惚気の晩酌
【灰の底 ユイカの断章】
晩御飯に招待していたアッシュ君は、とても満足そうな顔で帰って行った。
きっと、わたしもアッシュ君に負けないくらい良い顔をしていると思う。
それくらい、アッシュ君は招待客として満点だった。おもてなしの手料理は褒めてもらえたし、暴走したマイカは可愛かったし、アロエ軟膏の利権も託されてしまった。
特に、最後。
心配事が綺麗に片付いて、大きな儲け話に化けた。
新しい薬の生産と流通、その差配を全面的に任されたのだ。アッシュ君の年齢や立場から、そうできれば良いだろうと思っていたけれど、あっさりと快諾されるとは思わなかった。
取扱いには注意が必要だけれど、やりようによっては一生暮らせるほどのお金の生る畑になるのに……。
まだ幼いアッシュ君には、そこまでわからなかった?
普通なら、そうだろう。すると、わたしは小さな子を騙した悪い魔女かしら。
思わず、笑いが零れる。
今のわたしは、とても悪い笑みを浮かべていることだろう。
『便利で豊かな生活を送りたいのです』
そう、ありきたりな夢を語るアッシュ君は、すごかった。
悪い魔女が騙した程度では、歯牙にもかけない怪物の風格まであった。
心がざわつく。それは決して不快ではない。
まるで、夏祭りの夜に、闇を引き裂くかがり火が灯されたような高揚感だ。
一人でじっと抱えているには落ち着かない熱を持て余していると、クラインが外から戻って来た。
「お帰りなさい、アッシュ君を無事に送り届けて来てくれた?」
夜道に小さなアッシュ君を一人で帰らせるわけにはいかないと、送りに出ていたクラインに尋ねると、夫は笑顔で頷いた。
「そう、よかったわ。今後、この村にとって一番の重要人物だもの。なにかあったら困るわ」
まあ、あのアッシュ君が夜道くらいでどうこうなるとは思わないのだけれど……。そういう気持ちもこめて笑う。
もちろん、わたしのクラインにはそれだけで全て通じる。くすりと笑い返してくれたと思ったら、棚の奥から酒瓶を取り出した。
まあ、悪い人。
お祭りの時にでも飲もうと思っていた、とっておきの葡萄酒だわ。
確かに、今日はとっておきを開けても良いくらい、お酒が美味しい日になったとわたしも考えていた。
本当に、全部お見通しなんだから。
「今それを開けたら、わたし、すごく酔ってしまいそうなのだけれど?」
頬杖を突いて夫を見つめながら、いけないことよ、とたしなめる。
わたしは村長夫人なのだし、村の見本として節度を保たないといけないわ。酔ってしまうくらいお酒を飲むなんて、はしたない。
全てわかっている夫は、そんな君が見たい、とお酒を開けてしまった。
本当に悪い人なんだから。
「開けてしまったのなら、仕方ないわね。今日は特別だからね?」
仕方ない、仕方ないのよ。開けてしまったら早く飲まないと味も落ちてしまう。
その結果、村長夫人らしくもなく酔ってしまったとしても、全部クラインのせいなんだから、わたしは悪くないわ。
軽くカップを掲げて、乾杯する。
うん、美味しい。
村で飲み物というとほぼエールだけれど、実家では葡萄酒の方を飲んでいたから、こちらの方がわたしは好き。
美味しさに、つい一口が多くなってしまう。
酒精と満足が混じった吐息を漏らしてカップをテーブルに置くと、すぐにお代わりが注がれた。
「あら、今飲んだばかりなのに。本当にすぐに酔ってしまうわよ?」
くすくすと笑いながらも、夫のお酌に甘えてもう一口飲む。
アッシュ君が置いて行った熱は、お酒を浴びて冷えるどころか、じんわりと広がっていくようだ。
「ねえ、明日からがんばらないといけないわね」
あのアロエ軟膏は、貴族を始めとした上流階級も欲しがる。
わたしの実家に流して、値段をつけてもらわないと。
初めは生産量も限られているから、高値を吹っかけてもいいだろう。そうして資金を調達して、生産体制を整えて……。
考えるだけで、笑みが零れる。
心が沸き立つ。久しぶりだわ、仕事に身が引き締まる思いになるのは。
「ふふ、とても楽しみだわ。アッシュ君にもお礼をしないと。なにがいいかしら?」
普通の男の子なら剣とか喜びそうよね。実家に軟膏を届けて事情を話せば、使っていない短剣くらいならもらえると思う。
でも、アッシュ君は普通じゃないのよね。
う~ん、本? 実家から少し傷んだものでもいいから、本を送ってもらうとか。どうかしら?
