まだ風は吹かない3
【シナモンの祭壇 リインの断章】
「色々と考えたんだが、今期の軍子会の寮監はリインに任せたい」
王女殿下対策の集まりで、イツキ様がこれまでになく明快な口調で言った。
それだけで察せられることもある。
どうやらユイカ様からのご返事が届いたらしい。
その推測は、イツキ様の口から「外への備えだけでなく、王女殿下自身への注意も必要だ」という内向きの気遣いが出て来たことで補強される。
絶対にイツキ様の頭からは出て来ない考えである。
こういう内向きの考えは、当代のサキュラ辺境伯家では、女性陣の持ち物だ。
ユイカ様が外にお出になられた今、ヤエ様が担当しているもの。そのヤエ様の表情は、自分が言う手間が省けたと満足そうだ。
「というわけで、これほどの重責となると任せられる人間は少ない。引き受けてもらえるだろうか、リイン?」
問いかけの形を取られているが、主命を断るつもりはない。
ユイカ様の元筆頭侍女として、どれほど無茶振りであろうとも、応えられる有能さを持っているという自負がある。
「お引き受けいたします」
それに、わたくし以上の適任はいないともわかっている。
今年は、娘のレイナが軍子会に入る。娘と協力すれば、軍子会の上と下の両面の視界が手に入るのだ。
睨みを利かせるには都合が良い。
加えて、かつて仕えたユイカ様のご息女、マイカ様もいらっしゃる。
そのお世話をできることは、やはり嬉しい。
侍女としての格が上がった今、やるべき業務も多く、寮監の実務を担うことは難しいと思われたが、思わぬ形で機会が巡って来た。
……その分、わたくしが抜けた後の他の業務が心配ではありますが。
後輩の侍女達の決死の表情が頭を過ぎるが、残念ながら優先度の高さは覆せない。
「寮館内での出来事は、わたくしが責任をもって対処いたします。後は、授業を行う講師の方にも気を配って頂ければと思います」
「当然だな。とりあえず……というより、他に選択肢はないんだが、ヤエとバレアスにも協力をしてもらうぞ」
こちらは問いかけではなく、決定事項として通達された。
ヤエ様は一族ですし、ジョルジュ卿はご友人だからだろう。頼めば断らないと、ちょっとした甘えがある。
わたくしにそれがないのは、元々が姉であるユイカ様の侍女であるためと思われる。
無意識かもしれないが、この弟君は、尊敬する姉に近い人間に対しては丁寧に接する。
イツキ様の幼い頃に叱り役をしていたことは関係ない。多分。
「よし。では、この三人が中心となって、今期の軍子会……特に、王女殿下への対処をしてもらうぞ。いざという時は俺の名前を出すことを許すが、他にどんな権限が必要だ?」
「権限はあまり必要ないでしょう。元より、それぞれがそれなりの立場にありますから」
従者としては中々答えづらい質問を、的確にヤエ様がさばいてくれた。
わたくしやヤエ様なら、実家の力もあって、それなりの無理も通せる。三人の中で一番地位が低いジョルジュ卿には、人望があり、なにより必要があればイツキ様の友人として無茶の通せる立ち位置を築いている。
ジョルジュ卿が困った顔をすれば、イツキ様から必殺の「じゃあ、お前がバレアスの仕事をやれ」が飛び出す。
相手は黙る。
そんな三人なので、権限よりも、軍子会の詳細を知りたい。
同意見だったらしいヤエ様が切り出す。
「それよりも、軍子会の参加者の情報と殿下の扱いです。個別に相談はしておきましたが、寮館に入れるのか入れないのか。入れるとしたら同室はどうするか。その辺りの方針は決まりましたか?」
とはいえ、とヤエ様は優先的な確認事項について、軽く話す。
「寮館には入れませんよね? なんといっても王女殿下は、イツキ様の弟としてやって来るのですから」
わたくしもジョルジュ卿も頷く。
当然のことだ。サキュラ辺境伯家の末弟として扱うなら、男性扱いにしなければならない。
軍子会は基本二人同室――特例やらなにやらで個室にしても良いけれど、それでも男子側の寮生活に王女殿下を放りこむなど、いささかでは済まない問題だ。
寮館では、一階が男性寮、二階が女性寮なので、そこまで男性ばかりの状況にはならない。具体的には、衛兵の男性宿舎ほど、明け透けなことにはならない。
それでも男子特有のノリで水のかけ合いやら筋肉自慢やらが始まることはある。
これまでの寮監がつけた記録には恒例行事と言っていい頻度で登場する。やりたい者達だけでやっているなら良いが、勢いで周りを無理矢理引きこむ輩も出て来る。
そんな者が、王女殿下の服に手をかけるようなことがあれば……。
軍子会経験者の三人は、当然そう考えている。イツキ様とて、それはそのはず。
むしろこの人が率先して、周りを巻きこんでいたタイプなので、それはもう当時はお叱りして差し上げた。骨身に染みていることでしょう。
そう思っていたのだが。
「いや、それなんだが……入れようと思う」
おっと、イツキ様、頭を強く打たれましたか?
