灰の底2
私が薄い写本を読み終えたのは、借りてから一月が経ってようやくだった。
見知らぬ文字が手強かったというのもあるし、手書きの写本ゆえに読みにくかったということもある。
だが一番の原因は、暇がないことだ。
一月前、秋の収穫が終わり、農作業が一段落していたのだが、だからといって農民が暇になるわけではなかった。
次の収穫に向け、畑に冬麦をまいて来春に備えなければ飢え死ぬし、越冬の準備をしなければ凍え死ぬ。
わずかの怠慢で即死とか、難易度が高すぎると思う。慰めになるのは、越冬といっても雪がほとんど積もらないので、雪国よりは死亡率が低いということだ。
慰めが必要最低限未満すぎる。
「というわけで、次の本を貸してください」
「なんだ、もう飽きたのか」
フォルケ神官は、相変わらず寝不足の顔で呆れを表現する。何故呆れられているのかわからない。
「むしろ、一ヶ月もかかったと思っていますけど?」
「たった一ヶ月だろう。文字を覚えるのに一ヶ月なんて、何もしてないのと同じだろうが。誰かに教えてもらってないなら、なおさらだ」
「あれ?」
話が食い違っている。
どうも、この本で文字を覚えることをあきらめたと思われているらしい。
少しムッとしたが、前世らしき記憶がなければ妥当な推測だ。人品を知る私としては、本を貸してくれた恩義を思い、丁寧に言い直す。
「いえ、この本の字はもう覚えました。だから、次の本を貸してください」
「はっ、嘘ならもう少しマシな嘘をつけ」
心底馬鹿にした調子で笑われ、私の中の全恩義が消費され尽くした。
「ほほう。いたいけな八歳児を、なんの根拠もなく嘘吐き呼ばわりですか」
「根拠もなにも、一ヶ月で文字を覚えるなんて無理だ、無理。大体、最初の一文しか読めなかっただろ。それも俺が教えた部分だしな」
こちらの話に耳を傾けて頂けない。話が通じないのでは仕方ない。話が通じない相手に文明人として取りえる手段は一つっきりである。
戦争だ。
それもただの戦争ではない。これは聖戦である。
聖職者の身でありながら、人を信じるより疑う方が先に立つ外道を正す、文句なしの聖戦。
人を信じることができない悲しい人間性の足元をすくって、すっ転ばせてやる。
「もし、私が覚えていたらどうします」
「ないない、ありえない」
「では、私が覚えていた場合、フォルケ神官の管理下にある全ての本を借りる権利を要求します」
「おお、良いとも。いくらでも貸してやる」
どうやって証明する、とフォルケ神官が不健康な顔で笑う。
「そうですね……」
他の本を読めば良いのだろうが、本は全て手書きだ。
ひどい癖字の本を引いた場合、万が一の事故がありうる。最初の見本にしたフォルケ神官がひどい癖字という可能性もありえる。
「あ、良いことを思いつきました。紙とペンを貸してください」
「なにする気だ」
前世と違い、紙とペンも中々のお値段がする。少なくとも農民の家には存在しない程度には高い。
だから、私の文字を書く練習は、木の棒で地面に書いたり、木の板に水で書いたりすることになった。
「契約書を書きましょう。今言った、私を嘘吐き呼ばわりした罰に、本を貸すっていう契約書。一石二鳥でしょう?」
私が覚えた字は、フォルケ神官の字が見本だ。お互いに読めないほど差異が出る可能性は低い。
もし、書いた文字が間違っていれば契約自体が無効になるし、あっていればそのままフォルケ神官の署名をもらう。
そう目論見を話すと、流石にフォルケ神官も緊張したようだ。ありえないと思いつつ、契約という強制力が発生する行為を持ち出され、ひょっとしたらと考えが過ぎったのだろう。
「どうします? 別にやらなくても良いですが、その場合は謝罪を頂きたいですね。純真な子供を嘘吐き呼ばわりしたのですから、私はひどく傷ついてしまいました。悲しみの涙が止まりません」
悲しげに顔を押さえて、できるだけわざとらしく泣き真似をする。挑発である。
私のようなクソ生意気な子供に謝るなんて真っ平ごめんだと思ってもらった方が、都合がいい。
嬉しいことに、フォルケ神官は乗ってくれた。
「毛ほども傷ついてないくせになに言ってやがる……。よぉし、その魔物並に分厚い面の皮をひっぺがしてやるぞ、クソガキ」
フォルケ神官は肩を怒らせてペンと紙を用意しに行く。
よし勝った。
ところで、他の大人からも聞いているけど、魔物って本当にいたりするの、今世? 子供が危険なことをしないように脅しているだけですよね?
前世の記憶らしいものを持っている、なんてスピリチュアルなサムシングに遭遇すると、その他の不思議現象も安易に笑い飛ばせなくなって困る。
「ほれ、書けるものなら書いてみろ、クソガキ」
「はいはい」
腕を組んで強がっているけれど、目元に不安が滲んでいますよ、フォルケ神官。
羽根ペンにインクをつけて、ざらついた紙にゆっくりと字を書いていく。書き慣れていないので、さらさらとは書けないのだ。あと、羽根ペンも使い慣れないので難しい。
「地面に書くのより難しいですね、これ。我ながらひどい字ですけど、読めます?」
書き終えて、汗もかいていないのに額をぬぐう。
確認した先のフォルケ神官の顔色を見て、読める字であることを確信した。
「では、フォルケ神官、音読をお願いします」
「本当かよ、ほんとに、一ヶ月で文字を覚えやがった」
驚き過ぎて音読してくれなかったが、私が書いた文面はこうだ。
『根拠なく人を嘘吐きと言った罰として、神官フォルケはアッシュに対し、今後管理下にある全ての本の貸与を、無制限に認めるものとする』
本当に表音文字で良かった。これが表意文字なら一ヶ月で覚える自信はとてもなかった。
表音文字より字が複雑になり、数も多いだろうからだ。発声する音と、該当する文字を覚えれば、話し言葉の形でなら簡単に書ける表音文字は、この点は非常に便利だ。
「お、お前、いやアッシュ! どうやって字を覚えた。だって全く読めなかったじゃないか!」
がっしりと肩を掴まれて問い詰められる。恐い。
亡者神官と呼ばれたその顔でつめよられると、頭からかじりつかれるかと思う。
「どうもこうも、初めに教わった一文の文字を覚えて、別な文にあてはめて、分からない文字は推測で埋めていっただけですけど」
ちょっとした暗号解読だ。
いくつかの文は八年間で聞いたことがあったので、それから解読していけばわからない文字もかなり埋められる。
とはいえ、まだわからない文字があるかもしれないし、文字はわかっても意味がわからない単語もある。
まだ本を読んでいるというより、勉強中といったところだ。
どれほど驚愕しているのか、フォルケ神官は倒れ込むように椅子に腰を下ろした。
そんなに驚かなくても良いではないか、という気はする。しかし、識字率がゼロに近い農村で、八歳児がやらかしたと思えば、腰が抜けるほど驚くような気もする。
ともあれ、そんなことはどちらでも良い。これにて契約はなされた。契約書に名前を書いてもらい、次の本を借りよう。
「できれば、同じ単語が出てくるような宗教関係の本で、読みやすい物語でお願いします」
聖人の物語とか、教訓譚みたいなものが良い。大抵わかりやすい語彙が使われているし、読んでいても面白い。
やや呆然としたフォルケ神官に本を選んでもらい、私は晴れやかな笑顔を浮かべた。