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フシノカミ  作者: 雨川水海
特別展『断章』

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204/281

ぺドラー・クイド1

【灰の底 クイドの断章】

 ああ、こういうことなのか。

 身に染みるように納得したことを、今でも覚えている。

 人はこういう風に腐るのかと、胸の奥、腹の底に生じた気持ち悪さを忘れられることはないだろう。


 死後、火に清められて灰にされなかった肉の腐敗ではない。

 生きていく日々の中、道行きの長さにうんざりした時、終わりの見えない階段にくじけた時、石ころに躓いて転んだ時、足早な他人に追い越された時……もうどうだっていいじゃないか――そう呟く心を侵す、諦めの腐敗だ。


 きっかけは、ただの事故だった。

 行商に行った先、計算のできない村人相手のいつもの商売。客が選んだ商品の値段を思い出して、計算して、金額を告げて、その分の金を受け取る。

 商人なら当たり前の仕事をこなしていたら、計算を間違えた。


 三神に誓っても良い。

 この時は、本当に計算を間違えただけだった。お釣りを手渡した時に、なんかおかしいなと感じて、今の買い物をもう一度計算した時に気づいた。


 間違えて、お釣りを少なく渡してしまった。

 まずい、と相手を呼び止めようと声をあげかけたけれど、その客は気づきもしないで歩き去って行く。


 ――気づいていないなら、鉄貨一枚くらい別によくはないか?


 そんな考えで、安易に飲みこんだ言葉が、腹の底で腐って毒になった。

 その毒は強力で、同じことを、今度はわざとするようになるまで、時間はかからなかった。


 たった一回の間違い。

 それまでも計算を間違えたことはあったけど、いつも慌てて訂正していたし、時にはその客の家まで追いかけて不足分を渡していたというのに、その一切合切がバカらしくなった。

 そんなことしなくたって、誰も気づきやしない。

 真面目にやるだけ損だと思うと、ずるずると決まり事だとか約束事だとか、他のことにも鈍くなった。

 これが俺の腐敗。


 存外、人は簡単に腐るもんだな。我がことながら、そう思った。

 いや、そういう言い方もよくないか。所詮、俺がその程度の人間だった、それだけのことで他の人達まで巻きこむのはよくない。


「お前、最近評判が悪いぞ」


 こんな俺に、わざわざそんな忠告をしてくれる奴なんか、特に人間的な腐敗とは無縁そうだもんな。

 ただでさえ鋭い目つきを、叱責と心配によってさらに直視しづらい状態にしているのは、領軍にいた時に同じ隊にいたバレアスだ。


 当時から生真面目に手足が生えている、と言われていた友人が、久しぶりに飲みに誘ってきたかと思えば、こっちの腹の底に手を伸ばしてきた。


「在庫管理が甘くなったとか、日程がいい加減になったとか、そういう話を商会の人達が噂していると聞いたぞ。俺も近頃、備品管理を任されるから、そういうのはまずいとわかるぞ」

「いや、ちゃんとやってる、やってるよ。ただほら、気温次第で傷みやすいとか、行商中の天気とか、そういうので色々調整が大変な時だってあるからね? 管理するのが自分一人だと、手が回り切らなくてうっかりってこともあるんだよ」