打たれていましたね、小さい頃に。
そうですか、あの頃のお怪我が今になって……。
仕方ありません、次期領主の役割に支障が出るようなら、ユイカ様に来て頂きましょうか。
「おい、待て、リイン。お前、絶対にろくなことを考えていないな?」
「いえ、予測されうる状況に対して、最善の手を模索しただけです」
「それだ! バレアスもヤエもびっくりした顔をしたが、お前だけすぐ目を細めてなにか考えた顔をしたやつだ!」
気づかれましたか。
相手の顔色を読むのはユイカ様の得意技でしたが、多少はイツキ様もできるようになったのですね。
「ユイカ様に似て来られたようで」
「む、そうか? そう思うか?」
こうして一言だけで誤魔化される辺り、まだまだ頼りありませんけど。
「それで、どうして王女殿下を寮館に入れるおつもりになられたのです? てっきり、領主館からの通いにするのかと思っていましたが」
「ああ、うむ。それは当然というか、そうなるのも仕方ないとは、俺も思っていたのだが……」
姉上が、と最重要人物の存在をイツキ様がほのめかして、その後に続く言葉を理解した。
「姉上が言うには、欺瞞工作をより完全にするためにも、軍子会の同室に入れた方が良いと。同室には、姉上推薦の男子がいるから、その子にしなさいと言われた。しかも義兄上の推薦もついているんだ」
ユイカ様とクライン卿の二人から薦められても、いまいち納得がいかない顔をするイツキ様。
これはとても珍しい光景だ。イツキ様は、どちらか片方の言葉だけでも、神託を受けたかのごとき反応をするのに。
ユイカ様の提案は、それほどにはおかしな話だ。
わたくしとて、ユイカ様のことは誰より信頼していると自負できる。それでもなお、素直には頷けない。イツキ様もそうなのだろう。
「姉上と義兄上の意見だ。人を見る目が、それぞれ違う種類とはいえ確かな二人の強い要望ならば、聞いた方が良いと思う。とはいえ、流石にこれは即答しかねるだろう。みんなも持ち帰って、少し考えてくれるか?」
なんだかんだと、この人もちゃんと分別はついているのだと、初めて知った。
錯覚かもしれないが。
****
その後、イツキ様のお付き侍女のランが、わたくしの屋敷を訪ねて来た。
「こちら、今期の軍子会参加予定者の一覧になります。イツキ様よりお預かりして参りました」
ありがとう、と感謝を述べてから、ランの表情をうかがう。
「時間に余裕はありますか? 少しお話をしたいのですけれど」
「はい。少しお腹が空いている以外は問題ございません、先輩」
……誘ったのですから、お茶くらいは出しますが、おねだりをしますか。
ツンと澄ました表情に見える後輩侍女に、溜息を漏らす。
この子にとって、素直に甘えられる先輩であることを、自慢に思った方が良いのでしょう。
「仕方ありませんね」
とっておきの干し柿を出してあげましょう。
「出ましたね、干し柿」
談話室の卓上に出されたお皿をじっと見て、ランが呟く。
「家の来客用の茶菓子ではなく、わたくし個人の嗜好品です」
わたくしの食べる分が減るので、これを出すお客様なんて数えるほどしかいないのだ。
ラン以外だと、ヤエ様とか。
「相変わらずですね。リイン先輩なら、砂糖菓子も食べられると思いますけど」
それはそうだ。
これでも、サキュラ辺境伯家の重鎮の一族、個人の嗜好品で済む程度なら砂糖菓子だって手に入れる余裕はある。
とはいえ、わたくしにはこれで良い。
小さい頃から、ユイカ様と一緒にかじった干し柿より美味しいものは存在しない。
大体、砂糖菓子はちょっと甘味が残り過ぎる。
どちらかというとさっぱりした物の方が、たくさん食べても飽きが来なくて美味しいではありませんか。干し柿のじんわりとした甘味、優しく後を引いて消えて行く儚さ。噛みしめる度に幸せになれる。
砂糖より安価で、たくさん買えるところも評価が高い。
干し柿のお勧めできる要素を懇切丁寧に説いてあげたら、ランが呆れた顔で干し柿をもぐもぐかじる。
「相変わらずの干し柿好きですね。美味しいとはわたしも思いますけど」
干し柿の美味しさを理解しているなら、もう少しゆっくりと嚙んで味わって欲しいものですね。この干し柿は中でも当たりの代物なのですよ。
