背筋の伸ばし方3
【シナモンの祭壇 レイナの断章】
未来の派閥長の右手の人差し指は、結構な活躍の機会を得られている。
残念なことに。
「あら? ちょっと待ちなさい、そこの男子!」
玄関広間でいつものように入寮者の様子を見ていたら、男子部屋のある廊下が騒がしくなって目を向けたら、大きな声が出た。
男子部屋のあちこちのドアを開けている男子がいる。
まだ入寮者がいない、無人の部屋を開けているようだ。響く笑い声からして、なにかの遊びなのだろう。
人のいない部屋は、荷物も飾りもない。
最低限の家具、机二つ、椅子二つ、二段ベッド、タンス二人分という殺風景で、しかもどの部屋も同じ間取りという自分のところを見れば大体わかるもの。
そんな空き部屋を見てなにが面白いのか、さっぱりわからない。
わからないが、しかし、これは大問題だ。
ノックもなし、部屋の住人の許可もなしに、ドアを開けて中を見るなんて!
空き部屋を覗いて遊びにしているうちはまだ良いけれど、これがアーサー様の入寮後、在室の時に行われたら死人が出るかもしれないわ!
今のうちに弩砲を打ちこんで封じておかないといけない。
「なにをしているの! なにか用事があって部屋を開けて回っているのかしら!」
いやすごいわね。こんなに大きな声を出せるのね、わたし。
自分でもびっくり。初めて知ったわ。
わたしの大声に、男子の騒ぎを無視していた女子も集まって来る。女子部屋のある二階から降りて来た顔まである。
ダーナとか。
部屋開け遊び――そんなの聞いたことないけど、多分、探検ごっこの一種?――をしていた男子も、いきなり人目を集めて驚いている。
怒られたのが自分達だ、ということもよくわかっていないらしい。本人達は、ただ遊んでいただけなのだ。
わたしは、深々とした溜息を抑えきれない。
「あなた達が、部屋の住人の許しもなく、ドアを開けて、部屋の中に入っているように見えるのだけれど……。違うかしら?」
問いただすと、眉間にシワが寄ったのがわかる。あとで、未来の派閥長の右手の人差し指がまた出てくるかもしれない。
わたしの声、表情で、怒られているということがわかったのか、男子が面白くなさそうな顔になった。
「いや、ここ空き部屋だから、誰もいないし……だから、別にいいだろ?」
「誰もいなければ、勝手に開けて使って良いとでも? もし、急な入寮者がいたら? あるいは、なにかの用事があって空き部屋を使う人がいたら?」
なにを屁理屈を、という顔をしたのは遊んでいた男子だけではない。他の男子も、集まって来た女子も。
わかっていない。本当に、皆、わかっていないのだ。
今期の軍子会、お母様や、そのお母様を寮監に配したイツキ様が、どれほど厳しい目で見ているのか。
じれったさに、余計に声が尖る。
「知っての通り、今期の軍子会にはサキュラ辺境伯家の方が二名、おられます。男女一人ずつよ。礼儀作法を疎かにして良いと思う? 寮監殿に知られたら、叱られて終わりで済まないかもしれないのよ!」
軍子会で要注意人物として酷評されることは絶対、下手をすれば辞めさせられて、その後も人気のない部署に回されるかもしれない。
他領との交流という名目で追放されることだってありえる。
一番ひどい場合――アーサー様の秘密を知ってしまった場合――は、死刑だってないとは言い切れない。
それをこの子達はわかっているのかしら。
主家の子と同期というのは、確かに世界樹の高みへ上がる大きな機会だ。
猿神様の特別な取り計らいと言って良い。しかし、その特別を握り損なえば、世界樹から真っ逆さまに落ちる。
翼のない人の身で助かる高さではない。
それを、理解していない人達の、なんと多いことか!
「あなた達は! 今期の軍子会が特別であること、その軍子会の一人であること、サキュラ辺境伯家の将来を支える立場であることをもっと自覚なさい!」
わたしの大声に、ひとまず、返事はあった。
仕方なさそうに間延びした、は~いという返事。
これはわかっていない。まったく、わかっていない。
叱られた時にぶすくれた表情をつくろいもしないって、軍子会に入寮する年になってどういうこと。
ご実家はなにを教えているのよ。
寮が開かれたばかりの段階の入寮者といえば、領内でも上位の家の子達のはず。なのに、この体たらく。
軍子会の規律を保つことは、思った以上に大変なのかもしれない。
お母様、レイナはそれでもやってみせますとも!
