琥珀の宝
【灰の底 ターニャの断章】
久しぶりに、あの味を思い出した。
焼けた小麦の香ばしさに、優しく絡む蜂蜜の甘さ。そうそう、昔はよく食べていたっけ。
他の村の人の小麦と蜂蜜を交換して、水車で小麦粉にしてもらって、焼き立てのパンに蜂蜜をたっぷりかけて。
口の周りをべとべとにしてかじりついた、あの味。
ジキルは覚えてないだろうけど、昔は我が家でよく食べられていたご飯だ。
それがまた食べられるようになった。
昼にアッシュ君が作ったピザ風パンの残りを持って帰って、家にストックしてある蜂蜜をかけるだけ。
たったそれだけの、我が家のご馳走。
「うわ、うめえ」
弟のジキルが、そう声をあげてパンにかじりつく様子に、つい笑ってしまう。
口の周りを、べたべたしちゃってまあ。でも、そうだよね、これはそうなっちゃうくらいに美味しい食べ物だもの。
自分でも一口かじって、その美味しさを噛みしめる。
ちょっと前まで思いもしなかった。また、この味を楽しめるなんて。
思いもしなかったから、思い出さないようにしていた、この味。
ああ、でも。
ああ、でも違う。足りない。
そう、これは美味しい。これも美味しい。
でも、あたしはもっと美味しい物を知っている。
久しぶりに思い出した、お母さんが作ってくれたあの味は、もっともっと優しくて、幸せで。
名前は、そう、お母さんのパンケーキ。お母さんは、そう呼んでいたっけ。
あれは、蜂蜜と小麦粉を使って作っていたはず。
でも、そこまで。
それ以上は、あたしにはわからない。
お母さんは、あたしにその作り方を教える前に、いなくなってしまった。
「どうやって、作っていたのかなぁ」
零れた問いかけは母の背に届かず、また遠い日からの答えも聞こえない。
人の声は、どうしてこんなに不便なんだろう。話したい時に、話したい人に伝えられないなんて。
美味しい物を前に、黙りこんだあたしを不審に思ったのか、ジキルがあたしを見つめている。一丁前に、心配そうな顔なんてしちゃって。
手を伸ばして、成長を感じる弟の頭を撫でてあげた。
****
アッシュ君がいると、教会の勉強はとても賑やかになる。
「あ、そうそう。数学繋がりですが、ゼロっていう数字。あれってすごいですよね。ゼロですよ、ゼロ。ないものを認識するための概念――えーと、考え方? そこに気づくとは、やはり天才とはいるところにいるものですね」
割り算の難解さに崩れ落ちそうになっていたところで、アッシュ君がいつもの雑談を始めた。
これがいつも嬉しい。丁度良い休憩なんだけど、それでいて元の勉強と無関係じゃないから、時々後から役に立つの。
「う~ん? そんなにすごい?」
マイカちゃんが首を傾げる。あたしも、あんまりすごさはわからないかな。
「一度、この考え方を理解してしまえばなんてことないんですけどね。その考えに気づくという段階がすさまじいと言うか……」
例えばですね、とアッシュ君が話し出す。
「私がいなかったとして」
「やだ」
マイカちゃん、すごい顔。
こう、あらん限りの大嫌いな食べ物を並べられたお夕飯を見た、というか。
「はい?」
「アッシュ君がいないなんて、やだ」
「ああ、いえ、たとえ話で」
「絶ぇ対っ、やだ!」
「…………この椅子がなかったとしてですね?」
「うん!」
マイカちゃん、良い笑顔。
そうだよね。たとえ話なんて言われたって、好きな人が「いなかったとして」なんて耐えられないよね。
わかるわかる。
「椅子がないので、椅子がゼロです。でも、それってわざわざ数字として示す必要あります? ないものはないんですから、椅子がゼロだなんて記号で示さなくたっていいですよね?」
うん、そう思う。ないものはない。書かなければないままだから、書く必要もない。
それでいいじゃないって思っちゃう。
「では、ないことを示す必要がある場合はどうでしょう? 教会の備品、というよりこの場合は財産ですね。財産の一覧を作らないと、フォルケ神官は神殿の偉い人に叱られると思います。祈祷書は二冊、神像は各種一つずつ……でも、椅子が壊れてしまってゼロになってしまった。この時、ないから書かない、というわけにはいきませんよね。椅子どうした、って言われてしまいますよ」
なるほど。椅子がなくなったことを示す、か。
そういう時に、ゼロが必要になるわけなんだね。
なくなったものを示す数字、かぁ。
「まあ、この程度なら数字のゼロを作らなくとも、ない、という文字表記で済みますけど……。計算が複雑になるとどうしても必要になりますからね。例えば、五十万三百一とか、ゼロの数字なしで表現すると読みにくいですよ」
「なるほどぉ」
マイカちゃんと一緒に頷きながら、つと〝ないもの〟を想う。
お母さんのパンケーキのレシピも、数字で書けばゼロってことになっちゃうな。
それを言ったら、養蜂の仕方も同じだね。
あれも一度はゼロになってしまって、あきらめていたけれど――今は違う。ゼロじゃない。
……ゼロじゃ、ない。
震えが走る。だったら、パンケーキのレシピも、同じじゃない?
