言葉の軟膏
【灰の底 サリヴァンの断章】
わたしには自信があった。
「サリヴァンさんには、お薬を作って欲しいの」
村長夫人からそう言われた村人の、ごく当たり前の反応をした。
その自信が、すごく、あった。
「……………………………………?」
ぽかーん。
初めての人を見た赤ん坊のように、ひたすら口を開けて呆ける。
ユイカ様の言っていることがさっぱりわからない。言葉には出していないけれど、わたしの気持ちはすごくよく伝わったと思う。
ユイカ様が、仕方なさそうに苦笑している。
その顔を見てもまだしばらく呆けていると、じんわりと、ユイカ様がなにを言ったのか頭に染み入って来る。
「は? あの? おくすり?」
自分の聞き間違いではないか。内容をもう一度聞き返すと、頷きが返って来た。
「ええ、お薬よ」
「…………むり、です、よ?」
そんなもの作れるわけがないので、ありのままを普通に伝える。
当たり前の言葉のはずなのに、声にするととてつもなくぎこちなく響いた。
ユイカ様の表情は、困った苦笑のまま変わらない。ひょっとして、聞こえなかったのだろうか。
「あの、むり、ですよ? ほんとうに、むり」
念のため、言葉を重ねて伝える。さっきよりは、普通に言えたと思う。
一体全体、なにをどうして、わたしなんかに、学のない年寄りに、そんな話をしているのか。ユイカ様、なにか勘違いをしているのでは?
わたしは薬師でもないし、神官でもない。
農家の娘として生まれ、農家の夫に嫁ぎ、農家の息子と娘を育て、他村の農家に嫁・婿として送り出した、畑のことしか知らない女だ。
確かに、近頃は畑に出ることは少なくなった。
夫を亡くし、娘も息子もいなくなって、管理しきれなくなった我が家の畑を手放したのだ。
年も年であるため、余所様の畑の手伝いくらいしかしなくなったけれど、それでも農家の女なのだ。
薬のことなんて、精々、疲れている時に食べた方が良い物くらいしか知らない。蜂蜜とか、鳥出汁のスープとか、果実とか……。
あ、ユイカ様、ひょっとしてお疲れなのでは?
だから、わたしなんかに薬を作って欲しいなんて、突拍子もないことを……。あらあら、きっとそうなんだわ。
全て理解できたので、わたしはこの時季にぴったりの食べ物をお勧めする。
「ええと、ユイカ様、この季節だと野イチゴがまだ山の方で採れますから……」
「うん、落ち着いて。サリヴァンさんを戸惑わせてしまったことはよくわかりましたから、まずは、そう、落ち着いてください」
「あ、はい」
にっこりと綺麗な笑みを向けられて、わたしも釣られて笑いながら頷く。
ユイカ様がお疲れのように、わたしが戸惑っていることは確かだ。頭がまだちょっと、ぼーっとしている。
なんだかよくわからない、というよりも、なにもかもがよくわからない。
とりあえず、ユイカ様に促されて、出されたお茶を口にする。
このところ村で流行っているハーブティーだ。これはずいぶんとすっきりしていて、心地良い。
頭までさっぱりするようなお茶の味に和まされると、さっきユイカ様にかけられた言葉はなにかの間違いだったのだとはっきりとわかる。
お薬を作って欲しいではなくて、きっとなにかのお薬を使って欲しい、みたいな話だったんだろう。
それならばまだわかることよ。わたしはもう年だし、それにわたしがお世話しているマデルおじいさんはもっといい年だもの。そろそろ狼神様がお迎えに来てもおかしくない。
それを心配して、体調を崩した時は、きちんとお薬を使って欲しい。ユイカ様はそう言いたかったのだろう。
うん、そういう話ならば、なにもおかしくはない。
「すみません、ユイカ様。おかげさまで落ち着いたようです」
「そう、よかったわ。では、改めてお話をさせてもらうのだけれど」
「はい、お薬のことでしたね?」
きっとこの後、「使って欲しい」とユイカ様は答える。そのはずだ。
決して、「作って欲しい」と聞こえて来るはずがない。
わたしが信じて――祈る心地で見つめる先、ユイカ様の唇が動く。
「ええ、サリヴァンさんには、お薬を作って欲しいの」
「ええと、使って……?」
「いえ、作って、よ。つくってほしい、と言ったの」
聞き間違いでも、言い間違いでもないようだ。ちゃんと確認した結果、やっぱりユイカ様はお疲れなんだなと思った。
「……ユイカ様、この季節だと野イチゴがまだ山の方で」
「ええ、野イチゴはわたしも好きよ。サリヴァンさんもお好きなのかしら?」
「そうですね。甘い物に当たった時が嬉しくて」
「うんうん。わかるわ、甘い物は美味しいわよね」
世間話のなんてことなさに、ユイカ様と二人で笑い合う。
「それで、作って欲しいお薬なのだけれど」
「待ってくださいユイカ様ええとっそのっあれっ薬を作るの部分が間違っていないならきっと相手を間違えているんですね」
すごく早く舌が回った。こんなに早口になったのは久しぶりかもしれない。
夫が亡くなってからは喧嘩をすることもなく、息子と娘がいなくなってからは声を荒げて注意することもなくなったから、早口になる必要がなかった。
「わたし、サリヴァンです。農家の、少し前に畑も手放したサリヴァンですよ? 落ち穂拾いをしている、あのサリヴァンです。だから絶対にこれは間違いです」
「うーん? 大丈夫よ? ちゃんとサリヴァンさんが相手だからお話ししているのよ? 別に他の誰かと間違えてなんかいないわ?」
「なんでですかっ」
もうお話しするのが恐いんですけど!
胸の前で握った手がぶるぶる震え出す。
村長夫人から、ちょっとお願いしたいことがあるから、と呼ばれてやって来た村長家。村のちょっとした雑用だろうと思っていたのに、出て来た話がお薬の作成だなんて、おかしい。
おかしいと思わない農民はいない。絶対にいない。
「う~ん、とりあえずお話を続けると」
「え?」
「アッシュ君がアロエという植物の利用方法を調べてね」
「あの」
「それから傷薬を作れることを見つけて」
「……はい」
「その作り方を教えるからお薬を作って欲しいの」
「それは、だれ、に?」
「サリヴァンさんに、よ」
「それ、むりです、よ……ね?」
薬なんてそんな貴重な物、どうやってわたしなんかに作れって言うんですか?
普通の農民として、普通のことを、普通に伝える。わたしはこんなに普通なのに。
「いえ、それがね、とっても簡単な作り方で、台所仕事ができる人なら、誰でもできるみたいなの」
返って来る答えが、いつまで経っても普通になってくれない。
「そんなに難しく考えなくても平気よ。サリヴァンさん以外にも声をかけて、何人かで作ってもらう予定だから、もっと気楽に考えて?」
気楽になんて無理ですよぉ……。
だって、薬の作り方って薬師さんの秘伝でしょ? この村に薬師がいないくらい、貴重な物でしょ? 病気で困っている時に最後に頼りになるものが薬でしょぉ……!
「村長家としても村の発展に繋がりそうだから、支援は惜しまないつもりよ。薬の収入が出るまで時間はかかるはずだけれど、それまでは村長家が補償するから、生活面のことは心配いらないわ」
それってなんだかすごく大事じゃないですかー!
わたしなんかが、村長家のお世話になるなんて、恐れ多いというか、申し訳ないというか!
