灰の子
【灰の底 アッシュの断章】
風の冷たさで、浅い眠りから揺り起こされる。
川岸という立地のせいか、それともまだ冬の名残がある季節のせいか、絶賛遭難中の夜は冷えこむ。
疲れと眠気で重い体をもぞもぞと動かして、小さくなりかけた焚火に枯れ枝を放りこむ。
これで、ちょっとは温かくなって、もう少し眠れるだろう。
うとうとと、眠れそうで眠れない不快な待ち時間を耐える。その最中、肩にかけたケープを抱くように掴んでいる自分に気づいた。
心まで冷えるような遭難の夜、このケープだけが温かい。
この一枚の外套が、夜の冷たさから小さな体をかばうように守ってくれている。
「帰ったら、母さんにお礼、言わないと……」
この外套は、母上がくれたものなのだ。あの日は、もっと寒い冬の日だった。
焚火の熱を顔に感じながら、意識がまどろみに沈んでいく。
****
目を開けると、白く色づいた吐息が目の前にあった。
厚かましい居候の隙間風さん(複数形)が悠々と出入りする我が家は、冬の朝が大変寒い。
そんな中、今日も一番早くに目を覚ましたのは、面倒見の良い働き者である我が母上だ。
温かい布団から抜けるのは想像を絶するほど億劫であろうに、竈に火を入れて家を温めるため、今日もいそいそと起き出したようだ。
まったくもって、尊敬に値する。この冷え切った空気の中、いつも母上にばかり朝支度をさせるのは心苦しいので、私ももぞもぞと起き上がる。
「あら、おはよう、アッシュ……。まだ寝てても良いのよ」
「ありがとうございます……でも、起きます」
そう言ってくれる母上だからこそ、朝の苦労を一から十まで任せっきりになどできませんよ。
胸に灯った孝行心で暖を取りながら、ベッドから抜け出す。最後の一人が父上なのは、もはや我が家のお決まりである。
まあ、この人が早起きしても、水汲みくらいしか朝は役に立たないんですけど。
「ふふ、偉いわね、アッシュは……」
「もっと偉い母さんの子供ですからね」
しかし、流石の母上も冬の寒さで寝不足なのか、いつもより声がふわふわしてらっしゃる。
「とりあえず、火を起こしますね。水汲みは後で行きますから、母さんは朝食の準備をお願いします」
「あら、ありがとう。そうね……お願いしようかしら……」
夜のうちに準備してあった細い枝で、竈の灰をかき回す。
灰の底から、まだ十分な熱を持った炭、埋火を掘り出す。この熱い奴に、これまた準備しておいた麦藁をかぶせると、冬の長い一夜を耐え忍んだ火種が、すぐに火を起こしてくれる。
「おい、シェバ?」
母孝行をしていると、ようやく父も起きたようだ。
振り向くと、父は恐い顔をしていた。寝起きの、いつものぐうたらな父ではない。
嫌な予感がして父上の視線の先を追う。そこには、働き者の母が、なにをしようとしていたのか忘れたように立ち尽くしている。
ふらりと、その頭が頼りなげに揺れた。
「シェバ! 危ない!」
咄嗟にベッドから飛び出した父が、倒れこんだ母を抱き留める。
父よ、珍しく偉いですね! 私は安堵したが、父の表情はさらに青くなる。
「アッシュ! やばい、こいつ熱があるぞ!」
「風邪ですか!? それはまずいですね!」
青ざめた父の鏡写しのように、私も血の気が引く。
まずい。どれくらいまずいかと言うと、医者も薬師もいない村では死ぬことも珍しくないくらいまずい。
「父さん、とりあえずベッドに寝かせて下さい!」
「わかった! あ、アッシュ、薬! クイドから買った薬があっただろ! あれどこにしまった!」
「今持って行きます! 父さんはお水を用意して下さい!」
男二人でバタバタと駆け回る。
とりあえず、我が家に常備してある薬のうち、解熱剤と言われているものを父上に渡す。
効き目があるのか怪しいので、期待は薄い。だから、看病に力を入れねばならない。
「ええと、そうですね。とりあえず、薪をもっと燃やして部屋を暖めましょう。あと、お湯を沸かして飲み水をちょっとでも安全にして、ご飯は食べやすくて栄養のあるものを……と言いたいのですが」
栄養価の高い食べ物なんて、冬の我が家にはちょっと期待できない。
今の村で手に入る食材から、せめて食べやすいレシピを考えこむ。が、選択肢がなさすぎですよ!
