灰の底21
晩秋も過ぎ去ると、厳しい季節がやって来る。
雪が積もるほどには降らないとはいえ、森も野も畑も、緑は薄れ、乾いた土と同じ色になっていく。大地がまるで血の気の失せた亡骸のような有様だ。多くの文化で、死の季節と呼ばれるのも無理はない。
大地が息を吹き返すまで、農民もまた、畑同様に仮初の死に沈む。
畑仕事からの収穫がない以上、農民から別な職に、一時的に衣替えをするのだ。
ある者は内職の細工師になり、ある者は機織りになる。期間限定の大工になって、村の家屋の簡単な手入れをする者もいる。
農民の肩書きが外れた私は、一人の探究者だ。
この一年の活動の結果、実験費用を自前で賄えるようになったので、春にアロエの研究をした時よりはるかに効率よく進む。余分に薪を使っても怒られないことが嬉しい。
最近は、春に向けてミツバチ由来の素材の加工法を研究している。秋のうちに、ターニャ嬢と協力して、森で野生のミツバチの巣を回収しておいたのだ。
本当に蜂の巣から軟膏状のものができたことには驚いた。
本によると、殺菌効果もあるらしく、アロエ軟膏同様、美容品の他に傷薬としても使えるらしい。アロエと組み合わせて割増効果を得られないか、現在研究中である。
蜂の巣からはロウソクもできたので、夜の作業時間が増やせた。蜂の巣は蜜蝋、つまり蝋の一種なので、こんなことができるようだ。
では、どうして蜂は蝋を作れるのか。
無学な私にはさっぱりわからない。あと、どうして殺菌効果があるのだろうか。
近頃は、何か一つ研究すると、面白そうな疑問が次々出てきて、でもわからなくて身悶えする。どうして前世らしき記憶で、私は生物学をしっかり学んでいなかったのだろう。
「あら、アッシュ、お鍋が煮えているけど、いいの?」
母上に注意されて、私は慌てて自前の研究書から顔を上げる。
「ありがとうございます。うん、これぐらいでちょうど良いかな」
鍋の中、樹皮の煮え具合を確認して、私は煮汁を濾す作業にかかる。
母上は縫物の手を止めて、興味深そうに私の作業を眺める。
「そうやってお薬が作られているのねぇ、なんだか不思議だわ」
「ええ、まったくもって同意見です」
この煮汁が薬になるのだ。効果は実験済みではあるが、どうしてかと聞かれると困る。
煮ていた樹皮は、頼もしき植物図鑑によると抗炎症・解熱・鎮痛効果がある樹木のものだ。形状とこの効果からして、恐らく前世でいうヤナギの一種だと思われる。
前世の聞きかじり知識によると、ヤナギは頭痛薬などで有名なアスピリンと関係があり、古くから利用されてきたと聞く。
ヤナギの煮汁やアスピリンが、どう作用して頭痛薬になるのかはわからない。どうして前世らしき記憶で、私は化学をしっかり学んでいなかったのだろう。
ヤナギの煮汁を、煮沸消毒をした陶器の壺に入れながら、私は溜息をつく。
「あら、マイカちゃんのことが心配?」
「え? ええ、まあ、心配ではあります」
「そう。そうよね、やっぱり」
楽しそうに笑う母上に、科学的探究心の方が上回っている、とは言い出せなかった。
風邪でダウンしているマイカ嬢のことは案じているので、嘘ではないことにしておこう。
なにせ、前世では考えられないことに、たかが風邪で人がばたばた死んでしまう。
ナノテク注射さえあればと、前世らしき記憶を恨めしく思いながら、何人の葬儀に参列したことか……。
だが、今年からはそうはいかない。
村の今後の発展のためにも、人口維持と人口増加は必須事項だ。私の夢のためにも、村人を風邪から守ってみせる。
ましてや、マイカ嬢は血筋も知識も高い水準であり、私的に親しくさせてもらっている。意気込むのは公私両面において当然だ。
私は作り終えた解熱鎮痛薬を持って、出かける支度をする。
「それでは母さん、村長さんの家へ行ってきます」
「はい、気をつけていってらっしゃい。村長さん達によろしくね」
母一人に見送られて、私は出発する。
父上は何をしているかって? 村の役立たずな男達と集まって、冬の休暇に酔いしれているよ。文字通りの意味で。
村長家につくと、ユイカ夫人がすぐに出迎えてくれる。少し疲れて見えるのは、マイカ嬢の看病につきっきりだからだ。
こちらの旦那様は、夫人に代わってきっちり村長としての仕事をしている。我が家の父とは大違いだ。
「こちら、追加の解熱薬です。いつも通り、大量に飲まないよう気をつけてください」
「本当に助かるわ。アッシュ君のお薬が良く効くみたいで、薬を飲んだ後は食欲が湧くみたいなの」
「それは何よりです。病気を直接治すことは私にはできませんから、マイカさん本人が良く栄養をとって、病気と闘わないと」
私の言葉に、ユイカ夫人も頷く。