流石にそこまで言うとなにやら器が小さく思われそうので、咳ばらいをして話題を変える。
「まあ、干し柿はいいのです」
全くよくないですが、と内心では付け足すのを忘れず、本題を切り出す。
「それより、軍子会のことを相談したいのです」
そうでしょうね、とランが頷く。
そうでなければ、わざわざ呼び止めてとっておきの干し柿まで出さない。ランの方だって、自ら軍子会の名簿を届けに来たのは、その話をするためだろう。
「あなたの派閥に所属している参加者に、釘を刺しておいて頂けますか」
「もちろんです。家を使って問題を起こさないよう、それなりの圧力をかけておきます」
「くれぐれもよろしくお願いします。問題は、わたしやあなたが口を出せない派閥ですね」
「特に武官系の派閥でしょうか。元々、サキュラ辺境伯家は武人の裁量が大きいですし、ジョルジュ卿も家格は低いので、そちら方面の睨みが薄くなりますね」
厄介な話だと溜息が漏れる。
文官の一族と武官の一族では、やはり後者の方が活発な人物が多くなりがちだ。その武官一族の方に睨みが利かないとは……。
「武官一族で話のわかりやすいところに根回しが必要ですね。参加者の中に、有望な子はいませんか?」
ランが持って来た参加者名簿をめくりながら尋ねる。
「一応、イツキ様とジョルジュ卿に確認して、目星をつけて来ました。グレンという方の評判がよろしいので、そこを中心に内部に良識派を作るのはどうかと」
「グレン、グレン……ああ、あの家の。ええ、あそこは当代も評判がよろしいですからね。なるほど、ご子息の教育もしっかりとしておられるようでなによりです」
親の能力が、そのまま子の能力の保証になるなら、没落する上流階級はいない。
仕事熱心ゆえに家庭を省みない例もあり、次代の教育に失敗する家というのは意外と多い。
ふと、娘の顔を思い浮かべてしまう。わたくしも他人事ではない。
ただ、親のひいき目を承知でいえば、わたくしの娘は随分と好ましく育ってくれたと思う。正直、目に入れても痛くない、という比喩をこれほど実感するとは思ってもいなかった。
意識がそれてしまった。ランの声を聞いて、すぐに問題に戻る。
「ただ、やはり評判のよろしいところは、職務に忠実と言いますか、余計なことをしませんので、上手く軍子会で派閥を持てるかどうかは難しいところです」
「権力への志向がないと、派閥を作ったりもしませんからね」
「人望があれば自然とできる、ということもありますが、今回それを期待するのは難しいのではありませんか?」
今回、人が集まるのはマイカ様か、王女殿下のところだろう。
人望のあるなしは別として、どうしたって二人の持つ権力が大きすぎる。その他大勢、どこか気に入ったところに入れば良いと考えている者達が、出て来ないのだ。
やはり、グレンなる人物を中心とした派閥形成は難しいかもしれない。
やるだけはやってみるが、成功する見込みの低い作戦だけを抱えて戦場に立つべきではない。
「あまり使いたくはありませんが、レイナに派閥を作ってもらわねばならないかもしれませんね」
そうすると、寮監の親の力を背景に勢力を作ることになる。あまり良い手とは言えない。
こういう親世代の権力を背景にした振る舞いは嫌われるものだ。
必要ならばやれねばならないし、レイナも言えばやってくれるだろう。
ただ、親としては、その後の長い人生に響くような真似を娘にしろとは命じるのは、いささか口が重くなる。
その重さから逃れるように、別な期待を漏らす。
「後は、マイカ様のお人柄次第、ですね。マイカ様が期待通りの方であれば、こちらでどうこうせずとも軍子会の主導権を握られるでしょうから」
「順当にいけば、マイカ様の軍子会ですからね。果たして、どんな方になっておられるのか」
ランの疑問に、わたくしが持っているマイカ様の情報が、羽が生えたような軽さですぐに口から飛び出ていく。
「ユイカ様からのお手紙ですと、活発な方のようです。クライン卿に剣の手ほどきを受けているとか。もちろん、ユイカ様のお子様らしく、頭脳も明晰のようですよ。すでに読み書き計算ができると聞いています」
「出ましたね、先輩のユイカ様びいき」
当然です、と頷く。
わたくしはユイカ様の筆頭侍女であり、ユイカ様はわたくしに相応しい主人だったのですから。