「食べ物か? どんなのがあれば良いんだ?」
「え、ああ、そうですね……。牛乳とか、卵とか? 肉なら鶏肉が、比較的食べやすくて体に良いと思います。あ、蜂蜜とか、果物もあれば……」
風邪でも食べやすいものが作れるのに、どれもこれもない!
ほんと私の故郷ってば絶望集落!
「よし。牛乳と鶏のやつ、蜂蜜とか果物だな。任せろ!」
「任せろって、父さんにですか?」
「都市まで走って買って来る! 今から行けば日暮れには間に合うだろ!」
「都市ならあるかもしれませんが、どこでそれらが手に入るか、わかってますか?」
「わからん! が、都市に親戚がいるんだ。そいつに頼んで教えてもらえば良い!」
なんたる行き当たりばったり。
とはいえ、もしも手に入るなら風邪で弱った我が母にはとてもありがたい。一縷の望みをかけて、母上が管理している(父上には内緒の)我が家の財産を取り出す。
「父さん、これお金です。使い切って良い、とは言えませんが、母さんの命には代えられないので使い切ってもやむなしです。後で母さんが怒ったら一緒に謝りましょう」
「おう、そん時はマジで頼むぞ。俺はすぐに行って来るから、お前はシェバのそばにいてやってくれよ」
「お任せ下さい。こちらはご心配なく。いざとなったらご近所さんにも手伝ってもらいますから」
握った拳を、父の大きな拳にぶつける。久しぶりに父上が父らしくてちょっと感動しましたよ。
走り出した父の背を見送って、さて、とベッドの上、苦し気に細い息を吐く母上に振り返る。
「母さん、母さん。これからちょっと外に水を汲みに行って、薪を取って来ますからね。すぐに戻りますから、心配しないで、ゆっくり寝てて下さいね」
これから母上には、温かいところでゆっくり睡眠を取って、水分も栄養もたっぷり取ってもらわないといけない。
そのための準備ができるのは、我が家ではもはや私だけだ。
「アッシュ……待って……」
「はい、なんです? 寒いですか?」
「そうね、寒いわね……。だから、外に行く前に……」
母上が、自分の肩に羽織っていたケープを外して、私の首に回す。
「温かい恰好を、しないとね……。アッシュが、風邪を引いたら、大変……」
今、大変なのはあなたでしょうに。思わず、大声で言い返したくなる。
これが母か。
高熱で意識が薄れているだろうに、そんな状態でなお、私なんかの心配をするなんて。
丁寧にケープの紐を結んで、これで大丈夫、と母が微笑む。
「お下がりで悪いけど、アッシュにあげるわね……。これで、わたしになにかあっても、アッシュを、寒さから守ってあげられるわ……」
それは、今にも崩れてしまいそうな灰のように、綺麗だけれど、見ていられない笑い方だった。
「大丈夫ですよ、母さん。なにかなんて、起こさせませんからね」
背伸びして、母さんを抱きしめる。それから、急いで水汲みと薪運びのために飛び出す。
冬の寒空の下だと言うのに、ちっとも寒くなかった。
****
目を開けると、そこは我が家ではなく、村でもなく、森の中の川岸だった。
目の前では、焚火が頼りない小ささで揺らめいている。慌てて枯れ枝を焚火に食わせてやりながら、ケープの結び目に手をやる。
「ありがとうございます、母さん」
おかげで、遭難中の野宿だと言うのに、温かく眠れました。




