添え木の紡ぎ手
【灰の底 フォルケの断章】
「本を貸してくれて、ありがとうございました!」
マイカが、丁寧に――というには勢いをつけて、頭を下げる。結われた黒髪が鋭い音を立てて振り下ろされる速度だった。
俺フォルケは、マイカが差し出した本を受け取って、どういたしまして、とそれなりの礼儀で返す。
この本、俺が勉強用に貸していた説教集である。これが返って来たということは……。
「文字、もう覚えたのか?」
「うん! でも、まだ本を読むってなると、文字はわかっても意味わかんない言葉が一杯で……。後ね、書くのもすごく難しい。まだお手本がないと思い出すのが大変で……」
アッシュ君は遠い、とマイカは肩を落として呟く。
いやいや、十分すげえことだからな。ユイカさんに聞いたが、前からやっていた村長家の勉強も大して進んでなかったところから、あっという間に文字を覚えたらしいじゃないか。
薄っぺらい聖句集ではあるが、文字の種類は十分にある。多分、一通りはあるだろう。
それを覚えるために要した期間、二カ月ほど……まあ、途中で一度、葬式(未遂)が入ったので返してもらったけれど。
「どれ、マイカ……これは読めるか?」
「うん! え~と……」
試しに、聖句集の適当なところを開いてみせると、マイカがすらすらと読んでみせた。本当に覚えているようだ。
すげえもんだな――つい、王都の方角に意識を飛ばして感心してしまう。
ここはあの場所から遠く離れた辺境で、その中でも貧しい農村、そのはずだ。
王都で育った俺の常識からすれば、この土地の知識レベルは最底辺で、教育なんていくら施したところでなんの芽も出ない、知の荒野のはずだった。
田舎者は、それだけで一生涯田舎者、下賤の生まれはなにをしたところで下賤のまま、決して洗練された教養を身につけることはできない。
王都では、そんな風に考えられていたものだが……。
それがどうだ。
アッシュとマイカ、この二人は教えたらすぐに文字を覚えた。
俺は詳しくは知らんが、マイカの方はユイカさん絡みで良い血筋らしいが、アッシュなんか正真正銘の農民の生まれだ。
それが、生まれた土地も、生まれの血筋も、頭の出来になんの関係があるのだと主張するように、知の荒野と思われる大地に芽吹いた。
「大したもんだ。いや、感心したよ。アッシュもそうだが、あっという間によく覚えられたもんだ」
「えへへ、アッシュ君ががんばって教えてくれたからね。好きな言葉だと覚えやすいよ!」
「ふむ。確かに、好きなことや興味があることの方が、集中しやすいか」
俺にとっての古代語研究みたいなものだ。気がつくと日が暮れているからな。覚えやすいのも納得だ。
「ちなみに、マイカはどの言葉から始めたんだ?」
「三神様へのいつものお祈り! 逞しき狼神、賢き猿神、猛き竜神。その大いなる力を今日も与えたまえ!」
「ああ、アッシュが最初に覚えたやつか」
これ以上は手を煩わせないとか言った直後に、口なら煩わせてもオッケーと詭弁をかましたやつだ。
こいつは絶対に悪魔の関係者に違いないと確信した瞬間なのでよく覚えている。多分、一生忘れねえ。
俺にとってはそんな印象深い聖句だが、マイカにとってもかなり特別であるらしい。
「え、えへへ、そうなの。アッシュ君がこれから始めたって言うから」
なんて顔を赤くして照れている。
若い娘がそんな顔するのはどういうことか、まあ察しはつくわな。
教会で勉強しているところをたまに覗けば、マイカは大抵アッシュの顔を見つめているし。勉強なのかアッシュ鑑賞なのかとツッコミを……いや、勉強中あれだけよそ見して文字を覚えるのに二ヶ月とか、むしろすごいな?