 慌てて言い訳をするけれど、それもわかるが、とバレアスは引き下がってくれる様子がない。

 相変わらず面倒なくらい真っ直ぐな奴だな。冗談の一つも言えないとからかわれていた頃と変わらない。

 黒い腹を探られたくないので、久しぶりに一緒に酒を飲むんだからと、手を振って話題を変える。


「それにしても、備品管理を任されてるって言い回しだと、部下を率いている感じかな?」

「うむ、まあ、そうだな。志願兵の中でも、計算が得意なのを預けられている」

「それは貴重な人材だね。出世街道でしょ、期待されてるってことだね」


 領軍の志願兵には、読み書き計算の教育が施されるが、軍子会の教育ほど力を入れられていない。

 軍の指揮官やら文官になるべき軍子会のメンバーと、下っ端の兵士に過ぎない衛兵志願者の扱いだと、そういう差が出るのは当たり前だ。


 志願兵が教育を受けた後にどうなっているかと言うと、好きな奴はちゃんと覚えるけど、嫌いな奴は自分の名前くらいしか覚えないっていう感じだ。

 軍に志願する連中は、大抵は体を動かす方に自信があるわけで、ちゃんと覚える奴と名前だけの奴の割合がどんなものか、お察しというものである。

 友人は、その貴重なちゃんと覚える奴を、部下として任されたらしい。


「流石だなあ。俺も軍に残っていたら、お前の部下になれたかな?」


 かくいう俺も元志願兵で、読み書き計算をちゃんと覚えたタイプだ。

 勉強が好きだったわけじゃないけど、覚えておけば良いことあるかな、とがんばってみた。あの頃は、俺も地道な努力ができる真面目な奴だったんだ。

 目の前の友人ほど真面目ではなかったけど、と苦笑する。


「クイドは計算が得意だったからな。まだ軍にいれば俺が引っ張ったと思う」

「それはもったいないことをしたかなー。次期領主様の信頼厚いバレアスの部下なら、将来性高かっただろうなー」

「将来性はわからんが、仕事が忙しくてな。計算の早いお前がいてくれたらもう少し楽に……いや、今のクイドは、商人としての経験もあるわけで、さらに頼りになりそうだ。今からでもどうだろう? 俺からイツキ様に頼めば、特に問題なく復帰できると思うのだが」

「待って。どんな長時間の訓練でも弱音を吐かなかったお前がそこまで言うとか、どんだけ仕事きついの? 絶対まともな量じゃないでしょ!」


 やっぱり軍を辞めて正解だったか。前言を撤回して深く頷く。

 元々、俺が行商人になったのは、領主代行のイツキ様の発案によるものだった。領内の行商人をもう少し増やしたいというご意向だったらしい。


 行商人に必要な能力として、読み書き計算ができることと、少数ないし個人で旅ができる程度に護身を心得た、体力のある若い人材。

 そして、領主代行様のお手元には、領軍という人材箱があった。


『誰か、行商人やってみない? 今なら開業資金を支給するし、仕入れ先の商会も世話しよう。行商先はこちらで指定することになると思うが、どうだろう?』


 つまり、領主の力で、仕入れ先も売り先も、最初の商品を買う金すら用意してくれるというわけだ。

 俺はすぐに手を上げた。

 だって、衛兵の仕事きついし、給料はそこまでよくないし、恋人もできないし。それなら、行商人になれば、厳しい上官はいないし、上手く行けば大儲けできそうだし、お金があれば恋人になってくれる人もいるかもしれない。


 ――思えば俺は、あの頃から結構不真面目だったかもしれない。

 ちょっと決まりが悪いことに気づいたので、俺は全力で目をそらした。


 とにかく、俺は領主代行様の意に沿うべく、衛兵を辞め、もっと楽な生活がしたいと大志を抱いて行商人になった。

 結果、行商はきついし、儲けは少ないし、出会いすらない……という状況に陥っているわけだけども。

 せめてお嫁さんがいてくれたら、もうちょっと俺もがんばれると思うんだけどね。多分。


 ちなみに、俺が特別モテない男というわけではないよ? 俺の周囲の男達の結婚は、他の世代と比べると明らかに少ない。

 なぜなら、年頃の女性達が「できればあの人が良い」という男が同世代にいるのだ。


「なあ、バレアスは結婚まだ?」


 そう、それこそ我が友バレアスである。

 真面目で冗談も言えない堅物だとからかわれるこいつだけど、だからこそ結婚相手として見れば申し分ない。同じ男だけれど、そこは俺も認める。

 だって、家庭もすごい大事にしてくれるよ、こいつ。稼ぎは間違いなく安定しているし、見た目もばっちりだ。


 そんな男が独身なのだ。

「自分にもまだあの人と一緒になれる機会があるかと思うと、他の人に目を向けられない」という女性の多いこと多いこと。俺にそんな女性達を振り向かせる魅力はない。


 後、領主代行のイツキ様も同世代っていうのも、地味に効いていると思う。

 ちくしょう、モテモテの人達はさっさと結婚して、お嬢様達に別な男に目を向けさせてくれませんかねえ!