眉間にシワを寄せながらも、わたしは決意を新たにした。
****
流石にあれだけ叱れば数日は大人しい――と思っていたけれど、翌日も怒鳴る羽目になった。
今日も玄関広間で見張っていると、男子部屋に続く廊下から人影が飛び出して来たのだ。
それはもう、全力疾走の飛び出しだ。
寮館は広いとはいえ、屋内に変わりはない。そこを練兵場や公園広場のように駆け回ったら、当然、人とぶつかる恐れがある。
この時は、幸いぶつかる人は出なかった。
けれどそれは、わたしの方に挨拶に来ようとした女子が、悲鳴を上げながら身をかわしたからだ。
「ちょっとあなた! 危ないじゃない!」
わたしの大声も悲鳴に近い。
咄嗟に避けたのは見事だったけれど、その女の子は避けた後の姿のまま、顔を青くして固まってしまっている。
武芸が得意で避けられた、というわけではないようだ。
偶然、避けることができたのだろう。
そして、その子が顔色を悪くする程度には、相手の男子は勢いよく走っていた。ぶつかったらどうなっていたことか。
まだ動けない女子を抱きしめながら、男子を睨めば、流石に気まずそうな顔をしている。
「寮監殿に走り回るなと言われたでしょう! それなのに寮内で走るなんて、一体何事なの!」
一応、理由を聞いてみる……まあ、声が荒くなって問い詰めるというか、なじるような調子になってしまったけれど。
男子の方も、わたしの口調に相応しく反省とは真逆のしかめっ面になった。
「あれくらいでうるさい奴だな。グチグチと小言ばかりで、親が寮監だからってお前が偉いわけじゃないだろ」
「寮監がどうのこうのではないわ。人に怪我をさせるところだったのよ! そういうことがないように、寮では禁止になっているの。それを破るだけの理由が、今のあなたにあったの?」
「怪我はしてないんだからいいだろ。うるさいな!」
理由を言わないということは、なかった、と判断されるけれど、それで良いのかしら。
それでいいとして、怪我をしなかったから許される、って言い訳にもなっていない。
「それはこの子が避けたから、怪我をしなかっただけでしょう」
「そいつが避けなかったら俺が避けたさ!」
本当かしら。
女の子と同じくらい、びっくりした顔をしていたように見えた上に、女の子がいた場所をそのまま走り抜けてから止まったように見えた。
ああ、こんなことを考えても無駄ね。どちらにせよ、なんの証拠もない。
この男子が寮内を走り回り、関係のない女子とぶつかりそうになった。
確かなことはそれだけだ。
「あなたという人は、なにを言っているのかわかっているのかしら。規則を破った上、ぶつかりそうになった相手に謝罪もせず、なんの問題もないと思っているの?」
「お前こそ、毎日毎日、こんなところで見張りのつもりか。親が偉いからっていい気になるなよ!」
「それが今のあなたの問題に、なにか関係がある?」
「だから! 親が寮監だからってお前が俺に注意するんじゃないって言ってるんだ!」
この子、本当に話が通じないわね!
寮監に注意されるということがどういうことか、わかっていないからそんなことが言えるのだ。
目に力を入れて説教をしようとするところで、別の声が割って入って来た。
「まあまあ、レイナさん。そんな大声を出していたら、あなたまで叱られてしまいますよ」
ダーナだ。
いつも通りのおっとりとした声で、わたしの肩を右手の人差し指で突っついて止めてくる。
「ですが、ここできちんと言っておかないと!」
ダーナなら、わかっているはずだ。
アーサー様の秘密までは知らされていなくても、今期の軍子会が、ただ主家の子がいる、という表向きの特別以上に特殊な場になっていることを注意されているはず。
それなのに、よろしいではないですか、と柔らかな声が笑う。
「今期の軍子会が特別だということは、どのお家も知っていること。わたしも耳にタコができるほど、お行儀よくしていなさいと、両親からよ~く言い含められていますわ」
ねえ、とダーナが周りを見渡す。
今この場にいる全員に、そうでしょう、と念押しする眼差しは、おっとりした口調とは裏腹に冷ややかだ。
「それなのに、お行儀よくできないということは、その程度のお子様ということ。さっさと寮監殿にお知らせして、軍子会の成績につけてもらいましょう」
悪評価を成績につけられたら、軍子会修了後の進路に差し障る。
親の言うことが聞けない、寮内の礼儀作法を破るとなれば、上位者に接する立場、重要性の高い命令を受ける立場にはまず配属されないだろう。
一番の出世街道から外れるのだ。
「寮監殿の代わりに、レイナさんが、優しく、叱って差し上げる必要はどこにもありませんわ。そちら様も、寮監殿に、直接、お叱りが欲しいようですから、そのようにして差し上げればよろしいのですわ」
