無音の声3
【灰の底 ジキルの断章】
バンの兄貴、ついに声をあげる。
この大事件に、俺は軽くパニックになったんだと思う。兄貴と別れた直後に、アッシュのところへ報せに走った。
「兄貴が喋った!」
「どんな不吉の前触れですか! 空でも落ちて来るんですか!」
アッシュも混乱したので、パニックしている俺が混乱しているアッシュについさっきあったことを説明する。
「というわけで、兄貴も養蜂のことを色々と知りたいみたいなんだ。それについてだけは、声を出して喋る。ああ、ええと、兄貴にしては割と喋る、ってだけだけど」
それもぶつ切りの単語だけで済ませようとするのは変わらない。
そうすると、どうなると思う?
俺がもどかしさに悶える羽目になるんだよ。
俺もまだわかっていない養蜂の話をするのに、兄貴がなにを知りたいのかが上手く伝わって来ない。
「それがすっげえつらい。俺、アッシュが勉強会で教えてることがすげえとは思ってた。思ってたけど……! 思った以上にすげえってことが、兄貴に教えていてよくわかった!」
教えるの、大変。アッシュ、えらい。お前の勝ちでいいよもう。
「まあ、教えるのは確かに大変ですけど、生徒がいきなりバンさんというのは私でもきついと思いますよ。バンさんは長く喋ると死んでしまう呪いにかかっていますからね……」
「本当にそういう呪いにかかってそうだから、笑えそうで笑えねえよ」
声を出してくれ、と祈りながら話しかけていたはずなのに、いざ兄貴の声を聞いた瞬間に頭が真っ白になったもんな。
びっくりしすぎて腰が抜けるかと思った。
「ですが、そんな呪いのかかったバンさんが、割とスムーズに話をしてくれるネタがあったとなれば、大きな前進ですね」
「そう! そうなんだよ! これをきっかけに普通に話せるようになってくれればなって思ってさ」
でだ、ここまではびっくりはしたけど、ただ喜んでいれば良い話。
ここから先は、頭が痛くなるような悪い話。問題が増えた。
「姉ちゃんが勉強している蜂のことについて、俺もちゃんと覚えないと兄貴に説明できない……」
でしょうね、とアッシュはにっこり笑顔だ。
「お勉強、今まで以上にがんばりましょうね?」
「ああああああ、今やってる字の読み書きだって難しいのにぃ!」
隣で聞いてるだけで頭がこんがらがるような、養蜂のことまでやるのか!
いや、いつかはやらなくちゃと思ってたけど、俺、まだ、字も覚えてない!
「ダメだ! できる気がしねえ……!」
「大丈夫、大丈夫ですよ。一度に覚える必要はないんですから。ちょっとずつやっていけばそんなに大変ではありませんよ」
「本当かよぉ」
アッシュやマイカは頭が良いから、そんな簡単に言えるんだよ。
ああ、兄貴の口下手を直そうってだけの話が、なんで俺の勉強まで絡んでくるんだ。
おかしいぞ、問題を解決しようとしたら問題が増えてる!
俺が頭を抱えてうずくまっていると、アッシュが軽く握った拳で肩を叩いた。
「まあまあ、やってみないうちからあきらめるのはよくありませんよ。それに、バンさんにはそれなりに説明できたんでしょう?」
「それなりっていうか……姉ちゃんとアッシュが話してたことを聞いてて、面白かったことを覚えてたから、それを漏らしただけなんだけどさ」
「脇で聞いていただけで覚えられたんですから、大したものです。本腰を入れて勉強すれば、ジキルさんならもっと覚えられますね。覚えやすいところから、順番に始めていきましょう」
「そうかぁ?」
う~ん、そう言われると、それならできそうって気がしてくる。
「バンさんだって、いきなりなにからなにまで教えてもらえるとは思っていないですよ。いっそどうでしょう。バンさんが知りたいことがなにか聞き出して、それを勉強会でジキルさんが覚える。それをバンさんに教えて、次に知りたいことを聞き出す。……そういう感じで進めては?」
「お、なにそれ、よさそうじゃんか!」
それなら、俺が一度に覚えることも少なくて済むし、兄貴に喋らせるチャンスがある。
「それでやってみる! 助かったぜ、アッシュ!」
「いえいえ、養蜂については、私が解決したい問題ですので」
「あ、そうか」
アッシュの言葉に、思わず声が出た。
なんです、とアッシュが首を傾げるのに手を振って、なんでもない、と言う。
ただ納得しただけだ。
俺が兄貴の無口さを解決しようとしているように、アッシュは養蜂のことを解決しようとしている。
そりゃあ、兄貴の方に付き合ってくれないわけだ――ってな具合に。
それでついうっかり、そうか、なんて声が出たんだ。