なんだかんだと言ったところで、ユイカ様のご息女を中心とした派閥が作られると、わたくしは信じているのだ。
そこに王女殿下も入って頂ければ、内部的にも外部的にも、角が立たずに治まると見込める。その派閥に娘を送りこめば、さらに制御しやすい。
「確かに、ユイカ様は素晴らしいお方でしたが、村で育ったご息女にそこまでの期待をかけるのは酷ではないかと」
村の生活と、都市の生活は違う。それは確かだ。
周囲にいる人間が違えば、子供の興味や力の方向性も大きく違う。
限られた人間関係の中で育つ村長家の少女に、派閥の長を務めることを期待するのは、いくら母親がその手の能力に長けていても危うい。
それらを理解して、わたくしは頷く。
「では、ユイカ様のご息女の派閥ができたら、ランにはお願いを一つ聞いて頂くことにしましょう」
「本当にユイカ様絡みでは強気ですね、先輩。ああ、いえ、思えば仕事関係ではおおよそ強気ですけど」
「侍女たるもの、その務めに振り回されるのではなく、務めを振り回すための強さが必要です」
「ええ、先輩にそう教えられました。懐かしい……」
ふと、昔の教育を思い出したのか、ランが小さく苦笑した。
「わかりました、受けて立ちましょう。では、マイカ様の派閥ができなかったら、先輩がわたしのお願いを一つ聞くということで、よろしいですか? 個人的には、わたしに有利な条件だと思いますけど」
「ええ、それで結構ですよ」
すぐに頷くと、強気ですね、とランが繰り返した。
傍から見れば、それほど不利な条件なのだろう。
若い頃を共に過ごした、主人の思い出が美化されている。そうかもしれない。
頭ではそう理解しつつ、それでも、ユイカ様は寒村に行かれても、領主候補から村長夫人になり、母親になっても、素晴らしいお方だと信じている。
それは、青春の夕暮れが生み出した、長い長い影を見ての確信だ。
****
それからしばらく、軍子会と王女殿下への対応をランと打ち合わせする。
「ふむ。おおよそ、輪郭は見えて来ましたね。伝聞の情報が多いので、出たところ勝負になるのは仕方ありませんが」
王女殿下やマイカ様といった大物でさえ、実際の顔を知らない状況では仕方ない。
これだけ不透明な状況に対応してこそ、一人前の侍女というものだ。
「そうですね。まあ、リイン先輩が寮監をするのです。最初に一発カマして差し上げれば、並みの悪戯っ子程度ならば黙ります」
「ラン? 少しばかり、先輩への敬意が不足しているのではありませんか?」
補充しますか?
微笑みかけると、間に合っていますと頭を下げられた。そのそつのなさと表情の変わらなさに、ランの経験が見える。
「順調に逞しくなっているようでなによりですね。近頃は、イツキ様の評判もよろしいですよ。陰口をさえずる小鳥が減りました」
「ありがとうございます。ですが、イツキ様ご本人は、さして変わっておりませんので、周りの人間が慣れたか、あきらめただけかと」
あの人はまあ、変わらないだろうと思う。
もちろん、領主代行として仕事は慣れてきたし、次期領主としての振る舞いもできるようになってきたけれど、それでも根っこはアレだ。
現領主であるゲントウ閣下を見れば、大抵の者は察します。交渉の席で「お前が嫌いだから譲歩はしてやらん」というような、正直の上にバカがつくようなアレだ。
イツキ様の性質も悪くはないけれど、領主としてどうかと言われると皆即答はしかねる。
その点、落ち着いていて、領主らしい振る舞いが見えたユイカ様に期待が集まるのは当然のことだった。
まあ、その後のクライン卿とのあれやこれやを見れば、やはりユイカ様もサキュラ辺境伯家、アマノベの人間だったのだと思う。
ともあれ、イツキ様が変わらなくとも評判が上向きなのは、周りの手助けが大きいのは間違いない。
それこそ、お付き侍女の務めでもある。つまりは、目の前のランの仕業だ。
寄せられる業務を円滑にさばかせ、寄せられない問題を拾い集めて解決させ、協力者との関係を強化し、反抗的な勢力を締めあげる。
それらを派閥の力を使って統制する。
下手をすれば、その力で主人を害するほどの能力と権力を持つのだ。周囲から足を引っ張られることも多い、困難な務め。
それを、わたくしより年下のランは上手くこなしている。