無理です。そんなのできません。わたしなんかより他の人を。何度もそう訴えたけれど、ユイカ様の言うことは変わらなかった。
「サリヴァンさんに、どうしても、お願いしたいの」
わたしにできるのは、考えさせてくださいと、そう言ってなんとか先延ばしにすることくらいだった。
明日になったら、ユイカ様の気持ちが変わっていたりしないだろうか。
****
ユイカ様のお話を聞いて、頭が重くなったような気になりながら、ふらふらと夕暮れの村を歩く。
自分の家に帰る前に、今日も山を見ているだろうマデルおじいさんを迎えに行かなければならない。それが、畑を持たなくなったわたしの、村での仕事だ。
村の北にある丘、お決まりの石に腰かけたいつもの影が、こっくりこっくりと揺れている。
「ああ、いたいた。マデルおじいさん、そろそろ家に戻りましょ?」
「んん?」
西日でできた影法師が振り返る。
白いヒゲと深いシワを一杯に蓄えた顔が、眠たそうに笑った。
「おお、もうそんな時間か」
どれくらい寝ていたのか、マデルおじいさんはきょろきょろと周囲を見て、過ぎていた時間を確かめて、杖を支えに立ち上がる。
「いつもすまんの、サリヴァンさん」
「いえいえ、マデルおじいさんにはお世話になっていますから」
「いやいや、すまんの」
何度も「すまんの」と言われながら、杖とは反対の手を取って歩き出す。
マデルおじいさんの、もう早くは歩けない足に合わせて、ゆっくりと。
「今日は温かくて、良い日和でしたね」
「そうじゃの。明日もこんなもんじゃろ」
「じゃあ、明日もお散歩ですね」
「んむ。明後日辺りは怪しい気がするの。それからしばらく、何日かは散歩ができんかもなぁ」
ということは、明後日からしばらくは雨が多いみたい。急ぎの畑の仕事があるなら、明日のうちにやってしまった方が良いかもしれない。
そこまで考えて、もう自分の畑はないことを思い出す。
今のわたしの仕事は、マデルおじいさんのお世話と、その天気当ての言葉を村中に伝えることだった。
わたしもそうだけど、マデルおじいさんももう畑には出られない。
おじいさんは、竜鳴山脈の山々が一番よく見えるあの丘から、明日の天気を当てることが仕事になっている。
簡単にも見えるその仕事は、この村にとってはとても大事なことだ。それは、夕暮れの村を歩いていると、マデルおじいさんにかけられる言葉によってわかる。
「お、マデルのじっちゃん! なあ、ひょっとして明日から天気が崩れるんじゃないか?」
「ん~? 明後日なら雨が降りそうじゃよ。明日はまだ大丈夫じゃろ」
「おう、そうかそうか。じっちゃんが言うならそっちの方が合ってるんだろうな」
声をかけて来た農家仲間のラズモアさんに、付け加えてその後数日は雨が降るようだと伝える。
「やっぱりか、そろそろ長雨になるんじゃないかと思ったんだ。畑の水はけを確認するよう、他のにも伝えねえとな。あとは、作業が遅れてる奴を手伝ってやらねえと。ターニャちゃんなんか、夏の作業がまだ終わってないだろうし」
ラズモアさんの言葉に、間違いないと頷く。
養蜂家の両親が亡くなってから小さな畑を持ったあの家は、農家として色々と拙い。
それに、ターニャちゃんは力が強い方ではないし、ジキル君はまだ小さい。あの子達には周囲の助けが必要だ。
他にも、そういう家はある。
「あと、ブリジットさんのところも遅れていると思うから、よかったら気を付けてあげて。それと、グラシエラちゃんのところも、ひょっとしたら今年は遅れているんじゃないかしら?」
ブリジットさんは、夫を亡くしてから、子供を育てながら畑仕事もしている。
もちろん、周囲も気を遣って手助けをしてはいるが、それでも力の強い男手がない以上、作業は遅れがちだろう。
グラシエラちゃんの家は、長男が病気で伏せって手が足りないはずだ。
お父さんはまだ元気だけれど、お兄さんと二人でやっていた畑を父親一人で回すのは厳しい。グラシエラちゃんも手伝いをがんばっているけれど、あの子は元々亡くなった母親代わりで忙しかったから、畑の仕事が遅れているんじゃないかしら。
「ああ、グラシエラちゃんのところか! そういや、親父さんが飲みにここんとこ顔出してねえ……こりゃあそこも遅れてるんだ。教えてくれて助かったよ、サリヴァンさん」
「いえ、わたしももっと畑を手伝えればいいんだけど……」
もう少し若ければ、こんなぎりぎりにならないようにあの子達を手伝えたはずだ。
自分の畑を持っていないのだから、そうしなければならない立場だったのに。
「ごめんなさいね」
漏れた詫びの言葉に、ラズモアさんがバタバタと手を振る。
「ええ!? なんも悪いことねえのに! 俺等みたいながさつな連中が気の付かないところを教えてもらって、ほんっと助かってんだ。ありがとな、これからも色々言ってくれ!」
「いえ、これくらいしかできなくて。本当にごめんなさいね」
「いやいや、サリヴァンさんには昔からお世話になってるんで、ほんっと、なんも、そんな! 気にしないでくれよ!」
ラズモアさんは困った風に笑ってから、明日の畑仕事を話し合わなくちゃと走って行く。
これで、明後日からの雨についても村中に伝わるだろう。わたしの仕事は、ほとんどなにもしないうちに終わってしまった。
「それじゃ、マデルおじいさん、帰りましょうか? そしたら、夕飯を温め直して持っていきますからね」
「んむ、いつもすまんの」
「いいんですよ、マデルおじいさんにはお世話になっているんですから」
「いやいや、すまんの」
さっき、ラズモアさんとしていた会話と同じことを、マデルおじいさんと繰り返す。
ラズモアさんの時とは、立場が変わっている。わたしが謝る側か、謝られる側か。
少しずつ、少しずつ、謝ることが多くなっている。
それは、できることが少なくなっているせいなんだろう。謝る度に、じりじりとどこかがひび割れていくのを感じる。
これが、わたしの日常。
いつもと違うことと言えば、ユイカ様のお願いが頭にあることくらいだ。
薬を作るなんて難しそうなこと、こんな弱い年寄りに任せようなんて、あの人はなにを考えているのだろうか。
****
悩みがあっても、あっという間に日は明ける。
こんなに早く明日が来るなら、ユイカ様の気持ちが変わっていることはなさそう。
そんなことを思いながら、早朝の井戸に足を運ぶ。なにはともあれ、今日使う分の水を家に持ち帰らなければご飯の用意だってできない。
少し早い時間だから、井戸端で話しこむ人達もいない中、ロープを引いて水が一杯に入った桶を引き上げる。
重い。年々、この桶が、水が重たくなっているように感じる。
掌に食いこむ縄が痛い。手首や肩の痛みもひどい。腰は痛いというより息が詰まる。
その痛みに、あと何年これができるだろうかと、そう思ってしまう。
これができなくなれば、また謝ることが一つ増えるのだろう。
歯を食い縛って、ゆっくりと桶を引っ張り上げていくと、ロープに自分ではない手が添えられた。
「手伝います、サリヴァンさん!」
明るく元気の良い声と一緒に、ロープの先の桶が軽くなる。
目を向ければ、よいしょよいしょと声を上げてロープを手繰っているのはブリジットさんだった。
びっくりしたけれど、ぼうっとしている暇はない。ブリジットさん一人に負担をかけるわけにはいかない。慌てて力を入れ直して、ロープを引っ張る。
「よいしょー! はい、一杯目!」
一人の時よりずっと早く上がって来た桶を、ブリジットさんが水瓶に入れてくれる。
「サリヴァンさんってマデルおじいちゃんの分も水が必要なんですよね? 一人じゃ大変! あたしも手伝うから、どんどん行きましょー!」
にかっと笑いながら、ブリジットさんが桶を井戸の中に放り投げる。
「い、いえ、そんな、悪いわ。ブリジットさんだって大変でしょ? 畑のことだってあるんだから、力は取っておかないと」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ! あたし、元気だけが取り柄なんで! さあさあ、ぱっぱと水汲み終わらせないと、うちのチビが起きて来ちゃうんで! サリヴァンさんも手伝ってください!」
手伝うもなにも、これはわたしが必要な水だ。
もちろん、自分の分が終わったら、ブリジットさんの水汲みを手伝うつもりはある。けど、どう考えても自分の方が力は弱くて、ブリジットさんの方が疲れてしまう。
断りたいのに、ブリジットさんはよいしょよいしょとロープを再び引っ張り出す。わたしは、慌てて一緒になって力をこめるしかない。
「はいっ、おしまいっ!」
結局、全部を手伝ってもらってしまった。
正直に言うと、助かった。すごく、助かった。
いつもはもっと時間がかかるし、終わった後にちょっと休憩をしないと動けないくらい大変なのが、今日はまだまだ余裕がある。
「ご、ごめんなさいね、面倒をかけてしまって」
「い~え~、こんなの全然平気だもの、これくらいならいくらでもしちゃいます! あ、本当にいくらでもは無理だけど、あはは!」
額の汗を拭ってブリジットさんはからから笑う。
「ていうか、サリヴァンさんにはお礼したかったの。水汲みの時間がかぶってよかった~」
お礼? なにかあったかしら。首を傾げると、ブリジットさんは、やだもう、と笑う。
「畑の手伝い、うちに来てくれるようにお願いしてくれたって聞いたの。やぁ、流石に明日からしばらく雨降るかもってなると、畑の仕事が終わらないから助かるのなんの!」
「ああ、それは……ええ、話はしたけど、わたしが言わなくてもブリジットさんのところに手伝いは行ったはずよ。だから、わたしのことなんて気にしないでいいのに」
「いえっ! サリヴァンさんにはいつも色々と気遣いをしてもらってるので、その色々をまとめてのお礼ですから!」
ブリジットさんは、にかっと笑って、彼女らしい素敵な笑顔で頭を下げる。
「ありがとうございます!」
「いいのよ。本当に、わたしのことなんていいの。それより、水汲みをしないとね。お子さんが、お母さんがいないって泣いてしまうでしょ」