で、今は養蜂の問題に兄貴の問題が絡んで来たから、付き合ってくれる。
う~ん、面倒だけどわかりやすい奴だな。
いや、どうだろう。この言い方はあってるんだろうか。
面倒だけどわかりやすいって、言ってることおかしいだろ。それって一体どんな奴だよ。
ああ、アッシュみたいな奴か。
****
「というわけで、蜂の蜜を取ると、その蜂の群れは冬を越せないと思った方がいいな。冬を越すための蓄えを俺達が根こそぎにするんだから」
ひでえ話だとは思うけど、これも俺達が生きるためだ。
こうやって俺と兄貴が森に入って、シカやイノシシを狩るのと一緒だ。
獣も人も虫も、皆が腹一杯になって生きていけないから、他の命を犠牲にして自分達が生きる。
それが当たり前なんだから、変に気に病みすぎるのはよくない。よくないが、その当たり前に感謝を忘れてもいけない。
兄貴が静かに瞑目して、蜜蜂に感謝を捧げているので、俺もならって瞑目しておく。
「んじゃ、今日のところはこれくらい。次はどんなこと知りたいか、兄貴も考えておいてくれよな」
「難しい」
「俺だってそれを勉強会で教えてもらって来るんだから、難しいのはお互い様だぜ」
野営中、なんだかんだで俺が兄貴に養蜂の話をすることがお決まりになりつつある。
兄貴もこの時にはそこそこ話すようになって来たので、良い感じだと思う。
まあ、普通に村の皆と話す時が来るのは、一体いつのことやらって感じだけど。
むしろ、そんな日が来るのかって思うけど。
まあ、別に無駄なことしてるわけじゃないし。兄貴が養蜂についても詳しくなるのは、姉ちゃんの助けにもなるから、そん時はそん時だ。
ちょっと、兄貴の無口を直す意気込みが薄れている気がする。
俺も姉ちゃん達みたいに、段々と兄貴の仕草を読み取る力が上がって来たからな……。これくらい伝わるならいいか、ってなってきた。
よくないんだけどなぁ! と自分を奮い立たせながら、木の枝で地面をガリガリと擦る。
遊んでるわけじゃねえよ。文字の練習だ。
アッシュやマイカもこうやって字を書く練習をしたんだそうだ。紙代がもったいないから。
焚火に照らされる俺の下手くそな文字を、兄貴が指さす。なにやってんだってか?
「文字の勉強。こっちのがジキル、こっちのがターニャって書いてる。これが蜜蜂、これは蜂蜜」
アッシュとマイカは興味のある聖句から始めたらしいけど、俺はさっぱり聖句に興味がないから、自分の名前や養蜂の言葉から始めることにした。
「どうよ、俺もちょっとだけ文字が書けるようになったんだぜ」
俺が胸を張ると、兄貴が頭を撫でてくれる。
ちょっとこっぱずかしいから、そのままガリガリと地面に枝を走らせる。
「確か、バンはこう……これでよかったと思う」
兄貴の名前を地面に書くと、兄貴もふむと頷いて枝を手に取った。
お、兄貴も文字に挑戦してみたくなったとか?
「よかったら、文字も一緒に勉強する?」
こっくりと、兄貴が表情一つ変えずに嬉しそうに頷く。
どこで嬉しさを測るかは、その首の頷き加減だ。
「んじゃあ、まずは自分の名前から行ってみよっか。こういうのは身近なところから始めると覚えやすいってアッシュが」
言ってたんだけど、兄貴はすでにガリガリと枝で地面を引っ搔いている。
最初だから、もちろん形はよくないけど、大体なにを書こうとしているかはすぐにわかる。
――ターニャ
そうか。自分の名前よりも先にそこからいくのか……。
流石だぜ、兄貴。
俺は最近、兄貴の一本気なところに感動を覚えてしょうがない。だって、感動していた方が呆れるより疲れが少ないんだ。
大発見だろ。
アッシュも、そうやって自分を誤魔化すことが上手になるのは、大人になった証拠だと生ぬるい目で認めてくれた。
「それにしても、兄貴、勉強やる気あるのな?」
勉強と聞くと、大抵の村の連中は「うげっ」て顔をする。俺もする。
教会を誰も利用してなかったことを考えれば、村の全員が「うげっ」てなったことがわかると思う。
一応、何人かは勉強をしようと教会に行く奴もいるらしいんだが、長続きしたって話は聞いたことない。
勉強は疲れるから、他にやることやってると、後回しになるんだよな……。カッコイイからちょっと勉強してみるか、くらいのやる気じゃすぐに投げ出す。
俺もアッシュの勉強会に出るようになってわかったが、前はわからなかったことがわかる、って実感があれば、楽しみも見つけられるんだけどな。
「兄貴なんか立派に仕事もしてるし、勉強なんかしなくても生きていけるだろうから、ちょっと意外っていうか」
「勉強は、あんまり」
え、そうなの? やっぱりあんまり好きじゃない感じ?
