無音の声1
【灰の底 ターニャの断章】
バン兄さんはいつも静かだ。
子供の頃はもう少し口数が多かった気がする。
いや、どうだったろう。言うほど変わりはない気がする。うん。
猟師の家だから、ということは父さんから聞いていた。
待ち伏せする狼が、獲物を前に声を上げるか?
上空から襲いかかる鷹が、鳴いて奇襲を知らせるか?
狩人達を見ていれば、狩りに出る猟師達が無口なこともわかるだろう。
蜂蜜酒を片手に、父さんは気持ちよさそうに話していたっけ。
言いたいことはわかるけど、やっぱり無口が過ぎるとは思うよ。小さい頃はバン兄さんの家に何度もお遊びに行っていたけど、向こうの家族の会話ってどれくらい聞いたことがあるか……。
あれで、決して言いたいことがないってわけじゃないから、余計に無口が過ぎると思う。
結構ね、お喋りなんだよ、バン兄さん達って。
道具の手入れを終えたバン兄さんが、家に入って来る。
「あ、お疲れ様。お腹空いてない?」
こっくり頷いたということは、お腹が空いているのだろう。
それから、軽く首を傾げる。
「そうそう、良い匂いがしてたでしょ? 兄さんも覚えてる? うちでよく出たパンケーキ」
流石はバン兄さん、覚えていたみたいですぐに反応が返って来る。
目がちょっと細くなってるでしょ。思い出して笑ってるんだよ。
「美味しかったもんね。兄さんもパクパク食べてた」
目が泳いだのは、ちょっと気恥ずかしいからだね。それからまた首が傾げられる。
「うん、そう。母さんが亡くなって作り方がわからなかったんだけど、アッシュ君に相談したら作れるようになってね。と言っても、大雑把な作り方だけというか、細かい加減で全然味が変わっちゃって……同じ味が出せるように、色々試してみてるところなの」
じっと見つめて来るのは、心配しているからかな。
「大丈夫。思い出の味とは違っても、とりあえず食べられる物はできてるし……あれ、違う?」
そうじゃないみたい。目が細くなった。今度はちょっとじとっと見る感じだ。
う、うーん。これはなんのことか、まだわからない。アッシュ君ならわかっただろうか。
いや、アッシュ君でもわからないに違いない。
わからない方が、いいなぁ。
あたしが困っていると、兄さんが瞼を伏せて俯いた。あたしに上手く伝わらなかったから、シュンってしてる。
それから、ぽつりと声を出した。
「難しくないか?」
ああ、出来不出来の問題じゃなくて、難しいことやってるねって心配してくれたんだ。
もう、過保護っていうか、優しいんだから。でもまあ、そういうところが良いんだけど……。
「ふふ、大丈夫だよ。でも、そうね、再現するのはすごく難しいの。ジキルは食べた記憶がほとんどないし、あたしだけでしょ? それも何回も食べてたら段々わからなくなっちゃって」
だから、バン兄さんも食べた記憶があるみたいで助かった。
大分あの味に近づいて来たとは思うんだけど、いまいち自信がないのよね。
「バン兄さんにも味見して欲しいんだ。どうかな、お母さんみたく上手にできてるといいんだけど」
焼き立てのパンケーキを一匙すくって、背の高いバン兄さんに差し出す。
あふれる湯気に、広がる甘い香り。
うん、固めきっていないとろりとした焼き加減と、小麦と蜂蜜の香ばしい匂いは合格点だと思う。
肝心の味は、どうかな?
差し出した匙を、バン兄さんが咥える。
もぐもぐと口を動かして、記憶を探るように目を閉じる。
それから、こっくりこっくりと深く頷く。
美味しいみたい、っていうのはよくわかるんだけど、味の違いはどうだろう?
