって一体なに。投げつけられたりするの?
死んだやつ? 生きてるやつ?
「レイナ、そこで止まってどうするのです。相手が、不利な状況下であるにも関わらず、迂闊に仕掛けて来ようと言うのですよ。ありがたく足を引っかけて頭から地面に叩きつけて差し上げなさい」
「おかあさま、とても、わるいよかんがします……」
「そろそろネズミ嫌いを克服するいい機会です」
わたしにはまだちょっと無理だと思います。
いえ絶対無理ですお母様やめて!
****
その夜は、寮監殿が不在の日だった。
バティアール家の長、リインでしか対処できない問題が起こってしまったせいだ。突然のことだったため、代理で詰める召使いも不在の時間ができてしまうことになった。
人が寝静まる時間だから問題は起きないと思うが、監督者が不在の時間は注意するように――寮監殿はそうおっしゃられた。
わたしに嫌がらせを企む人がいたら、絶好の機会と言って良い。つまり、そういうことよ。
やめてって強く思ったけれど、口からは出せなかった。
だって、お母様にみっともないって思われちゃうじゃない……。
期待してくれているお母様に、ダメな子だと思われたくないもの……。
未熟なわたしにも誇りというものがあるわ。
……言い出せなかったことをすごく後悔したけれど。
いずれにせよ、決定は下された後。わたしはベッドの上、布団にくるまって眠れない夜を過ごしている。
正確な時間はわからないけど、さっき召使いの人が見回りにやって来てドアをノックしていった。
間もなく、寮館を出ていくという合図だ。
嫌がらせを企んでいる連中がやるとしたら、監視者が不在になる今しかない。ネズミを捕まえていたと聞いたから、まずやるつもりのはずだ。
まあ、こんな夜だから、ひょっとしたら、眠気に負けて寝こけているかもしれないわね。
別にそれでも良いと思うわ。寝る子は育つというもの。軍子会でやっていくためには、ぐっすり眠っていた方が将来良いことあるはずよ。
嫌がらせなんかよりよっぽど立派な行いだわ。
夜の底、床が軋む音がして、わたしは無駄な考えを止めた。
今の音が気のせいかどうか。本当に下らない嫌がらせをしに来た人がいるのかどうか。それを確かめるために、集中して耳を澄ませる必要がある。
決して、脅えて頭が真っ白になったわけではない。
床が軋む音は、かすかに、聞こえ続けている……ような気がする。どうなのかしら。
流石にそこまで自信がない。ドアを開けようとすれば、流石に気づくとは思うのだけれど。
暗がりの中、つぶっていた目を開いて、ドアの方へと向ける。
夜闇に慣れた目とはいえ、そこまではっきりと見えるわけではない。なんとなくドアの輪郭は見えるけど、ドアノブが回されたかどうかまでは見えそうにない。
ドア側に立っても、ベッドの上にいる人の顔まではわからないだろう。
暗い夜が、なにもかもを曖昧に隠している。
これなら、上手くいきそうだ。
ほっと吐息を漏らしてから、また息を殺して耳を澄ませる。
これまでに比べると、大きな音が夜に広がった。
多分、ドアを開ける音。
なにかが床に落ちる音。
勢いよくドアを閉める音。
それから走り去っていく足音。
それらは全て、隣の部屋から聞こえたものだ。
普段、わたしが寝ている二階の一番奥の部屋。今、わたしが寝ているのはその一つ手前、ダーナの部屋だ。
……ダーナに頼みこんで、今夜だけ部屋を代わってもらった。
ネズミの苦手を克服しなさいと言われて、真っ青になったわたしを見て、お母様がこれはダメだとダーナに話を振ったのだ。
元より、その可能性も考えて、ダーナも一緒に呼び出していたらしい。
流石はお母様、手回しが万全だわ。
その万全なお母様からわたしは、できないことはできないと言いなさい。苦手なものがあっても怒ったりしないから、と叱られた。
はい。
お母様のお叱りを改めて深く刻んでおきたいところだけど、突然の物音に他の部屋の子達が起き出してくる前に、ダーナの部屋から出て自分の部屋の中には絶対に入らず、そのドアの前に立つ。
ネズミ、部屋の外に出て来ていないわよね?