「で、その好きなアッシュは――」
「すっ――!?」
あ、すまん。
(わざと)間違えた。
好きな言葉を教えてくれた(もっと好きな)アッシュ、だな。
「そのアッシュは、今日は来ないのか」
「あ、うん。今日は畑の手伝いが忙しいからって……」
残念という文字は、今のこの娘の姿から作られたのではないか、というくらいにシュンとなった。
一喜一憂が全部アッシュに繋がっているわけだ。これが惚れた弱みというものか。
見ている分には面白い。
ああ、これは普通に間違えた。
見ている分には(ものすごく)面白い。
俺も若い頃は、周囲含めて色恋の話がいくつもあったが、借金が~とか家の後継ぎが~とか、愛を育むというよりもお家の存続のための身売りか、よく肥えた獲物の狩猟みたいな話しかなかった。
あれ以来、どうも人様の顔に、「人間関係は面倒」という書名がくっついて見えてしょうがない。
間違ってない認識のはずだ。
久しぶりにまともに他人と話をしたなと思ったら、アッシュなんて特大の面倒事を、この腕に抱えこむ羽目になったんだから。
おかげで、アッシュと比べたら大抵の面倒が気にならなくなった。目の前のマイカとか、可愛いもんさ。
「そうか。それじゃあ、今日は俺が勉強を見ようか」
「えっ、いいの!? アッシュ君、フォルケ神官は先生の癖に自分のやりたいことにかまけっきりで本当に良い先生ですよね、って笑ってたから、忙しいんじゃあ……?」
「はっはっは、マイカはアッシュの真似が上手いなぁ」
あのクソガキ、村長家の娘っ子になんて皮肉を利かせてやがる。口の悪さが移ったらどうすんだ。
後でユイカさんに告げ口してやる。
「なに、学ぶ側にやる気があるなら、先生ってのは黙って見ているくらいで丁度良いのさ。教えることでわかることもあるって言うくらいだ。アッシュもその方が勉強になる」
決して、自分の研究を優先するために放置しているわけじゃあないんだ。
自分の研究が第一だって言うのは否定しないが。
「それに、俺が教えるより、アッシュに教わった方が、マイカもよ~っく覚えられるだろう?」
なにせ、好きなんだから――と言外に滲ませて、しれっと言ってみれば、火がついた蝋燭みたいにマイカが赤くなった。
あるいはもっと詩的に、花が咲いたような、と言うべきか?
「これからも、アッシュがいる時に俺は出しゃばらないから、二人でじ~っくりと仲を深めると良い」
「あぇ? あ~、え~と、その~ぅ……」
「それとも、勉強の度に俺がお邪魔した方が良いのか?」
途端に、マイカの赤い顔がぶんぶん振られる。方向は、もちろん横だ。ははは、だろうな。
マイカの黒髪が、鋭い動きでビュンビュン襲いかかって来るのを、後ろにのけぞって避けながら笑う。
「あ、ご、ごめんなさい! その、フォルケさんが嫌いとか、そういうのじゃなくて……!」
「わかってる、わかってる。意地悪を言ったのはこっちだから、謝る必要はないぞ。これからも、ちゃんと奥に引っこんでるから、安心すると良い」
自分でもびっくりするほど強く拒否してしまったのだろう。慌てて恐縮するマイカの頭を、掌で軽く叩いてやる。
「え、えっと、その、ありがとうございます、フォルケさん」
「なに、良いってことよ。別に俺の手間が増えるわけじゃないからな」
むしろ、教会としての役割をアッシュに押しつけて、自分の研究ができるんだから最高だ。
「んと、その、お勉強の時のことも、初めての時からアッシュ君のこと気遣ってくれたし……前の、アッシュ君のお葬式の時とかも、はげましてくれたし……。色々と、その、ありがとうございます」
「礼を言われるほどのものでもないさ。これでも教会つきの神官だからな」
教会神官は、なにも読み書き計算を教えるばかりが仕事というわけでもない。
神殿が保有する種々様々な学識を用いて、日常生活の悩み事を切り分けるのも仕事のうちである。
俺は医学や冶金学、博物学なんかは専門外だが、文学は範疇だ。
傷ついた心が折れないよう、添え木代わりの一言くらいは、さらりと差し出せるさ。