「どう、兄さん? 食感とか、甘さの加減とか……」
視線を合わせた兄さんが、なにかを伝えて来る。
そのなにかは、あたしにはわからない。
「兄さん、ちょっとそれだけだと伝わらないかなぁ……。ご、ごめんね、兄さん?」
あたしが素直に言うと、兄さんがまた、シュンってなった。
前よりはわかるようになったと思ったんだけど、物の味とか、微妙な感覚が必要なものはまだ無理みたい。
もっと兄さんの言いたいことがわかるようにならないと。
あたしが気合いを入れていると、兄さんがまた声で教えてくれた。
「おばさんのより、美味しい」
「もう、兄さんってば……お母さんのを再現しようとしてるんだよ?」
それなのに美味しくなってるって……目的が違うっていうか、本末転倒、っていうの?
それに、お世辞にしたって流石に言いすぎだよ。材料とかも変わらないし、そんな特別美味しくなるわけないじゃない。
照れて兄さんの胸を叩いたら、頭を撫でられた。
えへへ、もちろん、美味しいって言われて悪い気はしないけど……。
うん、ありがとう。とっても嬉しいよ。
ああもう、顔が熱くなっているのがわかる。きっと真っ赤になっちゃってるんだろうなぁ。
「で、でもほら、それはそれとして、やっぱり味はまだちょっと違う気がしない?」
あ、やっぱり兄さんもそんな気がするんだ。もう一口? もちろんいいよ。
はい、あ~ん……。どう? なにかわかる?
「甘味が強い?」
「ちょっと甘さが強い? ああ、そうかも。蜂蜜が多すぎるのかな? ありがとう、兄さん。もうちょっとで完成できそう!」
うんうん。やっぱり、兄さんは頼りになるなぁ。
あたし一人じゃ、訳わかんなくなってたと思う。
あたしが温かい気持ちになって喜んでいると、横から突き出された木さじが、パンケーキを持って行く。
「あ、ジキル。味はどう?」
「めっちゃ甘い」
「あ、やっぱり、ジキルでもそう思うんだ」
それにしても、全然嬉しそうな顔じゃないね。
甘さが強いだけなら、それはそれで美味しいと思うんだけど……。小麦粉の混ぜ方が悪かったかな。
「いや、美味いよ。うん、十分美味い。甘いだけだから」
ジキルはどこか不機嫌そうに言いながら、パンケーキを次々木さじですくっては口に運ぶ。
表情の割に、味に文句があるわけじゃないみたい。
なんだろう。弟の気持ちがわからない。
やっぱり、男と女でどこか違うのかもしれない。いや、バン兄さんを見てもわからない顔をしているから、年の違いかもしれない。
今度、アッシュ君に相談してみよう。アッシュ君は頼りになる。
「まあ、パンケーキは良いんだけどさぁ」
ちょっと考えていると、ジキルが木さじを咥えたままあたしと兄さんを見て来る。
こら、行儀が悪い。
「さっきからはたで見てると、無表情に突っ立ってる兄貴に、姉ちゃんが一人で話しているようにしか見えないんだよなぁ」
「そんなことないでしょ。確かに声はほとんど出してないけど、表情がくるくる変わってたし」
「頷くとか首を傾げるとかはまだわかるけど、視線の動きや目元のちょっとした上げ下げなんて、横で見ててわかるわけないだろ……」
そうかな? バン兄さんを見上げると、兄さんも首を傾げている。
だよね、兄さんにしてみれば、精一杯お喋りしてるもんね。
「姉ちゃん、兄貴をあんまり甘やかすのはよくないと思うぞ。どう考えたって口数が少なすぎる。兄貴はもっと普通に声を出して話す努力をすべきだよ」
「そうは言っても……兄さんの言いたいことはよくわかるし」
「一部は姉ちゃんにも伝わってなかったじゃんか」
ジキルの言葉に、バン兄さんが困った顔をしている。
やっぱり声を出して話すのは苦手らしい。
「大丈夫! あたしが今にもっと兄さんの言いたいことがわかるようになるから!」
やっぱり、もっと兄さんの言いたいことがわかるようにならないとだね!
「……大丈夫じゃない、全然大丈夫じゃないよ、姉ちゃん」
え? どうして?