今世では、病気が悪霊や悪魔、神罰によって起こるとは考えられていない。あるいは、そう考えている者でも、その対処方法として苦行を課す(そうして病魔を追い払う)、ということにはなっていない。むやみやたらと瀉血をしたりもしない。
一般的な対処法は、とにかく栄養をつけて、できるだけ清潔にして、ひたすら休養を取る。
この前世常識的な常識に落ち着いているのは、古代文明のおかげだろう。これで、もう少し高度な器具や施設が残っていれば、抗生物質や予防接種、麻酔などの医療技術もありえたかもしれない。
しかし、そこまでは残っておらず、この村ではたかが風邪でも命とりだ。
それでも、ユイカ夫人の表情は、沈みきってはいない。
「いつも冬になると、何人亡くなるか、覚悟をしないといけないけれど……今年は誰も死なないかもって、期待してしまうわね」
「ええ、そのために私もがんばりますよ。バンさんもジキルさんも、気合を入れてくれていましたから」
今年の冬は、解熱剤が豊富にあり、食料も豊富だ。
食糧庫では、猫殿の活躍でいつもより鼠から受ける被害が小さい。また、バンさんと一緒に森に入るメンバーが増えたことで、狩りの獲物も、森の恵みも多く備蓄されている。アロエ軟膏の収益で、金銭的な余裕もある。
ユイカ夫人は、そういった余剰を今年は村長家に集めて、風邪を引いた病人に配給することにしている。
例えば、塩と蜂蜜を混ぜた飲料水や、チキンコンソメスープ、肉団子の煮物、ちょっと甘味の足りない干し柿などだ。
解熱剤のおかげで、食欲をある程度取り戻せるため、今年の風邪引き達はこうした食料で栄養を取れる。
たったこれだけのことだが、かなり効果が出ている。食事も喉を通らないせいで、苦しみながら痩せ衰えていく村人が、今年はまだ出ていないのだ。
こうなってくると、意地でもこのまま春を迎えてやろうと踏ん張りがいがある。
私の解熱剤や干し柿、バンさん一家(未婚だけれども)の鳥獣や蜂蜜については、アロエ軟膏の収益で買い取られる形になっている。
バンさん一家は村のためだから、と断ろうとしていたが、これは正当な対価であり、無料だとかえって問題になるとのユイカ夫人の説得により、きちんと清算されている。クイド氏から購入した物品も多く、行商人も大変嬉しそうだった。
ちなみに、我が父が昼間っから酒を飲んでいるのは、この私が得た報酬分を当てにしてのことだと推測している。
残念ながら、私は日頃お世話になっている教会に全額寄付しているので、家に入るお金は鉄貨一枚もない。
我が家の食費が危ういが、フォルケ神官の食事に私と母上のみがお呼ばれする手はずができている。
母上にはこの作戦について話を通し、許可を頂いているので、父だけが絶望するが良い。
くっくっくっ……。
そんな考えが表情に出てしまったのか、ユイカ夫人が困ったように苦笑する。
「あら、またアッシュ君が悪巧みをしているのかしら?」
「おっと、顔に出てしまいましたか? ちょっと、お酒が過ぎる父にお灸をすえる計画を……」
計画を明かしながら、ユイカ夫人の言葉に疑問を覚える。
「また」ってなに、「また」って。
「そう、確かにお酒を飲みすぎるのはいけないことだものね」
「ええ、健康のためにも、断腸の思いで決行するのですが……」
そんなことより、先程のユイカ夫人の言い方では、まるで私がいつも悪巧みをしているかのようではないですか。
私の疑問に構わず、ユイカ夫人は話題を変えてしまう。
「あ、アッシュ君、マイカに会って行く?」
「そうですね。ご迷惑でなければ、お顔を拝見して。ずっと寝ていると暇を持て余すでしょうから」
「マイカもアッシュ君に会いたがっているから、ぜひ会ってあげて。ちょうど良いから、お水も持って行ってあげて」
手渡されたコップを手に、私はマイカ嬢が療養している部屋を覗きこむ。
「マイカさん、お邪魔します」
「い、いらっしゃい、アッシュ君」
マイカ嬢は半身を起こして、寝乱れた髪を手で必死に押さえているところだった。
「起き上がって大丈夫なのですか?」
「う、うん。ちょっと前は熱がすごく辛かったけど、アッシュ君のお薬のおかげで、今は全然平気」
「そうですか、安心しました。こちら、ユイカ夫人からお預かりしました」
「あ、ありがとう、アッシュ君」
塩と蜂蜜入りの水を手渡す。これは経口補水液のつもりで、ユイカ夫人にレシピを提案した飲み物だ。
これまでの九年間の農村生活で、病死する際には、脱水症状も大きな原因になっているのではないか、と考えさせられる事例を目にしている。
風邪を引くと、免疫活動が活発になり、発熱する。
体温を下げようと汗をかく。
その水分をきちんと補給しないと、脱水症状で衰弱する。
この悪循環を断ち切ろうと考えたのだ。