甘い期待。零れ落ちる宝を掴みに行くような胸の高鳴り。
冷たい恐怖。掴み損ねるのではないかという胸の萎縮。
二つの気持ちに震えながらも、一度は宝を掴んだ経験が、手を伸ばすことを抑えられない。
「ねえ、アッシュ君……うちにあった、あの養蜂の本のことなんだけど」
まだあたしには全てを読み切れない難解な、お父さんとお母さんが繋いできた本。
「ひょっとして、ひょっとしてなんだけど……あれに、蜂蜜料理についても、なにか、書いてなかった?」
それに対する答えは、簡単なものがいくつか、というもの。
琥珀色の宝を掴んだ、手応えがした。
****
真面目な内容の本に、豆知識や笑い話みたいな小話が挟んであると、本のテーマに対する著者の愛を感じる。
――とは、あたしより年下の男の子の台詞である。
「こういう、本筋には関係ないけれど書かれた小話というのは、著者がそのテーマを調べる過程で習い覚えたことなんじゃないかと思うわけです。せっかく覚えたことだし、面白いんだから、できれば他の人にも知って欲しいなぁ、みたいな」
「そ、そうなんだ?」
あたしよりたくさんの本を読んでいるアッシュ君が言うなら、きっとそうなんだと思う。
ごめん、養蜂の本をちらちら読んでる程度のあたしじゃ、よくわかんないよ。
真面目な本? 不真面目な本ってあるの?
本そのものが真面目ってイメージがあるんだけど。
「それで、ターニャさんの家伝の養蜂書ですが、これがまた愛の溢れる作りでしてね。簡単な、と但し書きが必要ではありますが、蜂蜜の利用方法が結構書かれているんですよ。蜂蜜酒の作り方だったり、蜜蝋の作り方だったり……蜂蜜の美味しい食べ方だったり。ああ、この著者は、蜂蜜が本当に好きだったんだなと思ったものです」
最後の言葉は、笑顔を添えて告げられた。
年相応の食欲と、年不相応の労りが、アッシュ君の笑顔にあるような気がする。
「さて、ターニャさん。知りたい料理はなんですか?」
フォルケ神官に預けてあった養蜂書を手に持って、アッシュ君は首を傾げる。
不思議な子だな、と思う。元々、大人しい子だったし、頭の良い子だった。
元気、という表現は中々当てはめづらかったけれど、困っている人を見かけるとそれとなく手助けしてくれる子として、村では中々に注目されていた。
今もそう。
アッシュ君は、あたしからの問いかけを、楽しそうに待っている。まるで、質問をされ、答えることが楽しみで仕方ない、という面持ち。
人のお手伝いをするのが、好きなんだろうか。
ともあれ、こういう時、アッシュ君は年下とは思えないほどとても頼もしい。
わかるといいな、と思いながら、お母さんのパンケーキについて聞こうとして、料理のちゃんとした名前がわからないことに気づく。
え? あれって、パンケーキでいいの?
お母さんのパンケーキって、他の人に通じないよね?
「えーと、あの……ちゃんとした名前? が、わからないかも……」
「はい。では、通称や、必要な食材、特徴的な料理方法はわかりますか?」
「うんと、うちではお母さんのパンケーキって呼んでて」
「パンケーキ。お菓子ですね」
「使う材料からよくわからなくて、蜂蜜と小麦粉は使っていたんだけど、それ以外になにが必要だったかっていうのは……」
「ふむ、なるほど」
「調理方法もよくわかんなくて、作りたくても作れなくて……」
「ああ、これではありませんか?」
「ふぇあ!?」
あれー!? 見つかったの? もう?