警戒していると、乱れた髪を手で抑えながら顔を出す女子がちらほらと現れる。
「騒がせてごめんなさい。粗忽者が悪戯しに来たのよ」
練習しておいた台詞を、すらすらと読み上げる。
「多分、ネズミを部屋の中に放ったのね。ネズミはどうでもいいけれど」
いえ、なにもよくないんだけど、もっと大きな問題はこの後だ。
「夜に女性の部屋に許可もなく押し入るだなんて、とてつもなく無礼な真似よね」
バティアール家くらい力があれば握り潰せるけど、家によってはこれだけで傷物扱いされて、婚姻の時に不利益が生じる可能性もある。
性根の悪いところなら、絶対に言いがかりをつけてくる。
そういう恐れのあることを、恐らくなにも考えずにやったバカ男子がいるのだ。
「こんなことが二度と起きないよう、寮監殿にきっちりと報告して締め上げるわ。これからの軍子会の生活を、皆が無事に送れるようにするから、安心して」
これには、わたしに思うところがある女子も賛同してくれる。
一生の名誉に関わることなのだ。使えるものなら他家の子女でも使う。
「ひとまず、皆は部屋に戻って寝ていても大丈夫よ。この後に来る召使いに事情を話して、調べてもらうから、あまり廊下に出ない方がいいわ。わたしは部屋の中のネズミの片付けね」
憂鬱だわ。
ネズミの捕縛自体は、ダーナや召使いがやってくれるでしょうけど、掃除をしないと気持ち悪くてこの部屋を使いたくない……。
今夜寝るのは、ダーナのところにお邪魔しよう。
****
犯人達は上手くやったつもりのようだけれど、昨夜のわたしの部屋の前には、小麦粉がまかれていた。
偶然だ。二階の倉庫に入れるものが、たまたま、こぼれてしまったのだろう。
一番奥の部屋だから、夜に用事があるのはわたしくらい。掃除は翌朝でも良いだろうと、小麦粉は放置されていた。
もしも女子部屋しかない廊下の奥まで踏み入った者達がいれば、足跡が残るし、服の裾に小麦粉が付着している。
さて、男子が女子の一番奥の部屋に、どうして夜中に行く用事があったのか。
問いただせば簡単だ。
そういえば、そいつらの部屋からネズミの声がしたとか、なんか庭の物置の方で怪しい動きをしていたとか、罪もないのに疑われたくない周囲の男子から報告はいくらでも上がって来る。
朝飯前という言葉があるけれど、本当に朝飯前に犯人の断定は済み、速やかに刑は執行された。
朝食の時間、今いる入寮者が全員集まった食堂で、リイン寮監殿が昨夜の犯人達を名指ししてその所業を明らかにしたのだ。
女子一同からは冷めきった眼差しがたっぷりと送られ、これから始まる軍子会で彼等の生活は冬のように厳しいことがうかがえる。
巻き添えで女子から警戒されることになった他の男子も、迷惑そうに遠巻きにしているくらいだ。
「貴族やその従者は、名誉を重んじます。名誉を守るためならば、命をかけることも当たり前に行われます」
寮監殿が、半泣きの男子を立たせたまま訓示を行った。
「それはなぜか。今回のことは、それを学ぶ良い機会となるでしょう。名誉に傷がつくと、どれほど不利益が生じるか、目の当たりにして、今後の糧としなさい」
流石はお母様だ。
罰として軍子会を辞めさせることもできたが、それをしなかったのは、規則破りをするとどんな目に遭うかを見せつける目論見もあったみたい。
とりあえず、犯人達は、この軍子会の中で婚約者が見つかる確率が激減したことだろう。まず誰も相手にしないと思う。他の人と協力する時も、嫌がられそうだ。
これは誰の眼から見てもつらいだろう。
罰で辞めさせられることはなかったけれど、きちんと反省した態度を示さないと、途中で辞めることになるかもしれない。
わたしが彼等をちらりと見ると、目をそらされた。
あの連中が許されるには、まずわたしへの謝罪から始める必要があると思う。なにをしでかしたか、まだ身に染みていないようだ。
やれやれと思いながら朝食を口に運んでいると、向かいに座った女子が声をかけて来た。
「レイナさん、昨夜は大変でしたわね」
「ええ、本当ですわ。皆さんも、お騒がせしてごめんなさいね」
「レイナさんが悪いわけではございませんもの。謝らないでくださいな」
当たり障りのない会話から、意外でした、と続けられた。
「レイナさんは、ネズミが少し苦手なのではないかと噂を聞きましたのに、昨夜は毅然としておられましたわね」
平常心、平常心。わたしは領都の市壁。
心の中で唱えながら、なにも不自然なところはありませんわと微笑む。
「確かにネズミは好きではありませんけれど、苦手だからと人前で狼狽えるなんて、侍女を目指す者としていかがなものかと思います。はっきり言って、弱みにしかなりませんもの」
「まあ……まあ、それはご立派ですわ。流石はバティアール家の淑女ですわね」
相手の目に、仰ぎ見るような気配が混じった。
市壁を前にした、サキュラ領の民の目だ。
こっそりと拳を握る。
やりました。やってやりましたよ、お母様!
レイナは今回の一件で、一部の人間から尊敬を獲得しました! お母様の狙い通りです!
あとはこのまま、できる限り評判を保つようにしていれば、寮内で堂々とした立場を作れると思います!
アーサー様とマイカ様が入寮するまでに、ある程度の力を手に入れられそうだわ。
ふと気づいたけれど、ネズミが出て来ても平気な顔をしなくちゃいけなくなったのね。お母様の言った通り、ネズミ嫌いの克服をしなくてはいけないのかもしれない。
一分の隙も許されない寮生活が始まる予感がするわ……。休む場所が部屋しかなくなりそう。
あ、マイカ様が同室になったら、わたしって休む場所もなくなるわね!?
マイカ様が、お母様の話すユイカ様みたいな方だったら良いのだけれど……。
干し柿を一緒に食べたことを、大きくなって、離れ離れになっても笑顔で思い出せるような人だったら。




