ノスキュラ春のパン祭り
【灰の底 アッシュの断章】
その日の勉強会にやって来たターニャ嬢は、何やら様子が違った。
いつものんびりと構えて見える彼女が、今日は少し凛々しい。何か決意して来たようだ。
「アッシュ君に、お願いしたいことがあるんだけど……お話、いいかな?」
「構いませんよ。私にできることならいいのですけど」
ターニャ嬢は大事な協力者ですからね。できる限りのことはしますとも。
ひとまず、教会の椅子に座ってもらって、お願いの中身をたずねる。
「今までは、アッシュ君に養蜂の本の内容を読んでもらっていたよね?」
「そういうお約束でしたから」
ターニャ嬢は、養蜂家を目指して頑張る。私は、その手助けとして養蜂の本を読解して教える。
ターニャ嬢は夢を叶えられて嬉しい。私も夢に近づけて嬉しい。おまけに村は一度潰えた産業が復活して嬉しい。
誰も損をしない素晴らしい取引である。
「その、それだけでも、すごくありがたいことだなぁって感謝してもしたりないんだけどぉ……」
言いづらそうにしながらも、ターニャ嬢の目には強い力がある。
熟慮型のターニャ嬢のことだ。きっとかなり悩んだ末、気持ちをがっちり固めて来たのだろう。
あの無口型猟師のバンさんを、距離を空けつつ長年想い続けてきた意思の強さである。
見た目はのんびりおっとりした彼女だけれど、だからといって柔な人ではないのだ。
「あたしも、マイカちゃんみたいに読み書きできるようになりたいって思うの。できれば、その、計算も簡単なのくらいはできたらなぁ、って……」
「ほほう」
意外な申し出だった。
まさか、この村でマイカ嬢以外に勉強をしようという人物が出てくるなんて。教会利用者数ゼロだった村に、とんでもない変化が来ているのかもしれない。
「あたし、頭が悪いから、きっとすごく迷惑になっちゃうとは思ったんだけど……」
でも、とターニャ嬢はお願いしてくる。
「あたしがバン兄さんの役に立てるのって、そういうことくらいだと思って」
なるほど。未知の努力に挑戦する燃料は恋心でしたか。
情熱の中のヒドラジンみたいなものですもんね。ロケット飛ばせるやつです。
「そういうことでしたら、喜んでお手伝いしますよ」
ていうか、そんな言いづらそうにするから、お金貸してとかいう話かと思いましたよ。養蜂を始めるにあたって色々物入りでしょうからね。
お金は貸したら減ってしまうが、知恵はあげても減らないのだ。どんどんシェアしちゃいましょうね。
こっちは元から、隙さえあれば教えこむつもり満々でしたよ。
「いいの? あたしほんとに頭悪いし、マイカちゃんみたくすぐできるようにならないと思うよ?」
「ターニャさん、今まで勉強したことあるんですか? 読み書きでも、計算でも」
「な、ないけど……」
だから頭が悪い、と続きそうなターニャ嬢を止める。
「それは勉強をしたことがないだけで、頭が悪いとはあらゆる意味で言いません。個人的には、ターニャさんは頭がよさそうですしね」
「そんなことないってば。あたしなんててんで」
「でも、物覚えがとっても良いじゃないですか。養蜂のやり方、ご両親のお仕事を見ていたとはいえ、口頭の説明であれだけ頭にするする入るなんてすごいですよ」
好きなこと、やりたいことだから余計に頭に入るのだろうけど、どんどん覚えていくのですごいなと感心させられている。
「読み書き計算となると、今までやったことがないから大変かもしれませんけど、ターニャさんなら大丈夫ですよ。むしろ、私の教え方の方が不安ですからね。素人ですので、こちらの至らぬところでご迷惑をおかけしないか心配です」
「そんなことないよ! マイカちゃんも、アッシュ君は教え上手だって、いつも言ってるし」
「そうだと嬉しいですけど、マイカさんも物覚えがすごく良いんですよねぇ」
どっちの手柄かわかったものじゃない。でも、どちらの手柄でも良いことではある。
「ともあれ、私でよろしければ喜んでお手伝いしますよ。バンさんには私もお世話になっていますし……ターニャさんを応援したいですしね」
「お、応援って、どういうことかなぁ?」
その真っ赤になった可愛らしい反応の通りですとも。
お二人とも相思相愛が丸見えなんですから、さっさとどっちかから伝えてしまえばいいのに。
今の状況でも、見ていて楽しいですけどね! お二人を見ていると体が蜂蜜レモン漬けになったかのような甘酸っぱさを味わえます。
「こんばんわー! あれ? 二人ともどうしたの?」
ターニャ嬢が真っ赤になって恥じらっているところに、元気に登場したのはマイカ嬢だ。
「こんばんは、マイカさん。それなんですが、ターニャさんも今日から読み書き計算の勉強をご一緒することになったんですよ」
「そうなの? じゃあ、ターニャさんは三番弟子だね! 一番アッシュ君、二番あたし、三番がターニャさん」
フォルケ一門ですね。
なお、マスター・フォルケは一番弟子に文字をいくらか教えた以外、一切働いていない模様。
「でも、いきなりどうかしたの?」
「う~んと、色々と思うところがあったと言うかぁ」
ターニャ嬢が恥ずかしそうに口ごもったので、私が代わりに口にして差し上げる。
「花嫁修行だそうです」
「ふあっ!?」
ぱくぱくとターニャ嬢が唇を開閉して驚いている。
でも、本質はそれでしょ?