子供が寝ているうちに出て来たのだろう。目が覚めた時に母親がいないと子供はとても不安になるものだ。
そう言うと、ブリジットさんは、そうだったと顔色を変えた。
「そうだった、急がないと! うちのチビは泣き虫なんだから、もう!」
「それだけお母さんのことが好きなのよ」
「えーっ、そうだと嬉しいんだけど、だったらもうちょっとお母さんを楽させてくれたら良いのに! 昨日もご飯を食べさせるだけで一苦労でー!」
すぐに苦労話が出て来るということは、ブリジットさんも色々と溜めこんでいるみたいだ。こういう時は話を聞いてあげるだけでも楽になれるもの、年上として笑って付き合う。
「ふふふ、わたしも覚えがある話、子育ての苦労は皆一緒ね」
「そーですか? なんか、シェバさんは子育て楽だったって聞きました」
「あー……。ええと、あそこは、そうね、不思議と楽だったって聞くけど……。でもほら、ユイカ様でも大変だって話は聞くし」
「ユイカ様! あの人で大変なら、あたしとか大変なのは当たり前って感じがしますね!」
「ええ、そうよ。子育ては大変なことだから、なにかあったら周りに相談して良いの。わたしも経験はあるから、声をかけてくれると嬉しいわ」
「わー! サリヴァンさんに相談できるの頼もしい! ありがとうございます!」
「いいのよ、これくらいしかできないもの」
笑って話をしながら、水汲みを繰り返す。
二人でやったおかげか、それとも話が盛り上がり過ぎたせいか、あっという間だった。
****
作った朝ごはんをマデルおじいさんと一緒に食べて、いつもの「すまんの」「いえいえ」というやり取りの後、おじいさんの洗濯物を回収して自分の家に戻る。
洗濯のため、灰を水につけて灰汁を取っておいた桶に手を伸ばして、ふと気づく。
そういえば、あの子達――ブリジットさんに、グラシエラちゃん、ターニャちゃん――は、今日は洗濯をしている暇があるかしら。
……多分、ない。
明日から雨、というマデルおじいさんの予想を受けて、今日はできる限りの時間を畑に使うはずだ。
どの子も真面目だもの、他の村の人達に手伝ってもらう以上、自分達も精一杯にがんばろうとする姿が思い浮かぶ。
「お洗濯くらいなら、わたしも手伝えるわね」
畑仕事もほんのちょっとなら手伝えるだろうけど、きっとそれよりは、家事周りを手伝った方が今の自分は役に立つ。
もう少し若ければ、と思いながら、一度洗濯は取りやめて、それぞれに声がけに向かう。
少しは役に立たないと。そう思って急ぎ足で歩く途中、はたと思い至る。
皆の分をまとめて洗濯するのは、いくらなんでも大変すぎる、と。
一人でやるにはきつい作業量だ。いや、もう少し若ければ、そこまで無茶とは思わなかったに違いない。やはり、年を取ってできることが少なくなっている。
大人しく、自分とマデルおじいさんの分だけの洗濯で済ませようかとも考えるけど、空を見上げれば、それはいくらなんでも薄情に思える。
「明日から雨になったら、しばらくは洗濯しても服が乾かないもの、今日が最後の洗濯日なのよ」
やるべきだ。そう思ってしまったから、覚悟を決めてやるしかない。
再び足を動かして、グラシエラちゃんの家のドアをノックする。
「は、は~い! ちょっと待ってくださ~い!」
「あ、大丈夫よ、ゆっくりで大丈夫だから! 急ぎの用とかじゃないから!」
慌てて動き出した物音を感じて、大きな声でそんな必要がないことを伝える。
少しほっとした調子で、「は~い」という返事があって、こちらもほっとする。
「お、おまたせ、しました! あの、ええと? サリヴァンさん?」
少ししてドアを開けたのは、グラシエラちゃんだ。どれだけ慌てたのか、まだ若いというのに髪が乱れているので、手で撫でつける。
「忙しいところ、ごめんなさいね。でも、今日は忙しいだろうから、よかったら洗濯物を預かろうかと思って」
「洗濯物、ですか?」
「ええ。マデルおじいさんの言う通り、明日から雨が降ったら、しばらく洗濯をしても乾かない日が続くでしょう?」
グラシエラちゃんが、あっ、と悲鳴を上げた。
どうやら、洗濯物については思い至らなかったらしい。それもしょうがない。
病気の兄の看病をしながら、弟妹の面倒を見て、父の畑の仕事まで手伝おうとすれば、それは毎日一杯一杯だろう。
「うん、洗濯物を預かるわ。あるだけ出して頂戴?」
「いえ、でも、あの、そんな、サリヴァンさんに迷惑なんじゃ……いえ、はっきり迷惑ですよね!?」
「迷惑だと思っていたら、初めから声をかけないでしょう? こういう時は助け合いよ」
自分が若い頃も、こうやって年長者に助けてもらった。若者が遠慮することなんてないのに、グラシエラちゃんは若いのにしっかりしている。
それだけ苦労しているのだとも思う。
「ほら、時間がないわ。洗濯物はわたしに任せて、今日やることは他にもたくさんあるでしょ?」
「サリヴァンさんの言う通りです……。その、洗濯のことなんかすっかり忘れてて、ほんとに今日は余裕がないので……その、お願いしても、いいですか?」
「もちろん。わたしは畑仕事ではもうそんなに役に立てないから、これくらいはさせてね」
「あ、ありがとうございます! すぐっ、すぐに持って来ます!」
「慌てなくてもちゃんと待っているから、大丈夫だからね?」
ありがとうございま~す、と元気な声を上げながら、家の中へ戻って行く。
良い子だ。猿神様も、こんな気立ての良い子、もっと楽をさせてあげればいいのに。
恐れ多くもそう思ってしまうけど、神様に頼る前に、自分達がもう少しがんばるべきなんだろう。あんまりやる気のないフォルケ神官の説法に、そんな言葉があった。
大きな籠を持ったグラシエラちゃんが、パタパタとやって来る。
うん、流石に家族が多いから洗い物も多い。うちに夫がいて、息子がいて、娘がいた時は、これくらいはあったものだ。
懐かしい記憶に思わず笑うと、グラシエラちゃんは自分の腕の中の物を見て、しまった、という顔になる。グラシエラちゃんの家にとっては普通の量でも、人にお願いするには多すぎると思ったのだろう。
「あの! あの、この半分くらい、お願いしても……?」
本当に可愛らしい子だ。大丈夫、わたしにとってもそれは、普通だった量だ。
「半分だと、雨が長引いたら着る物がなくなるかもしれないでしょ? 全部持っていくから」
「うぅ、ありがとうございます~!」
「いいえ。これくらいしかできなくて、ごめんなさいね」
「いえっ! いえ、本当に! 助かりました! ありがとうございます!」
さて、次はターニャちゃんのところね。あそこは二人暮らしだから、そんなに量は……。
あら、でも遊び盛りのジキル君がいるものね。思ったより多いかもしれない。
****
思った通り、ターニャちゃんのところの洗濯物は、思ったよりも多かった。ジキル君も元気が良いものね。
山盛りの籠を抱えて歩いていると、子供達がサミーちゃんに連れられて歩いて来る。
多分、親達が一日中畑仕事にかかりきりになるとわかっているので、子供を集めて面倒を見させることになったのだろう。
わたしの大荷物に、年長の何人かが、お洗濯か~、という顔になる。
お手伝いをさせられたことのある子達だと思う。息子や娘の小さい頃とそっくり。
そして、その子達とは少し違って、なんだそれ、という顔をしたのはアッシュ君だ。
ルカちゃんの手を握って、反対側にそわそわした様子のマイカちゃんがくっついて、なんだか忙しそうだけれど、歩み寄って来て首を傾げる。
「すごい量ですね。どうかしたんですか、サリヴァンさん?」
「うん、ちょっとこれからお洗濯にね」
「ええ、それはわかるんですけど……その量、サリヴァンさんのところの洗濯物でしょうか? 多すぎませんか?」
「あら、よくわかったわねぇ?」
賢い子だと評判ではあるけれど、こんなことまで気づくとは思わなかった。
「これはターニャちゃんのところのなの」
籠を軽く掲げて示すと、今度「なんで?」と首を傾げたのはマイカちゃんだ。アッシュ君の方は、納得がいったという風に頷く。
「サミーさんと同じと言うわけですね」
「んん? サミー姉がどうしたの?」
「皆さんが畑にかかりきりなので、サリヴァンさんが畑以外のお仕事を引き受けてくださっている、ということですよ。ありがたいことですね」
本当にアッシュ君は頭が良い。なにも言っていないのに、すぐにそこまで考えが至るんだから。
「わたしにできることはこれくらいだもの。サミーちゃんも自分にできることをしているんだから、それと一緒ね」
「素晴らしいですね! できることをできる人がやる! あ、重い荷物を持ったまま立ち話もつらいでしょう。洗い場まで運びましょう」
「あら、大丈夫よ。確かに年は取ったけど、運ぶくらい平気だから。サミーちゃんもアッシュ君がついて来ないと大変でしょう?」
アッシュ君は聞き分けが良いし、小さい子達や大人しい子達に人気だと聞く。マイカちゃんもルカちゃんもべったりだし、子供の面倒を見る側なのははっきりとわかる。
今も、元気の良い子供達に引きずられて先に行っているサミーちゃんが、ちらちらと振り返っては、アッシュ君に早く追いついて欲しそうに見ている。
サミーちゃんと同じように振り返ったり、立ち止まったりしているのは、多分、アッシュ君と遊びたい子供達なんだろう。
「そうですね、サミーさんのフォローもしたいところなのですが……。あ、お洗濯を皆ですれば良いのでは?」
え、と声を上げたのは、マイカちゃん。
「お洗濯、するの?」
「洗濯にはお水を使いますし、実質水遊びですよ。ほら、暑い季節ですし、丁度良いですね。水遊びできる貴重な機会を逃してはいけません」
洗濯という力仕事を、遊びという子供を初めて見た。大人を含めたってもちろん初めてだ。
普通、洗濯なんて仕方なくやるもので、楽しみなんてどこにもない。
そんなことをわたしと、マイカちゃんは言いたかったんだと思う。ルカちゃんはどうだろうか。まだお洗濯の手伝いはしてないかしら?