この村の井戸水は、比較的飲料に適しているが、完全ではない。風邪で衰弱した状態では、かなりの確率で下痢の症状を引き起こす。そして、脱水症状が余計に悪化するのだ。
井戸水以外には、美味しくもないお酒もあるのだが、これはこれで肝臓に負担がかかる。すると風邪が治りにくくなってしまうので、井戸水を沸騰させて消毒するのが一番いい。
しかし、沸騰させるには余分な薪を使わざるを得ず、それぞれの家で作るには大きな負担になる。そこで、村長家で一括してやることにして、さらに塩と蜂蜜を混ぜてみたのだ。
「ふぅ、おいしい。これ、好きだなぁ」
「それは何よりです」
少し火照った顔をほんわかと緩めるマイカ嬢は、CMに使えそうな可愛らしさだ。
必要に迫られた塩蜜水だが、地味に美味しいので、これを飲むと病人が嬉しそうな顔をする。つらい闘病の気晴らしになっているのなら、何よりだ。
病は気からと言いますからね。
こくこくと嬉しそうにコップに口を付けるマイカ嬢は、すぐに飲み干してしまった。
「ご馳走様でした」
「はい、お粗末様でした。横にならなくて大丈夫ですか?」
コップを受け取って尋ねると、マイカ嬢はきりっと表情を引き締めて、大丈夫だという。
「アッシュ君のお薬のおかげで、もうすっかり元気だもん」
「そうですか? まだ顔が赤いので、熱がありそうですけれど」
「そんなことないよ。平気、平気。だから、ね? もうちょっと一緒に……」
どうやら退屈を持て余しているらしい。風邪を引いて六日も寝込んでいるのだから、その気持ちはわかる。
だからと言って、甘い顔はしちゃいけないのが看護のお仕事である。
「平気かどうかの自己判断はいけません。熱があるかどうかなんて、すぐわかるのですよ」
「ひゃ!?」
マイカ嬢の少し赤らんだ額に手を当てる。
女性に対して失礼かもしれないが、これは立派な医療行為だ。
やはり、まだ平熱ではない。
「ほら、少し熱いですよ。ちゃんと横になって休んでください」
肩を掴んで、少し強引に寝かせる。
「ふわうぅ……あ、アッシュ君……」
「顔がすごく赤くなっていますよ。やっぱりまだ本調子ではないようですから、大人しくしていてください」
「う、うん……」
布団をかけてあげると、マイカ嬢は大人しく従ってくれた。聞き分けの良い人だ。
前世の私は、もっとわがままだった。育ちの違いを痛感する。
「もう、帰っちゃう?」
「そうですね……」
マイカ嬢は、布団に顔をうずめながら、寂しそうに見上げてくる。
さぞ退屈だろうし、ただでさえ病気の時は人恋しいものだ。ユイカ夫人も看護でお疲れに見えた。
ここは少し、私がマイカ嬢のお相手を務めて、ユイカ夫人に休んでもらうのも良いだろう。
「お邪魔でなければ、もう少しお話をしましょうか。蜂の巣の実験が色々進んだんですよ」
「ほんと? どうなってるの?」
「軟膏とロウソクはひとまず作れるようになりました。軟膏の方は、アロエと合わせてみたらどうなるか、もっと研究したいところです」
「もうできたんだ。やっぱりすごいね、アッシュ君は」
「いえいえ、先人の知恵のおかげです」
ターニャ嬢の一族が伝えてきた本がありましたからね。加工法についての記載も十分にあって、本当に助かった。
「軟膏は、そのうちマイカさんにも実験に協力して欲しいのですが、お願いできますか?」
「もちろんだよ! 今すぐでも良いよ!」
「流石にそれはちょっと。もし副作用があれば大変ですから、私が実験してからでないと、他人には試せないです」
肌に塗るものだから、いきなり女性に試すのは特に気が引ける。
今世の文化的に、女性は外見的な美しさがもてはやされる。一方、男性はそうでもないので、問題があった場合を考えると、実験役は男の私の方が良い。
あと、異性として、個人的にも女性は綺麗な方が嬉しいので、まず私が犠牲になりたい。
「そっか。アッシュ君は、もう使ってるの?」
「ええ、まずは左手だけに塗っています。今のところ順調です。ほら、右手と比べると艶があるでしょう?」
両手を差し出すと、マイカ嬢が手を伸ばして控え目に握りしめる。
「ほ、ほんとだね、うん……。アッシュ君の手……」
「これなら、マイカさんが使ったらまた綺麗になりますよ。だから、実験に協力して頂くためにも、まず元気になってくださいね」
「う、うん! がんばって、早く病気治すから! まかせて!」
まだ幼くとも美への探究心は強いようで、マイカ嬢は気合たっぷりに答えてくれる。
アロエ軟膏も、傷薬というより美容品として重宝されているみたいだし、ミツバチ製品もまずはそういう扱いになるかもしれない。
まだ高級品だから仕方ないけれど、前世でも今世でも、新しい発明品は意図しない需要を満たすことがままあるようだ。