ダーナの笑みは変わらない。
変わらないからこそ、冷えた怒りや軽蔑が、床から這い上がる隙間風のように感じられる。
「領主代行のイツキ様や、実家のご両親もさぞ落胆されるでしょうけれど、それをお望みなのですから仕方ありませんわね」
寮監に叱られるということは、そういうことだ。
軍子会という小さな屋敷において、寮監とは実家の当主の代わりであり、主家の領主の代理に等しい。
その疑似当主、疑似領主に叱られる、ということは、軍子会を終えて働く時にも同じように叱られるかもしれない、ということ。
それがどれほどまずいことか。
少なくとも、成績をつける側の者達は、とてもまずい、と考えている。
「さ、レイナさん。寮監殿のところに参りましょう。リイン寮監殿もお暇ではないのですから、ああしていつまでも待たせているのは気の毒ですわ」
ダーナの視線の先にはお母様、リイン寮監殿が仕事をしている。
初日から続いている入寮者の受け入れ業務は、今日も継続中だ。こちらに顔を向けていないが、当然、やり取りは把握しているだろう。
わたしのお母様だもの。
「でも、なるべくなら寮生同士で話をつけたいのよ。わかるでしょう、ダーナ?」
寮監に叱責されたら、それはもう外に出て行く悪行だ。
しかし、軍子会の寮生同士で言い聞かせられるなら、そこまでの悪評価はつかない。同僚や部下の忠言で改められるということだ。場合によっては、美徳として評価されなくもない。
「レイナさんは、本当にお優しいですわね。その面倒見のよさ、尊敬しますわ」
にっこりと笑ったダーナが、その笑顔を消して男子の方を見る。
「で?」
地獄に吹きすさぶ風の音かと思えるほどの低い声で、ただ一音。
これが最後の優しさだと、甘ったれた根性を凍らせて木っ端に砕くような問いかけに、男子は転ぶような勢いで頭を下げた。
****
「レイナちゃんは、叱り方がちょっと優しすぎるわね」
ダーナにそう言われて、わたしは唸る。
認められないから、ではなく、どうやらそうらしい、という納得の唸り声である。
「お母様みたいに叱りたいところなのだけれど、わたしには上手くできないみたい」
元より、わたしがお母様と同じようにできているとは思っていないものの、我ながらひどかった。
お母様はあんなに声を荒げないし、もっと言い訳を許さないような鋭い言葉を使うと思う。わたしはまだまだお母様に及ばない。
でも、それにしたって、あんなに効き目がないだなんて……。
ダーナが出て来たらすぐに収まったのだから、自分の未熟さに少しばかり落ちこむ。
「ああ、レイナちゃんのせいじゃない……というわけでもないんだけれど、あれね、レイナちゃんは、自分が叱られるようにやったのでは、上手くいかないのは仕方ないわ」
「そう? そういうもの? どうしてか、ダーナはわかる?」
「もちろん。あ、いえ、わたしなりにわかっていること、だから、完璧かどうかはわからないけれど」
それでいいので教えて欲しいと頷くと、ダーナは困ったように微笑む。
「レイナちゃんは、小さい頃からお母様に憧れて、リイン様の言うことをよく聞いていたんじゃない?」
「ええ、もちろんだわ。お母様のような侍女になるのは、わたしの一番の夢だもの!」
「だから、リイン様の言うことをよく聞いて、自分のどこが間違っているかわかったら、素直に謝れる。同じ間違いをしないように、反省もしっかりする。そんな感じでしょう?」
「心がけだけは、そうね。何度も同じ間違いをすることはあるから、思った通りにそうすることは難しいわ」
お母様を失望させていなければいいのだけれど……。
想像すると胸に冷たい風が吹くようだわ。もっとしっかりしなければ。
「それ、それよ、レイナちゃん」
「え? どれ?」
「あなたは、お母様に言われたことは、うんうん頷いて受け入れる、とっても良い子ちゃんなのよ」
えーと、どういうことかしら。
首を傾げるわたしに、ダーナはそこはかとなく呆れを滲ませた微笑みで頷く。
「あなたくらい素直な子はそうそういないわ。叱られたら泣きべそかいて、文句を言いながら逃げ出して、部屋や物置に立てこもるなんて、そう珍しくないわよ?」
「まさかそんな…………え、ひょっとしてダーナも?」
「当然でしょ。流石にこの年になったら泣きべそかくことはないけど、母親の小言は話し半分で聞き流すし、あんまりしつこいと言い返すわ。弟達は、さっき言った通りのことをして、でもお腹が空いたら鼻水垂らしながら謝りにいくけど……わたしはその辺は経験が違うからね。最初に厨房から食料を持ちだして籠城するわ」
ええ……。その、それ、大丈夫なの?
ほとんど喧嘩、というか、それもう戦争になってない?
お家、大丈夫なの? ご乱心からの分裂とかにならない?