俺もそうだからそれはよくわかる。
ただ、と兄貴は焚火が映る目で俺を見た。
「ジキルやターニャと同じことしている。これは、とても楽しい。狩りは、いつも一人だったから」
「そ、そっか」
この人、ずっと一人きりの狩人だったもんな。
遊ぶ暇もなかったろうし、話が合う奴は……いるはずもない。色んな意味で。
もう少し早く、俺が狩人になろうとしていたら、この人の口数もいくらか増えていたんだろうか。
「ジキルこそ、俺に話をさせようと、がんばる」
「ん? あ~……まあ、ね。狩りのことを教わるにしても、もうちょっと言葉で教えてもらえたら助かるし……。それに、やっぱり――」
言い淀んだ言葉の中に浮かぶのは、いつかの川原の夕暮れだ。
「ちゃんと言わなきゃ伝わらないことってあるからさ。どんなに大事に思ってても、どんなに一緒にいる時間があっても……」
そりゃあ、姉ちゃんと兄貴ほど想い合ってるなら、そんな心配もいらないんじゃないかと思ったりもするけど。
それでも、少なくとも姉弟でもすれ違うことはあって、ただ「心配なんだ」「迷惑かけたくないんだ」って伝えるだけでよかったことが、変にこじれることもある。
それを一度経験すると、いつかそんなことがあった時のために、兄貴もちゃんと喋れた方が良いんじゃないか、なんて……全部丸ごと言うのは、ちょっとはずい。
「ああ、えっと……姉ちゃんは、兄貴の顔見て、なにが言いたいか結構伝わるのかもしれないけどさ……。それでもほら、実際にちゃんと伝えたら、もっと喜ぶんじゃないかなぁ、ってさ?」
兄貴は、そういうものかもな、って感じで軽く頷いて、ガリガリと枝で地面を引っかき始める。
暗い夜の底、焚火が生み出すほんのちょっとの隙間を、兄貴の文字が埋めていく。
****
あれから、結構な時間が経った。
兄貴の口数は、増えた――って言うとでも思ったか、バカめ!
はっ! バンの兄貴を甘く見るんじゃない!
増えた? むしろ減ったわチクショー!
どうだ、意味わからなすぎてすげえだろ!
流石だぜ兄貴は! もうやけくそ!
理由は、シンプル。
実に、シンプル……!
養蜂のことは声を出すようになり始めた兄貴に、俺は一体なにを教えましたか?
答えは文字。
そして、文字っていうのは声を出さなくても会話ができるものだ。
そうだよ!
文字をやたら熱心に覚えるなと思ったら、養蜂の質問を地面に書いて聞いてくるようになったんだよ!
これを話した時の、「ああ、やっちゃいましたね」ってアッシュの顔!
そうだよ、やっちゃったんだよ、俺!
どうして文字を教える時にそのことに思い至らなかったんだ、俺は……!
でも、まあ――家の中、兄貴に手招きされた姉ちゃんが、びっくりした声をあげているのを、心を無にして眺める。
今の俺みたいな顔を、砂を嚙むような表情って言うんだろうな……。
「兄さん、なに? これ、お手紙?」
前より、交わす言葉は多くなったんだよ。
相変わらず周囲には伝わらないだけで、兄貴はしっかりと目の前の相手には言葉を伝えている。
姉ちゃんのあの真っ赤な顔を見れば、それはよくわかるだろ。
一体、あの手紙にはどんな言葉がこめられていたのやら……。
「ま、どうせ、姉ちゃん用の手紙でも短文なんだろうけどさ」
俺は、手の中の手紙をひらりと振るう。
いつも、ありがとう――ただそれだけの、兄貴の言葉だ。