けど、アッシュ君はそんなこと思いつきもしない、という笑顔だ。
「汚れた布を綺麗にする遊びですね。上手に遊べたら気分が良いですね。ついでにお水をちゃぷちゃぷさせて涼みましょう。サミーさーん、ちょっと今日は水遊びしませんかー!?」
笑顔のまま、アッシュ君がサミーちゃんの方へと走り出す。
「あっ、アッシュ君!? 待ってー!」
「あっ、アッシュ兄、待ってー!」
マイカちゃんとルカちゃんも、アッシュ君と離れたくないとばかりに走り出す。その二人にアッシュ君は振り返って、
「サリヴァンさんは先に行っててくださいね! すぐにサミーさんに許可を取って数を揃えて手伝いに行きますからー!」
違った。マイカちゃんとルカちゃんを振り返ったんじゃなくて、わたしに声をかけただけだった。
結果から言うと、アッシュ君のおかげでとても助かった。
ターニャちゃんの家の物だけでなく、グラシエラちゃんと、ブリジットさんの家の分の洗い物が山盛りになった様子を見て、アッシュ君はにこにこと笑顔で聞いて来た。
「これ、サリヴァンさんお一人でやるつもりだったんですか? 本気で?」
最後の問いかけの部分は、アッシュ君の笑顔も引っ込んでいたし、すぐに飽きる子供達をなだめながら洗い物を全部終えた後は、竜鳴山脈を見るマデルおじいさんそっくりの遠い目をしていた。
やっぱり、この子も普通の子と一緒で、この量をやるのは嫌だったのねと、なにも言わなくてもわかる目をしていた。
「ごめんなさいね、大変なことに巻き込んでしまって」
「これを一人でやる方が大変でしょう。手がボロボロになってしまいますよ」
そう言いながら、アッシュ君は自分の手をさする。大勢の手で替わりばんこに洗ったのに、十分にボロボロだ。
もちろん、わたしも。
「それは仕方ないわ。皆、畑で忙しくしているんだもの。わたしだってこれくらいはしないと」
「それは、まあ、そうですね……。畑仕事で手が荒れるか、水仕事で手が荒れるか、両方かですもんね」
「アッシュ君は、本当にお利口さんね。お母さんもいつも喜んでいるでしょうね」
そうだと良いですけど、とアッシュ君は少し恥ずかしそうだった。
そういう顔をすると、お父さんのダビドさんとよく似ている。似てない似てないとからかわれることも多いダビドさんだけれど、やっぱり親子なのよね。
微笑ましく見ていると、アッシュ君がなにやらポケットに手を入れて、葉っぱの包みを掲げる。
「こんなこともあろうかと!」
……よくわからないけれど、今アッシュ君がとても子供っぽく見えた。
いえ、元々子供なんだけど、すごく子供っぽく見えた気がする。騎士ごっこをする子供に似ていたんだけれど、なんでかしら。
「ええと?」
困ってしまって、それだけ言うと、アッシュ君はにっこりと笑う。
「サリヴァンさんも手が荒れてしまいましたよね? これ、それを少しはマシにするお薬なんです。ひょっとしたら、人によっては合わなくて悪くなってしまう可能性もあるんですけど、どうです?」
どうです、と聞かれても、ちょっとよくわからない。
いや、すごくよくわからない。
ただ、ユイカ様が言っていた、アッシュ君のお薬ってこれなんだというのはわかった。ユイカ様がわたしに作って欲しいという、とんでもない話の種。
ちょっと恨めしさを乗せてまじまじと見ていると、アッシュ君がうんうん頷く。
「興味ありますか? ありますよね? ええ、興味を持ってくれて嬉しいです。さあ、お手をどうぞ」
全然わたしの気持ちは伝わっていないみたい。でも、子供ってそういうものよね。やっぱり、アッシュ君も子供なのだと、言われるまんま手を差し出す。
昔、息子や娘の遊びにもこうして付き合うことはあった。
もっと昔、夫と遊んでいた時も。
「これはアロエ軟膏と言いまして、傷薬として本に書いてあったものなんですよ。肌荒れも傷ですからね。今のところ、使った人はよく効くと言ってくれます」
まあ、その昔は、こんな風に変な言葉遣いの子はいなかったけれど。
小さな手で、洗い物で荒れた手に薬を塗られる。ちょっと粘ついているのは気持ち悪いけど、なんだか効果はありそうな気がする。
「今、ユイカさんはこれを村の特産品にしようとしているみたいです。村を豊かにするためですね。そのための人を集めると聞きました」
「え、ええ、そうね」
「作り方は割と簡単なんですけど、初めての試みですからね。色々と大変なこともあると思います」
「……そうね」
やっぱり、大変なんだろう。お薬なんて作るのだから、当たり前のことだ。
わたしには荷が重い。
「サリヴァンさんのように、落ち着いていて気の回る人が係わってくれたら、安心できるのですが」
「そう、かしら?」
疑問一杯で首を傾げたら、そうですよ、と自信たっぷりに頷かれてしまった。
「私も安心できますし、ユイカさんも安心できるでしょう。一緒に軟膏を作る人達は、それ以上に安心できます」
なんでわたしのことなのに、アッシュ君の方が自信あるように見えるのか、とても不思議だ。
どう答えたものか戸惑っていると、疲れた顔でぐったりしていたマイカちゃんが、手を取られるわたしを見つけて急に元気になった。
「あーっ、アッシュ君! あたしも、あたしも!」
勢い込む女の子に、はいはいと優しく笑う男の子。
その光景を見ると、アッシュ君への疑問も、ユイカ様の話への不安も、春の雪のように溶けていく。
二人の姿が、若い頃の自分と夫を思い出させるせいだろう。
こんなに夫に甘えられたつもりもないし、夫もこんなに飄々としていたわけではないけれど、確かに自分の人生の、春の季節がそこにはあった。
「もう年老いたけれど、もう少し、がんばれるかしら」
この村の、新しい春のために。
****
マデルおじいさんの言った通りに、雨は降り出した。
危険を感じるほど強く降るわけではないが、竜鳴山脈に分厚くのしかかる雲を見れば、しばらく降るという言葉も当たりそうだ。
そんな日は、家の外での仕事がなくなるので、村も少しばかり暇ができる。
ユイカ様が、もう一度話をしたいとわたしを呼んだのは、そういう落ち着いた日だった。
「雨の中、足を運んでくれてありがとう。村長夫人として、感謝します」
ユイカ様が頭を下げたのは、わたしだけではない。
ターニャちゃんとブリジットさんもいる。二人とも、ユイカ様にいつもよりずっと丁寧な挨拶をもらって戸惑っている。
こういう時は、年長者らしくわたしが前に出るべき、かしら。
「いえ、ユイカ様にはいつもよくしてもらっていますから、必要な時には呼んでくださいな」
「ありがとう、サリヴァンさん」
どうやら、わたしが声をかけたのは間違っていなかったらしく、ユイカ様がにっこり、ターニャちゃんとブリジットさんも釣られたのかほっと微笑む。
「それで、なんだけれど……今日来てもらったのは、皆さんにお願いしたいことあるからなの」
当然、アッシュ君が作ったという薬のことだろう、と思っていたわたしと違って、他の二人は不思議そうな顔をしている。
ひょっとして、事前に話をもらったのはわたしだけなんだろうか。
どういうことなのか、聞きたい気がしたけれど、笑顔のユイカ様と目が合うと口が開かない。
よろしくお願いね、と言われている気がする。なにをよろしくなのかはわからないのだけれど、今は黙って聞いて欲しい、ということの気がする……。
そのまま、ユイカ様は新しい仕事を作って、売り物を増やして、村を豊かにしたい。そのためにお薬を作って欲しいと、前にわたしが聞いたものと同じ説明をする。
ターニャちゃんとブリジットさんの反応も、前のわたしとほとんど変わらない。
しばらく、ぽかーんとした後、二人は顔を見合わせ、わたしの方に視線を向けて来る。
「わたしを見られても、ええと、困るわ……?」
「だ、だって、サリヴァンさんがすごく落ち着いているんですもん! いきなりこんなこと言われたら普通びっくりしちゃいません!? しちゃいますよ! しちゃいました!」
ブリジットさんがあたふたと手振りを交えながら、わかりやすく慌てている。ターニャちゃんも、こくこくと頷いて、自分も同じだと訴える。
「お薬なんて、作ったことも、作り方も知らないもののことを、いきなりこんな……。一体どうしたらいいのか……こうして考えても、全然わからなくって」
「う、ううん? まあ、そう、かしら?」
どう答えたものか。迷ってちらちらとユイカ様を見るけど、にっこりと綺麗な笑顔で見守るばかり。
ええ、困っている二人を助けてあげないの? わたし? わたしがするの?