「いや、結婚はちょっとな……」


 願い空しく、バレアスの結婚はまだまだ遠そうであった。


「まだダメかー。俺としては、早くお前に身を固めて欲しいんだけどねー?」

「すまん。こればかりはな」


 バレアスは眉根を寄せて困った顔をした。うーん、雨に打たれた犬のような表情だ。

 普段の隙のない様子から一転して、この弱いところがあると訴えてくる落差。色んな意味で、うら若きご婦人方の悲鳴が聞こえて来そうだ。


 お前、ほんと、そういうところが余計にモテるんだよ!


 バレアスが持って来た酒壺を掴んで、カップに溢れるくらい注いだのは、急に酒が欲しくなったからだ。他意はめっちゃある。

 ぐびーっと飲み干してから、同世代の男を代表してバレアスに結婚を勧めまくる。


「わかった、わかったから、勘弁してくれないか」

「それはこっちの台詞なんだけどね!」


 持ち前の魅力と、たゆまぬ努力と、立派な誠実さで女性を独り占めするのはよくないと思う!

 あっ、ダメだ、これじゃただのひがみにしかならない! でも本当に勘弁してくれない!?


「俺もいい加減に結婚したい……。見た目がどうこうなんて贅沢言わない。ただ、行商から帰って来た時に優しくしてくれる人が欲しい。バレアス、誰か良い子を紹介して」

「俺もイツキ様に紹介される方なんだが……。ああ、お前も軍に戻って来れば、イツキ様が紹介してくれるかもしれんぞ?」

「いや、俺はもう軍人とか無理だよ」


 ひらひらと手を振って即答する。

 今の俺が軍に戻ったら、すぐに不正をやらかして首になるだけだ。そうなったらお前にも迷惑がかかるし、幻滅される。

 流石に、尊敬すべき友人であるバレアスに見限られるのは、きつい。多分、想像よりもずっと痛い気持ちになるだろう。


 いや、でも、あるいは……バレアスに捕まって、はっきりと怒ってもらった方がすっきりするのかもしれないな。

 腐った人間は、手ひどい目に遭って最後を迎えるのが道理というものだ。


「まあ、その時は頼むよ、バレアス」

「うむ、任せておけ。倉庫整理の季節は冬だから、できれば秋に入ってくれると助かる」


 そういうことじゃないんだけど、本当のことは言えないので、ただ頷く。

 でも、もし軍に戻るとかそういうことになったら、その時は絶対に春になってからにするからな。


 お前がそこまで苦手意識を持つとか、どんだけきつい仕事やってるの?

 お前の結婚もそうだけど、仕事についてもちょっと心配になるよ。

 俺みたいにダメな手抜きや悪い儲け方をしろとは言えないが、力の抜き方を覚えないと潰れそうだぞ。


 なお、バレアスよりももっと厄介なバレアスの親戚に捕まったのは、この次の行商のことである。



****



 お釣りの誤魔化しが、とうとうバレた。


 あ、これ死んだな。


 そう思ったけれど、どっこい生きている。

 運がよかった? いやいや、とんでもない。


 ねえねえ、信じられる?

 こっちの不正をほのめかしておいて、「ただ間違っていただけですもんね。ところでそちらの布は素敵ですね?(黙っててあげるから、それ頂戴)」って暗に強請ってくるような人がいるんです。

 しかも、十歳になってないような小さい子で。


 悪魔かな?

 おかしいね、あの子の赤髪には角とか生えていなかったと思うけど、よく探せばあったかもしれない。


 しかも、「私を信用させてくれる、良い行商人でいてください」って言われた。

 見逃してあげるから、今後も末永く都合の良い存在でいてねって特大の釘を刺されたわけだね、はははは。


 そうだね、魔王だったね。


 ぐわー! ダメだー、もう人生お終いだー!