「この本にあるレシピで該当するものとなると、これしかないですね」
アッシュ君が、あたしの隣に移って、古ぼけた本を開いてみせる。
「蜂蜜の生ケーキ。蜂蜜と小麦粉、それから卵のみ。砂糖も使わない、とてもシンプルなお菓子ですね。材料の質と分量、混ぜ方と焼き方で勝負する。ううん、これは基本にして奥義とかいう、奥が深いタイプのお菓子ですね」
「え、えーと?」
うぁ、このページ、あたしじゃ読めない部分が多い。
言葉遣いに古いのが混じっている。
「ふむ……これは温度ですね。とすると焼き方の部分なので、この単語は古代文明の窯のことでしょう。ふんふん」
なんで、アッシュ君はこれすらすら読めるの……?
「うーん、確かにこれをこのまま読むのはつらいですね。本も傷みますし。フォルケ神官から一枚紙をもらって、そこにわかりやすい言葉にして書き写しますね」
「う、うん。でも、いいの?」
こんな簡単で。
なくなったものだよ? ゼロになったものが、一になるってそんなさらっとしたことだっけ?
「紙一枚くらいでケチケチするフォルケ神官じゃありませんよ。共同研究資金もありますしね」
そこじゃなくて、なんていうか、もっとこう、もっとこう!
色々と難しいことがあるって気がしてたんだけど、あれー!?
「ふふ、なんだかターニャさんが面白い感じにわちゃわちゃになっちゃいましたね?」
「う~ん、やっぱりターニャさん可愛い。強い」
ああっ、年下の二人に可愛がられている!?
「だ、だって、あっさりしすぎっていうか! なんでそんな簡単に……あれはお母さんのレシピで、あたしが覚える前にお母さん……だから、もうないはずのもので」
言葉につまる。
気持ちに、口から零れるものではまるで足りない。
この、先走る嬉しさを表現するには追いつかない。夢を見ているような戸惑いを表現するには、儚い。
そんなあたしに、アッシュ君はわかっている、と伝えるように頷く。
手元の本を、子を慈しむように撫でて。
「これが残っていた、というお話ですよ。ターニャさんのご両親が、そのまたご両親から、連綿と引き継いできたものが、今ここに残されていたんです。それは、簡単なこととは言えませんよ」
ああ。ああ。
そうか。そうなんだ。
その本は。
その紙は。
いくつもの声をその身に刻みつけることで、あたしに伝える紙は。
消えてしまうものを留め続け、届かぬものを届け続けて来た、紙は。
そのために、ここにあるのね。
あたしの、こんな小さな思い出までをもすくいあげるために、ずっとそこで手を差し伸べていてくれて。
まるで、神様みたいに、紙はそこにいるのだ。
手を伸ばして、アッシュ君が持つ本に触れる。
古い紙はざらついて、色も綺麗とは言い難い。
でも、あたしがお父さんとお母さんから教わりたかったことの全てを、満たしてくれるような紙だ。
「今度は、あたしが伝えていかなくちゃね」
こんな一瞬で消えてしまう言葉ではなく、ずっと未来へも聞こえるような言葉で。
しっかり、勉強しよう。
気持ちも新たに顔をあげて、アッシュ君の難しそうな顔に遭遇した。
「とまあ、雰囲気を出してみましたが、このレシピとターニャさんの思い出の味が一致するかどうかは不確定ですよね。いえまあ、恐らくこの本のレシピをご家庭の味として伝えて来たのではないかと思うので、可能性は高いはずですが、実際に試してみないことにはなんとも」
そ、そうだよね!? やっぱりそこまで簡単な話じゃないよね、これ!
あっぶない。なんだかもう、全部終わったような気持ちになっちゃってた……。
「しかもこれ、材料と作り方が合っていても、微妙な焼き加減で味が変わるでしょうから……」
アッシュ君の目が、すごく優しい。
がんばれ、という気持ちが真っ直ぐに伝わって来る。
思い出の味への道程は、ゼロではなくなったけれど、どうもまだまだ遠いようだ。
あぁ、やっぱり言葉じゃ表せないことが、世の中にはたくさんあるんだね……。