「ま、まあ、とにかく、二人とも落ち着いて、ね? ユイカ様が言うんだから、わたし達にもできること……なん、ですよね?」
必死に絞り出した返事に、ユイカ様がもちろんと頷く。
「お料理ができるなら、お願いするお薬も作れるわ。最初はちゃんと説明をして、練習をする機会も設けるから、なにも心配しないで。問題があったらわたしが対処します」
「ユイカ様がここまで言うのだから、きっと大丈夫よね」
自分にも言い聞かせつつ、二人に笑いかける。
あら? なんで、わたしが説得する側に回っているのかしら? 自分の立っている場所が、なんとなくおかしい気がする。
わたしが戸惑っているうちに、ターニャちゃんが、ええとええとと迷いながら尋ねる。
「あの、そのですね……お薬を作るのが、思ったより簡単でも、それをするだけの時間が取れるかどうか……」
「あっ、そうね、そもそもそこね! ユイカ様、ターニャちゃんの言う通り、あたしも子供の面倒を見ながら、畑の手入れをするので手一杯なんですけど……」
「ええ、そこが大事なの。二人とも、今の状態で畑仕事は厳しくないかしら?」
つい先日、村全体で遅れていた畑仕事を手伝ってもらった二人は、大丈夫、とは言えない。
申し訳なさそうに肩をすくめる二人に、ユイカ様は優しく笑う。
「だから、このお話をお願いしたいの。畑仕事よりも、このお薬を作る方が皆さんの生活に向いた仕事になると思うわ。畑仕事よりも時間に融通が利くし、力もそれほどいらないもの」
確かに、ターニャちゃんとブリジットさんには向いた仕事と言える。
ターニャちゃんは畑仕事にまだまだ慣れていないけど、家事はきちんとできる。
ブリジットさんも、子供の面倒もあるので、家にいられる時間が長い方が良い。
それに、やっぱり男手がないと力仕事で困ることが多い。
「ターニャちゃんも、ブリジットさんも、このお話を受けてみたらどうかしら? とても良い話だと思うけれど……。あ、ユイカ様、このお話を受ければ、畑仕事をしなくても、その、食べていく心配は……?」
「もちろん、村としてお願いするお仕事だから、生活に十分な収入は約束するわ。このお薬を実家の方に送ったのだけれど、評判が良かったの! 村の大きな収入源になるから、畑を辞めても困るようなことには絶対にしないわ」
ユイカ様が拳を握って嬉しそうに話す。
いつも落ち着いた微笑みを浮かべているユイカ様には珍しい、はしゃいだ様子だ。可愛らしい、と思う一方で、不安が過ぎる。
これは、ユイカ様がはしゃぐほど大事なんだ。
しかも実家って言った? 実家? ユイカ様の実家って、領主様のお宅でしたでございません!?
ああ、このことに気づいたらターニャちゃんとブリジットさんがどういう反応をするか。
「あれ……ユイカ様の実家って……」
ターニャちゃんが気づいてしまった。
「え? なに、どうかしたの、ターニャちゃん?」
「えっとぉ、つまり、このお薬って……」
「とってもよく売れると言うことよ」
ターニャちゃんの言葉を潰して、ユイカ様が笑うと、ブリジットさんも、なるほどーと笑い返す。
「とっても作るのが簡単でもあるのよ」
「なるほど、なるほど」
「しかも、皆さんの生活に合ったお仕事だと思うの。ブリジットさんは、お子さんの面倒を見る時間が増やせるんじゃないかしら」
「あー、それは良いですね! うちのチビは寂しがり屋なんですよー!」
でも、とブリジットさんが頭をかく。
「ちゃんとできますかね? 簡単って言っても、やっぱりお薬って難しそうです。あたし、そそっかしいところあるし……」
「なにか不安があったら、一人で抱えないで良いのよ。わたしに相談してくれて良いし、皆さんで助け合うこともできるんだから。ねえ?」
にっこりと笑ったユイカ様が、わたしを見る。どうして、と思っていると、ブリジットさんが目を輝かせる。
「ああ、サリヴァンさんがいてくれるなら安心です!」
ブリジットさんが、ターニャちゃんにも「そうだよね」と問いかけると、こくこくと頷かれる。
「はい、サリヴァンさんみたいに落ち着いた方が一緒なら、なんとか……」
ええと? あら? あらあら?
戸惑ったわたしから、疑問が出る前に、ユイカ様が手を叩いた。
「はい。そういうことだから、三人にはお薬を作ってもらうお仕事をお願いするということで、よろしいですね」
ブリジットさんとターニャちゃんが先に頷いてしまった。
返事が遅れたわたしに、ブリジットさんの安心した顔と、ターニャちゃんのちょっと不安そうな顔、それからユイカ様の一仕事終えたさっぱりした顔が集中する。
「は、はい……がんばります、ね?」
元から、聞かれたらそう答えるつもりだった。やってみようという気にはなっていた。
うん、でも、なんというか、やってみようという自分の考えとは別に、こうなってしまった気がして、言葉が上手く出なかった。
****
数日後、都合を合わせて、薬の作り方を習うことになった。
アッシュ君が作ったらしい、アロエ軟膏というお薬は、確かに作るのは簡単だった。
台所仕事ができれば大丈夫、お料理ができれば大丈夫、繰り返しユイカ様が言っていたことだけれど、本当にその通りだとはびっくりする。
ちょっと難しいと思うところは、材料の量をしっかりと合わせる必要があることくらいだろうか。
それとて、慣れて来ればいつもの料理と同様、自然とできるようになるだろう。
「うわぁあい!? ネバってしてるぅ!?」
「落ち着いて。そうなるって言われてたでしょ? それで大丈夫だから。ブリジットさん? ブリジットさん? 聞いて、ねえ?」
「ええとぉ……? 脂を火で溶かした後はぁ……」
「ターニャちゃん、脂がもう溶けてるわ。考え事をするならお鍋を火から離してからしましょう。危ないから、ほら、お鍋を上げて」
この子達もすぐに慣れて来るはずだ。……多分。
「サリヴァンさんは素晴らしい采配でしたね、ユイカさん。見てください、あの包容力に溢れる華麗なフォロー。まさにベテランの貫禄、若者には出せませんよ」
「わたしの目に狂いはなかったわね、安心して見ていられるわ。これほどの人材に断られそうな時はどうしようかと……アッシュ君が機転を利かせてくれてよかったわ」
「丁度良いところでお会いしたので、少しでもどんなお仕事か知ってもらえればと思っただけですよ。知らない物より、知っている物の方が受け入れやすいものです」
「アッシュ君は流石ねぇ、そんな根回しまでできるなんて……」
「たまたまですよ、たまたま。良いタイミングでした」
アッシュ君とユイカ様の笑い声が聞こえる。
楽しそうで良いのだけど、もうちょっと手伝って欲しい。まあ、丁寧に説明して一回作って、今度は自分達だけで作ってみてという二回目なのだから、正しい対応ではある。
でも、ユイカ様、アッシュ君とお話してばかりだから、マイカちゃんが頬っぺたをぱんぱんに膨らませてますよ?