クラインに視線を向けると、黙って葡萄酒をお酌される。あら、無視するなんて珍しい。
びっくりするけど、あまり見られない夫の反応は楽しくもある。
「なに、わたしがさっきからアッシュ君アッシュ君ってマイカみたいにあの子のことばっかり考えているから、ひょっとして妬いてる?」
図星だったらしい。肩を落として、クラインが頷く。
ふふふ、わかりやすいんだからもう、ふふふ。
率直に、嬉しい。
結婚して、子供までできたのに、まだまだ恋い慕ってくれるのだから、嬉しすぎて油断ならない。
おちおち年を取ってシワも増やせないくらいだわ。
その点、手荒れを癒してくれるアッシュ君のアロエ軟膏はとっても素晴らしい。
世の恋する女性の味方と言ってもいい。……あ、いけない。またアッシュ君のことを考えたら、ますますクラインが可愛い反応をしてしまう。
「大丈夫よ、アッシュ君は確かに素敵な子だけれど、あなたほどじゃないもの」
ほんと? みたいに手を握られたので、ほんとほんと、と指を絡めて握り返す。
ふふふ、相変わらず甘えるのが下手なんだから。素面のわたしに甘えるのが恥ずかしいの?
昔みたいに、その顔が無表情のまま困っていたってわたしが引きずり出すから、通用なんてしてないのにね。
「それに、アッシュ君はマイカが守ってるもの。さっきの見たでしょう? アッシュ君に意地悪しないで、ですって!」
思い出しただけで、酔いの混じった笑いがこみあげて来る。
「たとえ母親相手でも、アッシュ君のためなら容赦はしないってあの恋の仕方、流石はあなたの娘よね」
クラインが、わたしと結婚するためにこなした決闘数は百以上。
恐らく、王国史上空前の決闘記録で、絶後の連勝記録だろう。その記録の中にはわたしの父や弟も含まれている。
マイカは、そんな記録保持者の娘なのだ。
そんな娘の想い人に手を出すなんて、いくらわたしがちょっとした冒険を好む性質だからって、とてもとても。
わたしは、夫と違って武芸は得意ではないのだ。
その方面は、ちょっとサボり気味だったものね。
頼もしい騎士様に守られるからいいかな、なんて。マイカには内緒よ?
そんな娘には言えないことを考えていたせいか、隣の部屋でマイカの悲鳴が上がった。
「おかーさーん! アッシュ君は!?」
マイカが起きたようだ。寝癖がついた髪がぴょこんと立っているのがまた絶妙に可愛い。
でも、そんな油断しきった姿をアッシュ君に見せたら、あなたまた気絶しそうよ?
「ふふ、アッシュ君なら、もうとっくに帰っちゃったわよ?」
葡萄酒を揺らしながら答えたら、そんなぁ、とマイカは情けない顔をしてへたりこむ。
かと思えば、なにかを思い出して立ち上がった。
「そうだ、お母さん! さっきの、アッシュ君に意地悪してたの! 許さないからね!」
あら? マイカが恐いからアッシュ君には手を出せないと思ってたけど……ひょっとしてわたし、もうこの子に敵認定されてる?
それは恐いわね。恐いから守ってもらわないと。
「ふふふ、許さないならどうするつもりかしら? わたしにはとっても頼もしい騎士様がいるのよ?」
わたしが頼りになる騎士様の肩にもたれると、マイカが両手を握りしめて悔しがる。
「ぐ、ぐぬぬ! お父さんを味方につけるなんてずるい! 一騎打ち、正々堂々一騎打ちしよ!」
「いいわよ。わたしの代理としてクラインに出てもらいます。頼みましたよ、我が騎士」
快諾する夫と、ずーるーいーと怒る娘への愛を肴に、葡萄酒をあおる。
今宵のお酒は、本当に美味しい。