友人のお家騒動を案じて青ざめると、ダーナが、はっきりと呆れた。
バカね、なんて笑いさえする。
「これくらいが普通なのよ。親子喧嘩くらいどこでもするわ。なんなら月一くらい……いえ、週一かな? それが当たり前なんだけど……レイナちゃんは、したことなさそうね?」
「ないわよ、そんなの! 絶対にない! ……少なくとも、物心ついてからはない、と思うわ?」
ちょっと自信がなくなったのは、そんな戦争みたいなことをしていたら、頭を強く打って記憶を失うくらいありそうだと思ってしまったから。
今度、実家に帰ったらお父様に聞いてみましょう。あと、召使いとかにも。
親子喧嘩の恐ろしさに脅えていると、だからよ、とダーナは笑った。
「だから、あなたの叱り方は優しすぎて、男子に通じなかったのよ。叱られたら素直に反省するのが当たり前の良い子ちゃんなんて、レイナちゃんの他にいないわよ、絶対」
「そう、だったのね……。お母様の叱り方が通用しないなんて……」
「はっきりとした罰がないとわからないのよ。うちの弟達だって、お腹が空いたら謝って言うことを聞くんだから、同じようなことよ」
「ご飯抜きにされたくなかったら大人しくしなさい、って?」
「特に暴れ回っている男子相手には効果てきめんね。連中の元気は食べ物に詰まっているのよ。まあ、軍子会でご飯抜きは、寮生でやる権限がないけど……家や領主様から叱られるって思い出させれば黙るくらいの聞き分けはあるようね」
なるほど、なるほど。
とても勉強になるわ。
ただ悪い部分を指摘するだけでは、言うことを全く聞かない人もいるのね。
軍子会がどういう場であるか、どういう罰が与えられるか、説明されなければ思い出せないだなんて、とんでもないことだ。
わかっていないのではなくて、忘れているだなんて、思ってもみなかった。
「思っていた以上に、軍子会って大変なのね」
「レイナちゃんの場合、問題を起こす人達のことは思い切り年下の子供だと思って接した方が良いかもしれないわね。なにもわかっていない、礼儀作法を学ぶ前だと思って話せば丁度いいかも」
「そこまで、なの……?」
「わたしの弟なんだけど、怒ると教えたことが全部飛ぶみたいなのよね。だからまあ、叱られて逆上している相手には、それくらいの心持ちがいいのかなって」
「本当に、勉強になるわ。改めて、やり方を考えてみるわね……」
うぅ、頭が痛くなりそう。
軍子会で規律破りが出ることはわかっていたことだけれど、もっとこう、実家のいざこざから日陰でいじめだとか、将来のために弱みを握るだとか、そういうほの暗いものを想像していたのに、フタを開けてみたら作法教育前の子供みたいなわがままだなんて……。
「まあまあ、そんな難しく考えなくても、レイナちゃんなら上手くやれるから平気よ」
「だと良いんだけど……。すでに、さっきもあなたに助けてもらわなければ収められなかったのに……」
「派閥の子女が集まる時も、レイナちゃんの一声で場がまとまっていたのは、あなたが派閥長であるリイン様の娘だと、皆が知っていたからよ」
「ええ、そうでしょうけど……」
未来の派閥長の言うことを聞かない、ということは、わたしが派閥長になった時にも当てにできないということ。
将来に被る罰を考えれば、大抵は大人しくなる。
「今度は、派閥長の娘ではなくて、寮監の娘として同じことになる?」
「さっきのいざこざで、あなたが寮監殿の娘で、あなたの言うことを聞かなければ、次は寮監殿が出てくるって今いる人達は理解したんだもの。それを忘れないように思い出させればいいわ」
ふむ。なるほど。
それくらい言わなくても実家で注意されて、わかっているだろうと思っていたけれど、案外わかっていない人達もいるのだと知った。
あるいは、わかっていても、忘れてしまう人達もいるらしいとわかった。
「ダーナが思い切り年下の子を相手にするように、と喩えたのがわかってきたわ」
わたしは、おいたをしでかす小さな子に、ご飯抜きにするぞと叱る恐い母親役をしなければいけないのね。
多分、何度も、何度も。
そのことをどれほどわかったのか。思わず口から零れた言葉で表現した。
「婚約者、できそうにないわね」
だって、恐い母親役よ?
母親と婚約者って繋げるには遠い立地だわ。
わたしのお母様は素敵な人だけれど、叱られてふてくされる子供のご飯を抜くような母親が好かれるとはとても思えない。
「だ、大丈夫よ? レイナちゃんはとっても綺麗だし、勉強もよくできるし、素敵だもの」
「ありがとう」
あなたの声が震えていなければ、わたしも気が楽になるわ。
「いざという時は、ダーナが責任を取ってくれる?」
「ごめんレイナちゃん。わたしも我が家を保つ義務があるの。弟がいるけどそこはそれ、その分だけ相手を選べる自由があるんだから、満喫したいわ」
この軍子会、わたしは婚約の機会どころか友情まで失いそうだわ。
前者はともかく、後者については怒っていい?