結局、少しばたばたはしたけれど、順調にお薬は作り終わって、これなら大丈夫かしら、と確認してお開きになった。
……なったというか、させられたというか。
ターニャちゃんをアッシュ君が連れて行ってしまったから、その後にやることがあってもお話しできなくなったのだ。
ターニャちゃんのお家が持っている本がどうの、お母さんが似ている薬を作っていたのがどうの、なんかそんなことを言っていた。
アッシュ君もちょっとはしゃいでいたみたいだけれど、あの子のことだもの、明日になれば落ち着いたいつも通りの姿になっているでしょう。
そう思っていた翌日、ユイカ様に呼び出された。
「それがね、ターニャちゃんは養蜂のお仕事をしたい、というお話になってね?」
悪いことではないのだけど、困ってしまった。そんな微妙な笑顔で、ユイカ様が説明する。
「村としても、養蜂ができる人がいるのは良いことだから、本人も希望していて、アッシュ君も是非やりましょうと言うから、応援することにしたいのだけど……サリヴァンさんはどう思います?」
「ええ? ええと、よく、わかりませんけど……ターニャちゃんがやりたいって言うなら? それで良いんじゃないでしょうか? いえ、一晩でなにがあったのか本当にわかりませんけど?」
ご両親が養蜂をしていたのだから、ターニャちゃんが養蜂をしたい、と希望するのはおかしなことではない。
ただ、一日でどうしてそういう話になったのかは本当にわからない。
アッシュ君は、どんな話をしたのかしら……。
「そう? サリヴァンさんにもそう言ってもらえると助かるわ」
「は、はぁ……そうですか?」
どうしてわたしの言葉で助かるのか。首を傾げてもわからない。
「それでね、ターニャちゃんの代わりに、誰かもう一人、軟膏作りに係わってもらおうと思うのだけれど、サリヴァンさんは、誰かこの人って思い当たる人はいるかしら。ターニャちゃんやブリジットさんみたいな人が良いんだけど」
「思い当たる人、ですか? ええっと……」
「畑仕事に慣れていない人、畑仕事より家の中の仕事が多い人が良いと思うの。畑仕事をしなくても生活ができるようにするけど、畑でがんばれる人は、できるだけ畑でがんばって欲しいのよ。やっぱり麦や野菜もたくさん作らないと、なにかあった時の備蓄を減らしたくはないから」
「そうですね、いつ不作になったり、魔物が襲って来たりするかわからないですし……」
そう考えれば、丁度この前に話した子の顔が浮かぶ。
「グラシエラちゃんなんか、どうでしょう? あのお家、お兄さんが病気になって畑がちょっと……。畑のお仕事を減らしても生活が成り立つなら、悪い話じゃない、と思うけど……」
わたしの言葉に、なるほど、とユイカ様が頷く。
「では、グラシエラさんに相談してみましょう。流石ですね、サリヴァンさん。よく見えていらっしゃる」
とても嬉しそうな顔で、初めからそう考えていたみたいな即決だった。
****
その後、本当にユイカ様は話を持って行ったようで、次の集まりの時にはグラシエラちゃんが紹介された。
柱にくくりつけられているのか、というくらい真っ直ぐな立ち姿は、どう見ても力が入りすぎ、緊張しすぎだ。
同じ心地を経験しているので、わたしも、ブリジットさんも、そんなに力を入れなくて大丈夫だと励ましにかかる。
「本当に作り方は簡単だから、グラシエラちゃんなら大丈夫よ。一緒にがんばりましょうね」
「そうそう! サリヴァンさんがちゃんと助けてくれるから、大丈夫よ!」
え? ブリジットさんの励ましの言葉にびっくりする。
「そ、そうですね、サリヴァンさんがいてくれて、ほっとしてます」
ええ? グラシエラちゃんがほんわかと表情を緩ませるのにもびっくりする。
「それは、もちろん、できることはするつもりだけど……わたしなんて、そんなに頼りにならないわ? ええと、ごめんなさいね?」
「いやいや、サリヴァンさんがいるだけで安心できますから! ね、グラシエラちゃん!」
「はい! それに、ユイカ様にあたしのこと話してくれたって。すごく嬉しかったです、ありがとうございます!」
それはよかった。余計なことを言っていたらと思って気にしていたから、胸を撫で下ろす。
「グラシエラちゃんの負担になってないなら、よかったわ」
「全然ですよ。畑に手が回らなくて、今年は収穫が減りそうでどうしようって思っていたので、すごく助かりました。本当にありがとうございます」
「ちょっとユイカ様とお話ししただけだもの、お礼なんてなにも」
母親の分の仕事と、病人の看病で大変だろうに、グラシエラちゃんは本当にしっかりしている。
がんばりすぎて倒れないか心配なくらいだ。
「もし、家のことで手が回らないところがあったら、言って頂戴ね。この前のお洗濯みたいに、少しは力になれるわ」
「いえっ、そんな、サリヴァンさんにそこまでお世話になるわけには……」
「お世話っていうほどのことはできないと思うから、遠慮しないで。わたしにできるとしたら、ちょっとしたお手伝いくらいだもの」
ごめんなさいね、と苦笑する。
「もうちょっと、畑とかも手伝えたらよかったんだけど」
いつも思っていることを口にすると、それはお世話になりすぎです、と言われてしまう。
そんなことないのに。時間が余っている、やることのない年寄りが、村の役に立つのはそれくらいだという話だ。
逆に、仕事のお世話をされるのはこちらの方だ。
「あのー、それってあたしも甘えて良いですか?」
ブリジットさんが、手を上げて期待に満ちた目をしている。もちろん、と頷くと、力強く拳を握った。
「やった! 時々、サリヴァンさんに子供を見てもらって良いですか! 洗濯の時にちょっととか、畑を見る時にちょっととか、家から離れなくちゃいけない時だけで良いんです!」
「ああ、危ないことをしないように見ていれば良いのよね?」
わかるわ。子供は目を離すとなにをするかわからないから、一人で育てるのは大変よね。
サミーちゃん達だって見られない時はたくさんあるんだし。
「それくらいなら、わたしでもまだできるわ。必要な時は声をかけて」
それから、グラシエラちゃんにも目を向ける。
「お兄さんの看病、付きっきりで大変な時もあるでしょう? 外さないといけない時の留守番くらいなら、できるからね」
グラシエラちゃんはまだ若い。家にこもりっきりでは、友達と話して気分を変えたり、将来に繋がる出会いの機会も少ないだろう。
きっと、お父さんやお兄さんもそのことは気にしているはずだ。ただ、外で少しくらい自由にしておいで、と言ったところで、グラシエラちゃんが素直に受け取るかどうか。
これだけ健気で遠慮がちな子だ。
「今度、試しで一度やってみましょうか。わたしも、久しぶりにグラシエラちゃんのお父さんやお兄さんと話してみたいわ」
グラシエラちゃんがなにか断る前に、ブリジットさんに顔を向ける。
「もちろん、ブリジットさんのお子さんのこともね。いきなり滅多に会わないお婆ちゃんと二人きりにされたら、お子さんもびっくりするでしょうから」
「あ、絶対にびっくりする。びっくりっていうか、大泣きしますね、絶対」
「最初はブリジットさんと三人で、ちょっとお話するくらいから始めましょう。グラシエラちゃんも、今度お父さんとお兄さんと一緒にね」
グラシエラちゃんはまだ頷きづらいようだけど、ブリジットさんが元気よく返事をしてくれたから、曖昧なまま押し切ることができた。
わたしも、それなりに年を取っているもの。若い人が断りづらいように話を運ぶくらいはできるのよ。
ユイカ様ほどでは、ないけれど。
****
わたし達が作っているお薬、アロエ軟膏は、上手くいっている、らしい。
村の外での話は、わたしにはよくわからないから、らしい、とついてしまう。
ただ、ユイカ様がニコニコと素敵な笑顔で「順調」と言っていたものが、「とても好調」になって、「素晴らしく絶好調」にまで上り詰めたのだから、多分、大丈夫なんだと思う。
わたし達に渡されるお金も、ユイカ様が約束した通り、畑で働かなくても生活が成り立つくらいにもらえている。
今まで、村ではあまりお金のやり取りがなかったから、そのお金で食べ物を買う時はユイカ様に仲介をしてもらう必要があったけど、最近は慣れて来た。
行商人のクイドさんも、村の中にお金が増えたからと、持って来る商品を増やしたようだ。買い物が楽しくなったと感じている村人も多い。
なんとなく、本当になんとなくだけれど、村が良い方向に動いているような気がする。
「でも、本当にこんなにお金をもらってもいいんでしょうか……?」
村長さんの家に行って、薬の売り上げから報酬をもらった帰り道、グラシエラちゃんが呟く。その手には、お金のつまった袋が載っていて、重さを持て余したように震えている。
わたしももらいすぎていると思うので、グラシエラちゃんには上手く答えられない。
でも、軽々と袋を振って楽しそうなブリジットさんは、いつもの笑顔で大丈夫と言い切った。
「あたしも何度も確認したから、大丈夫だよ。初めてもらった時はすんごいびっくりしたからね、ユイカ様に十回くらい聞いたもん。これ多すぎませんか、間違えてませんか、もらって本当に良いんですかーって」
何回聞いても大丈夫って言われたから、大丈夫。
それがブリジットさんの結論だった。たくましい。