「逞しくなりましたね、ラン」
「先輩に褒められるなど恐縮すぎて、ただでさえ小さな背が縮んでしまいそうです」
本当に逞しくなった。図太さと表現しても良い逞しさだ。
彼女の「先輩」になった時には、次期領主の筆頭侍女になるという重責に、小さく震えている様子さえあったというのに。
見ていて不安を覚えたあの子が、今はわたくしに生意気を言うほど強くなった。結構なことです。
「ですが……相変わらず、イツキ様にもその調子ですか?」
わざと隠さずに呆れを表現してたずねると、ランはぐっと黙りこんだ。
わずかに俯いたその姿は、親に叱られて拗ねた子供である。
「ラン……」
良い年をして、まるきり幼いままの年下の女性に、呆れた声が出た。
「先輩、先輩、ちょっと、聞いてください。呆れる前に、わたしの話を、聞いてください」
聞いても呆れると思いますが、目をかけている後輩がそう言うのであれば、先輩として度量を見せねばなりません。
「いいでしょう。言ってご覧なさい」
「あの人と来たらですね」
ランの小さな手が、机の上で握りしめられる。
「あの人と来たら、食事に誘っても全然付き合ってくれないのです。いえ、お仕事なら、お仕事ならば仕方ありません。実際に忙しいですので、わたしとて無理に誘うほど卑しい女ではございません。ですが、お休みとあればやれジョルジュ卿と飲みだ軍の同期だ上官だ部下だと、先約がびっしり。ええあの方のことですから、机仕事の鬱憤晴らしに剣やら馬やらの話がしたいんでしょう。仕事で小うるさい女の相手などしたくもないと、ええ、ええ、そういうことなのでしょうね。それならそれで結構です。徹底的に仕事にうるさい女になってやりましょう、なってやりますとも」
怒涛の長台詞である。
まあ、彼女なりのアピールはしていると。それをすげなく、というか、まるっと相手に無視されている。
それはわかったような気がします。
ただ、出てくる結論が頂けません。
「あなた、そうやって意地を張って上手くいったことありますか?」
ランが、またぐっと黙りこんだ。
自覚があるようでなによりです。
昔から、妙な意地を張って、一人で泣きそうになっている子だった。ある程度は、環境のためにやむを得ないところもあったと思う。
彼女には姉がいて、家の方針として姉が優先された。
その姉のことを彼女自身も好きだから、色々と遠慮するところがあったのだろう。
だからといって、ただでさえその辺が鈍感な男に対して、照れ隠しにきつく当たるなどしても良い結果は出まい。
寮監を何度か務めればわかる。
好きな女子を相手に、不器用にきつく当たる男子の多いことときたら……。その場合、男子が想いを遂げた例をわたくしは知りません。
「男女に限らず、愛嬌は大事ですよ。人間関係を円滑にします。仕事以外のところでは特にです。甘味が人の心を癒すように、優しい態度も人を癒すのです」
「蜂蜜も辛くする、と言われるほどに厳しいリイン先輩が言うんですか、それ」
「お待ちなさい。誰がそんなことを言っているのですか?」
そんなもったいないことをわたくしがするわけがないでしょう。
せっかくの甘い蜂蜜を辛くしてどうするのです。まるで蜂蜜の意味がないではありませんか。
「誰もがと言いますか、少なくともわたしは言っています。先輩に優しくされた覚えがないですから」
「なにをとぼけたことを。可愛い後輩に優しくしていないわけがないでしょう?」
とっておきの干し柿を食べておいて、その口はなにを言うのか。ついさっき、その口を通った甘味を覚えていないとでも?
目を細くして見やると、ランがハッとした表情になった。
なにか、とてつもなくどうでもいいことに気づいたのだろう。
「先輩、わたしは先輩にお付き侍女のあれこれを教わりました。恩人と言っても過言ではありません。また侍女の先達として、テキパキと仕事をこなす完璧超人の先輩を尊敬しています」
「はい? ええ、ありがとうございます?」
「その恩人にして偉大な先輩から、わたしは愛嬌や優しさの類を感じたことがありません」
「おかしな話ですね」
「つまり、わたしに可愛げがないのは恩人先輩のせいなのでは?」
真面目な顔で訴えかけて来た後輩の額を、指で弾いてやった。
まったく、可愛い後輩だこと。