 バレたら私刑にされるかも、くらいは想像してたけど、まさかこんな首に縄をくくられた状態を強いられるとは考えていなかった。

 実質、これって奴隷状態なのでは? ははは、借金も暴力もなしで奴隷にするとか、すごくない?

 少なくとも、自分にはできない。


 世の中、小さくても侮ってはいけない人っているものだね。

 すごい人は、すごい。できれば、もうちょっと無害な形で、できれば利益ある形で実感したかった……。


 今後、どんな無茶な要求されるかわからない、というのが恐すぎる。

 しかも、本当に他の誰にも、お釣り誤魔化しのことを告げ口していないかどうかも不安だ。


 重い足を引きずりながら、領都イツツに帰って来て、一番先に俺がすがったのは霊験あらたかな神殿ではなく、友であるバレアスだった。

 夜分だとかそんなことも考えず、バレアスの家のドアをノックする。


「む? クイドか。どうした、こんな時間に?」

「バレアス、領軍に戻る話って、待遇どんな感じになるか聞いていい?」


 いざという時の逃げ道の確保である。最悪、あの村に近づかない、という防御手段が必要なのだ。

 当たり前だが、突然の申し出にバレアスは首を傾げる。


「いきなりどうしたんだ。前は乗り気じゃなさそうだったのに」

「いや、それが……ええと、行商先で、ちょっとすごい人に睨まれちゃって……」

「すごい人? 村長辺りに粗相でもしたのか?」


 偉い人じゃなくて、すごい人だよ。

 まあ、詳しく聞いてくれるな。説明しても信じにくいだろうし、お前には特に言いづらい。

 バレアスの赤髪を見て、強くそう思う。


「とにかく、下手すると行商を辞めた方がいいかもってことになりそうだから、再就職先も確保しておこうかなって……」

「どんな失態をしたかによっては、話が変わることもありえるんだが……。衛兵は法を守る側の人間だから、素性は大事だ。わかるだろう?」


 そうだよね! わかる!

 でもすがりつく。逃がさないぞ、いざという時の逃亡先!


「そんなこと言わないで! 真面目になるから! 今日から俺は生まれ変わった! もう二度と悪いことしない! 昨日までの腐ったクイドは炎で焼き清められたんだ!」


 多分、腐敗クイドは灰になって、ノスキュラ村の畑に積もったんじゃないかな!

 麦となれ!


「待て、なんだその必死さ! お前、本当になにやらかした! 取り返しのつかないことをしたんじゃないだろうな!」

「やらかしてない……こともないけど、そんなことまではやってない! 取り返しはつく、はず!」


 お釣り誤魔化した人達に、今度こっそりとその分の代金をサービスすれば取り返したことになるはず!

 ……利子って考えもあるから、ちょっと多めにサービスもするから許して欲しい。


「やっぱりなにかしてるじゃないか! 一体なにをした!」


 自業自得の弱みを握られて脅迫されてるだけですー!

 しかも、多分お前の親戚にー!


 もちろん、そんな事実は言えないので、ひたすら助けて助けてとすがりつく。冷静に考えて、我ながらとてつもない胡散臭さだよね。

 尊敬すべき我が友は、尊敬に値する真面目さで、「事情を話さないなら領軍への復帰の口添えはできない」と断言してしまった。


 つまり、いざとなったら事情を話せば助けてくれるということだ。

 優しい。


 いざという時の逃亡先を確保したので、俺は勇気を奮い立たせて、新たな商人道の一歩を踏み出すことを声にする。


「真面目に、コツコツと、商人の仕事をする! よし、これだ!」


 人間、真面目が一番だよ。

 信頼っていう黄金の財産を得られるんだもの……。

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― 新着の感想 ―
クイド視点ずっと楽しみにしてました! 待ってました。
[気になる点] そういえばクイドさんって奥さんどんな人だったんでしょうね。領主お抱えの大商人に奥さんが居ないなんてことは無いでしょうが本編に関係ないからか一切言及ないし(見逃しただけかも)。 [一言]…
[一言] クイドさん、お釣りちょろまかす悪い人だったけど、 こんなにいい加減な人だったとは・・・。
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