「それに、アロエ軟膏って本当にすごいじゃない。ほら、あたしの手がこんなに綺麗に!」
袋を振り回すのを止めて、ブリジットさんが自分の目の前に手を突き出す。
農民といえば、その指は痛々しく荒れているものだ。
土いじりに水仕事、重い物も持つし、急いで動くからぶつけたり、切ったりもする。働き者の手だと慰めることはできても、ふと見た指先に溜息が漏れてしまう。
そんな農民の指先が、今はずいぶんと綺麗だ。
貴族様ほどではないかもしれない。でも、少なくとも、ひび割れやあかぎれで、痛い、と思うほど荒れていない。
「こんなに綺麗な指を見るなんて、生まれて初めてかもしれない!」
笑うブリジットさんに釣られて、わたしも自分の指先を眺める。確かに、自分の指がこんなに整えられているのは、生まれて初めてかもしれない。
「そうね、夫に自慢したいくらいね」
もし、生きていたら、間違いなく見せただろう。さて、夫はなんて言って来たことか。
思わず、目を細めてしまう。
久しぶりに、がさつで、ぶっきらぼうな、夫の声が思い出される。
ええ、あなたなら、そう言うでしょうとも。
「あ~、そうですねぇ……。旦那にも見せてやりたかったなぁ」
ブリジットさんも、目を細める。自分の指先の向こうに、誰かを見ているのだろう。
二人思い出に浸ってしまうと、気まずいのはグラシエラちゃんだ。
「あら、ごめんなさいね、年を取ると考えごとが多くなっちゃって……。そうそう、グラシエラちゃんは、お父さんに手を見せてあげたら? 喜んでくれるかもしれないわよ」
「そ、そうでしょうか……?」
近頃、グラシエラちゃんのお家にも手伝いに行くことが増えたので、彼女の父親とも話す機会がちょくちょくある。
だから、いまいち不思議そうなグラシエラちゃんに、自信を持って頷くことができる。
長女である娘に、親だからと甘えてえらく迷惑をかけちまって情けねえ、なんて鼻をすすっていたお父さんだ。娘の綺麗な指先を見たら男泣きするほど感動しそうだ。
それに、グラシエラちゃんの細い目で笑う顔は、わたしの知っている彼女のお母さんによく似ている。お父さんには、色んな意味で嬉しいだろう。
「ちゃんと見せてあげてね。それも親孝行になるから。ね、ブリジットさんもそう思わない?」
「はーい、思いまーす! グラシエラちゃん、お父さんを喜ばせてあげるんだよ!」
話を振ると、ブリジットさんもすかさず同じことを勧めてくれる。
視線を合わせると、全く同じ気持ちなのだろうと、何故か言葉にしなくてもわかる。そう思うと、おかしさが込み上げて来る。
ブリジットさんと二人で笑っていると、グラシエラちゃんがどうしたら良いのかと慌て始めて、それが余計におかしくて、さらに大きな声で笑ってしまう。
笑い続けていたら、グラシエラちゃんにも笑いが移ったのか、笑い声が三つになった。
なにがおかしいのだろうかと不思議になりながら、とにかくおかしくて、三人で笑い続けた。
冬の入り、少し寒くなって来た風に、姦しい笑い声が乗っていく。
「あ~っ、おっかしい! もうっ、なにがおかしいって、なにもおかしくないのにおかしいっていうのが……いやこれなに言ってんだあたし!」
お腹を抱えながら、ブリジットさんがまたケラケラ笑う。
「やだ、もう、やめてください、ブリジットさん、おなか、くるしぃ……!」
グラシエラちゃんは、うずくまって膝に顔を埋めて震えている。
「ほんと、もう、笑えない、笑いたくないんだけど……」
わたしはわたしで、目尻の涙を拭うのに忙しい。声を出し過ぎて喉がちょっとかすれている。
「と、とにかく、今日はこれで、家に帰りましょう。思ったより話しこんじゃったわね」
わたしも、マデルおじいさんを迎えに行って、晩御飯の支度をしないといけない。
「グラシエラちゃんも、ブリジットさんも、家族が待っているものね。寄り道しちゃダメよ……って、あら? ごめんなさい、変なことを」
年の差があるせいか、つい、娘や息子にしていたような注意が出てしまう。
それに、二人はちょっと目を大きくした後、ブリジットさんがにかっと笑った。
「は~い! サリー母さん!」
「ちょ、ちょっと、ブリジットさん……わたしが変なことを言ったのは悪かったけど、それは申し訳ないわ」
ブリジットさんのお母さんも、グラシエラちゃんのお母さんも、わたしは知っているのだ。どちらも、最後まで家族を大事にする人達だった。
「良いじゃないですか! サリヴァンさんには本当に母さんくらいお世話になってるんですし! あ、あたしはビディ姉さんでいいかな? グラシエラちゃんは~……」
ブリジットさんに言われて、グラシエラちゃんは細い目を楽しそうに弓にして、ふふっと笑う。
「末っ子グラシーですね。家だと一番のお姉さんなので、なんかだかちょっと……嬉しいです。サリーお母さん?」
「あっ、この末っ子可愛い! サリー母さん! これはもうあれ、断っちゃダメじゃない!?」
ああ、もう。
わたしからしたら、ブリジットさんもとても可愛いわ。でも、そう言ったら、二人ともちょっと悲しむだろう。
「他の人がいるところでは、お母さんはやめてね? サリーでお願いね、ビディ、グラシー」
家族みたいな友達が増えてしまった。
いえ、これは、友達みたいな家族、というべきなのかしら。
****
笑い疲れたせいか、少しだるさを感じながら、マデルおじいさんと夕食を一緒にする。
「今日は、なにかあったのかい?」
そう聞かれて、顔に出ていたかと頬を押さえる。
「ええ、ちょっと。いつもの二人をね、ビディ、グラシーと呼ぶようになったの」
「そうか、そうか。良いことだったみたいでよかったの」
そう、良いことだったのだ。
こうしてマデルおじいさんに報告するだけで、口元が緩むくらいに。
「この年になって、あんな若いお友達ができるなんて、わからないものよね。他に家族もいなくなっちゃったから、娘みたいに思えて楽しいわ」
するりと出て来た言葉に、マデルおじいさんはうんうん頷いてくれる。
ビディは元気がよくて明るいこと。その分、おっちょこちょいで目が離せないこと。
グラシーは真面目で辛抱強いこと。細い目で笑うととても可愛らしいこと。
ビディの子供は大人しいけど、ビディが心配するほど泣き虫ではないこと。
グラシーのお兄さんの病気は、これ以上重くはならないんじゃないかということ。
思わず、あれこれと長く話をしてしまう。
「あ、ごめんなさいね。わたしばっかりペラペラと……」
「いや、いや、サリヴァンさんが楽しそうでよかったよ。わしまで楽しくなってくるからの」
シワの多い顔で笑ったマデルおじいさんが、真っ直ぐに見つめて来る。
「サリヴァンさんが忙しいんじゃったら、わしの世話は休んでも良いからの」
「いえいえ、そんな、気にしないで大丈夫よ。マデルおじいさんこそ、わたしが抜けていることがあったら、ごめんなさいね」
「それこそ気にしなくていいじゃろ、まだまだわしも自分の世話はできるでな。ただまあ、毎日挨拶はしてくれると嬉しいがの」
「はい、それはもちろん、明日もちゃんと朝に来るわ」
マデルおじいさんとの夕食も、いつもより笑い声が多く過ごせた。
明日も、ビディやグラシーと会えば、また面白い話ができるだろうか。
明日のことを考えながら家に帰り、明日の朝の準備をしようとすると、頭の重さに気づく。
思ったより疲れているのかもしれない。早く休んだ方が良いかとベッドに向かうと、足がふらつく。
真っ直ぐに歩けない。
ひょっとして、これは、まずいかもしれない……。
不調を自覚した途端、血の気が引いて背筋を寒気が走る。なのに、頭は重たい熱がある。
覚えがある、嫌な気持ち悪さ。疲れただけだと思っていたけど、熱が出ている。体のだるさは、風邪のせいだったのだ。
ベッドに手を突こうとして、そのまま倒れこんでしまった。
「一晩、休めば……」
治るだろうか。
自分は、もう、年だ。今大きく体調を崩せば、そのまま狼神様の御許に招かれるかもしれない。
……別に、それも悪いことではない気がする。
娘も、息子も、自分のところから巣立って行った。夫も、先に逝ってしまった。
このまま年を重ねて、なにもできなくなって、村の迷惑になる。そう思ってしまえば、心がひび割れ、血が溢れ出す。
こんな痛みを抱えながら過ごすくらいなら、今このまま墓の世話になってしまっても良いだろう。
その方が、きっと楽だ。後は、神様にお任せしよう。そう決めて、瞼を伏せる。
ただ、完全に闇の中に埋もれる直前、ちょっとだけもったいないなと思う。
ビディやグラシーと、せっかく仲良くなれたのに。
まだもう少し、マデルおじいさんに楽しい話ができそうなのに。
この年になって見つけた、新しい楽しみをもう手放さなくちゃいけないなんて、もったいない。
もったいないと思ってしまえば、貧乏暮らしの農民根性が、ちょっとだけ燃える。
****
熱でぼうっとした頭に、心地良い冷たさが触れる。
背筋で蛇のように蠢く寒気が、体を覆う温かさで大人しくなる。
ほっと息を吐いたことを自覚したら、目が覚めた。
「あーっ、起きた! グラシーちゃん、サリーさんが目を覚ましたよ!」
「ほんと!? サリーさん大丈夫ですか!」
最近、すっかり聞き慣れた二人の声に顔を向けると、ビディとグラシーがそろって顔を覗き込んでいる。
その心配そうな顔を見れば、看病をしてくれていたことが説明されなくてもわかってしまう。昔、娘と息子にも同じような顔をされた。
いや、今は思い出のことはどうでもいい。
それより、二人がいるなんて普通のことではない。とっくに朝は過ぎている? 今日の仕事はどれくらい遅れているのか。
次々と頭に浮かぶやらなければならないことに、心のひび割れが痛む。
「今、どれくらい……? マデルおじいさんのご飯……」
身を起こそうとしたら、ビディに肩を押さえられる。
「大丈夫、大丈夫です! そのマデルおじいさんが、朝になっても来ないからって心配して見に来たら、具合悪そうなサリーさんを見つけてくれたんですよ!」
「ああ、もうそんな時間なのね……。ご飯、食べられたかしら」
「それはあたしとグラシーちゃんとこのを分けたから、大丈夫!」
「そう……。ごめんなさいね、迷惑を、かけちゃって……」
二人とも、家のことをやらなくちゃいけないのに、面倒をかけてしまった。
また、心のひび割れが痛んで、ぼんやりした頭で謝ると、ビディが目を釣り上げる。
「なに言ってるんですか! これくらいいつものお礼で……いやっ、そんなことより、サリーさん、具合はどう?」
釣り上がった目が今度は泣きそうに垂れてしまう。娘の泣く時を思い出して、手を伸ばして頭を撫でる。
「大丈夫よ。もう、大丈夫だから」
「大丈夫じゃないですよー、もー!」
かすれた声で怒るビディに、グラシーも可愛らしい頬を膨らませて頷く。
「そうですよ。声をかけても全然起きなかったんですから、サリーさんは大丈夫じゃないです」
額の濡れた手拭いをどかして、グラシーが額に手を当ててくる。
「ほら、熱もまだあるんですから。しっかり休んでいてください」
でも、と言うより先に、グラシーが動く。カマドにかけたお鍋からスープを持って来たようだ。
「これ、食べられますか? ユイカ様のところから、お薬をもらってあるんです。お薬の前にこのお粥を食べるようにって言われてて。あっ、先に水を飲みます? ユイカ様のところの蜂蜜入りの水もあって」
つらつらと喋り続けるグラシーに、落ち着いてと言い聞かせるように苦笑する。
「大丈夫よ。これくらい平気だから、二人ともお家のことがあるでしょ」
「サリーさんがこれを食べてお薬を飲んだら、あたし達も家に戻ります」
グラシーの細い目で睨まれて、思わず怯む。わたしが思った以上に、二人には心配をかけてしまったようだ。
「わかった。ご飯をもらうわね」
お皿を受け取るため身を起こそうとすると、ビディが背中を支えて助けてくれる。
「ごめんなさいね、面倒をかけてしまって」
すっかり助けられる側になってしまった。
これからもこういうことがあると思うと……いや、こういうことがますます増えるのだろう。マデルおじいさんを見ていればそれがわかるだけに、ひび割れた心がずきずきと痛む。
一度や二度ならともかく、度重なるとビディやグラシーの負担も大きい。
やっぱり、目が覚めない方がよかったのだろうか。
渡されたお皿の中、揺れるスープを見る。
ユイカ様のところで、冬の病人用に作っているというお粥だ。鶏ガラで出汁を取って、塩もちゃんと入れて、食べやすいように時間をかけて煮込んでいる。
美味しいはずだ。香りだって良い。
でも、食欲が湧かない。手に持ったスプーンが迷う。
「ん~……サリーさん、ちょっと言っちゃっていいですか? いえ、言っちゃうね」
強い声に、皿から顔を上げると、ビディが恐い顔をしていた。
怒っている顔に近い、でも、優しい顔が、じっとわたしを見つめている。
「あたし、ごめんなさいは、あんまり聞きたくないです。しんどいです。サリーさんが、悲しそうな顔して言うの」
でも、じゃあ、なんて言えば良いのか。言葉を詰まらせると、ビディの顔に悲しさが滲んだ。
「あたしも、迷惑かけてますか? チビを見てもらったり、洗濯を手伝ってもらったり、それってサリー母さんにとって、迷惑ですか? ごめんなさいって言った方が、いい?」
「いえ、いいえ。それくらい平気よ、気にしないで」
「じゃあ、だったら、サリー母さんも、気にしないで良いんです」
お粥を一向に食べないわたしのひび割れた手を、ビディの手が握る。そこに、グラシーも手を重ねて。
「いつも、ありがとう、サリー母さん」
「本当に、ありがとうございます、サリー母さん」
簡単な、子供でも皆使っている普通の言葉だ。
そのはずだ。
そんな普通の感謝の言葉に、声も出せないほど驚かされる。
それで、よかったのか。
そう言ってよかったのか。
二人は、そう言って欲しかったのだ。
わたしは、そう言うべきだったのだ。
年を取ったのに、こんな簡単なこともわからなかった。
自分に呆れていると、握られた手の温もりが、わたしの言葉を待っていると伝えて来る。
そうね。二人には、ずっと悪いことをしてしまった。
ごめんなさいね――そうは言わずに、二人の手を握り返す。
「二人がいてくれて、よかった。ビディ、グラシー」
ありがとう。
そう口にしただけで、なにも心配がいらないように思えてしまう。
わたしが感じていた焦り、不安、暗い気持ち……心のひび割れになっていた傷は、こんな簡単な言葉で治ってしまうほど、小さくて些細なものだったのだ。
手に軟膏を塗られたような、くすぐったくてほっとする心地。
心のひび割れが癒された途端、急にお腹が減って来た。ご飯を食べて、ユイカ様が用意してくれたお薬を飲んで……。
「すぐに元気になって、また二人の手伝いとマデルおじいさんのお世話をしないとね」
「えー、たまにはこうやってあたし達がお手伝いするのも良いと思うなー?」
「そうです、お返し、したかったですから」
娘二人にそう言われるのは嬉しいけれど、そういうわけにもいかないのよ。
母親というものは、娘に世話になるよりも、世話をしたがるものなんだから。風邪なんかで倒れてなんかいられない。
****
風邪は気合で治した。
そう言ってしまうと、ユイカ様が用意してくれた薬や食事のありがたさに対して罰当たりだろうか。
実際、そういった村長家の準備のおかげで、この冬、村では誰も死ななかった。薬や食事は、とても効果があったのだ。
でも、わたしにとっては、ビディとグラシーのためにと奮い立った気持ちこそ、一番の薬になったと思う。
おかげで、今日はいつにもまして晴れがましい春迎祭。
わたしもそれなりに年を取ったけれど、こんなに明るく笑い合うお祭りは初めてだ。
春の温かな陽射しの下、どこにも不吉な影が見当たらない。
「はーっ、このお祭りになると、やっと冬が終わったーって感じ!」
「本当ですね、やっぱり冬は寒くて寒くて……。もう二度と来なくていいのに」
ビディとグラシーも、春の陽気に嬉しそうに笑っている。
「二人とも、お喋りばっかりしていて大丈夫? せっかくなんだから、なにか食べなさい? ほら、バンさんのところのお肉とか、早く行かないとなくなっちゃうわ」
わたしが言うと、二人はなんだかすごく嬉しそうな顔になった。
「あ、今のめっちゃお母さんっぽい! は~い、サリー母さん!」
わたしで遊び始めたビディを、こらっ、としかりつける。
しかられているのに、それが妙に楽しそうなのは、本当にもう困った子だ。グラシーも、わたし達のやり取りを見てくすくすと笑う。
「じゃあ、サリーお母さんの分も、あたしもらって来ますね」
「あ、じゃあ、あたしは飲み物のお代わりもらってこよーっと」
まったくもう。
他の人がいるところでは、お母さん呼びはしないでと言っているのに、二人は時々こうして遊ぶ。本気で怒らないわたしも悪いのだろうけど。
パタパタと走っていく二人を見ていると、マデルおじいさんが杖をついて歩いているのが目に入った。
「マデルおじいさん、よかったらこっちで一緒にお話しませんか? ビディとグラシーもいるから、盛り上がってますよ」
「おぉ、お邪魔じゃないかね?」
「そんな意地悪を言う人じゃありませんよ。ビディも、グラシーも」
「そうか、そうか。すまんの」
シワだらけの顔で言われた言葉に、なるほど、と思った。
ビディも、グラシーも、こんな気持ちだったのか。いや、そもそも、わたしは、ずっとこの気持ちを抱えていたのか。
謝られるのは、しんどい。
人のひび割れた手を見て、その痛みを考えてしまうのと一緒。ビディの言う通りだ。
「マデルおじいさん、そこは、ありがとうって、言って欲しいです」
「そうかね?」
「ええ、なにかする度に謝られると、悪いことをしているみたいでしょ。誰も悪くなんてないのに、なんだかやりづらいわ」
「そうかね……。そうかも、しれんの」
何度か頷いて、マデルおじいさんはシワだらけの顔で笑った。
「いつもありがとうな、サリヴァンさん」
「いいえ、こちらこそ、いつも天気を見てくれて、ありがとうございます」
簡単な言葉を交わしただけで、お祭りに似合う笑いが漏れる。
なんて手軽さだろうか。アロエ軟膏を手に塗るよりも、よほど簡単なことだ。
「ただいまー! マデルおじいさんも見えたから、四人分のお酒もらってきましたー!」
「はい、こっちも串焼き四つもらってきました」
もちろん、帰ってきた二人に伝える言葉は決まっている。
温かい春の日差し、負けないくらい温かい言葉。
今日は楽しい春のお祭り。
そして、今日からは明るい春の季節だ。