大変いいと思いますよ。知的財産は劣化しにくいこと黄金の如しですからね。
花嫁修業であり嫁入り道具の積み立てとも言えよう。アッシュ生涯設計士(無資格)も自信をもってお勧めできる投資プラン。
「おぉ、なるほど! ターニャさん、それはとっても頑張ろうね!」
「いや、その、あの……が、がんばるけど……」
マイカ嬢の無邪気な応援に、ターニャ嬢に強い羞恥圧が発生してしまった。
ターニャ嬢が普段たっぷり蓄えているおっとり系潤い成分が脱水されて縮んでしまう。そんな状況にあっても、頑張らない、とは言わない辺り、ターニャ嬢は本気だ。
「そ、そーゆーマイカちゃんは、ど、どうなのかなっ?」
「へ? あ、あたし?」
おっとー! ここでターニャ嬢からの反撃がマイカ嬢へヒット!
マイカ嬢もお年頃、頬を染めて聞かれたくないような、聞いて欲しそうな顔になる。
「そう、あたしなんかより、マイカちゃんの方がそういうの大事でしょ?」
「ターニャさんより大事ってことはないと思うけど……」
「村長さん家のお嬢さんなんだから、とっても大事だと思うよ?」
「んんんん……。そ、そういうことも言われるかもだけど、あたしとしてはそういうんじゃなくて、ね? ほら、あたし自身として頑張りたいっていうか」
「あ~、うんうん。そうね、村長家のマイカちゃんだからじゃなくて、マイカちゃんだから選んで欲しいよね?」
「そう! そうなの!」
二人ともとっても楽しそうである。
やっぱり恋バナは鉄板ですよね。
「それで……マイカちゃんの方は」
ターニャ嬢が、ちらりと私を見てくる。
わかっていますとも。
別に今すぐ勉強を始めなければいけない、ということもないので、気にせず楽しい会話を続けて下さい。
私がにっこり笑って頷くと、なぜかターニャ嬢が困った風に笑う。
「その、どう? 相手というか、進み具合というか……多分、そうなのよね?」
「う、うぅん……難しいよ、とっても難しい」
「だよね、あたしもそう思った」
「ターニャさんと同じで、あたしもがんばって魅力を磨いているつもりなんだけど」
「うんうん、マイカちゃんとってもがんばってるよ。あたしも、マイカちゃんを見て、こっちの方面をがんばろうって思ったんだし」
うんうん、それは私も同意見です。マイカ嬢は立派に知的美人の道を登っていますよ。
しかも、知的だけど元気属性もついてる。
私が頷いて同意を示すと、その反応は違う、という意思にあふれた視線を女性陣から頂戴した。
やっぱり、男性と女性では恋愛観って違うんでしょうね。女子の恋バナは男子には難しすぎた。
「マイカちゃん、村長家とか関係なくっていうのは、同じ女性としてすごくよくわかるんだけど、この際そういうのも全部つけられるだけつけた方が良いんじゃないかなって」
「うん、お母さんにもそう言われてるし、あたしもちょっとそう思うよ……。でも、この場合、村長家がすごくおまけ扱いっていうか、あってもなくても、そんなに変わらない感じがする」
「あー、うん、よくわかる。その辺、全然気にしてなさそう……」
変に突っ込んでも女性陣の楽しみを邪魔してしまいそうなので、私は大人しく本を読むことにした。
ターニャさん家の家伝の養蜂本を読んで、この後の勉強会の予習をしよう。
そう思ったのだが――
「アッシュ君、どうして本を読んでるのかなぁ?」
予想外の冷たい声。のんびり系のターニャ嬢が、かつてない鋭利な感情を抜いていた。
抜き身のターニャ嬢! こういうところもあるんですね……。
「え、いえ、女性陣の恋バナを邪魔するのもなんだなと思ったのですけど……」
「ひどい、アッシュ君、それはひどいよ」
「そう、なんですか?」
「今の話を、アッシュ君が聞かないでどうするの」
私が聞いてもどうしようもないと思ったから、本を開いていたんですけど。
正直にそれを口にするのははばかられる剣幕だ。
「ごめんなさい」
初手、謝罪。
「拝聴させて頂いてもよろしいですか?」
二の手、全面降伏。
これが最適解と見た。ターニャ嬢のジャッジは!?
「うん、しっかり聞いていてね、アッシュ君」
お許し頂けました。
私はにっこり外交的笑顔をもって、お二人の奇妙な恋バナを謹聴し続けた。
うーん、やっぱり恋愛観って人それぞれですね。
****
突然だが、我が故郷ノスキュラ村の主要穀物がなんであるかのお話をしよう。
麦である。恐らくだが、小麦に近い品種だ。
我が家で朝に出るのは夜に残った麦粥で、昼に出るのは朝に残った麦粥で、夜に出るのは作り立ての麦粥だ。
他の家でもここは大差ない。
しかし、この時の麦、実はその全力を発揮できていない。
何故なら、小麦は粉食した方が美味しい穀物だからだ。麦のまま(例えば麦粥)にして食べるならば、大麦なんかの方が食べやすいらしい。
だったら、どうして小麦があるのに小麦粉にしていないんだ。
小麦粉にしてパンでもパスタでも作ればいいじゃないか。そう思うだろうが、それは無理な相談だ。
小麦を挽いて小麦粉にするのはすっごく重労働なのだ。
日常使う量を人力で挽こうと思ってはいけない。それをやろうとしたら、かなりブラックな奴隷制が必要だ。
この問題解決にあたって頼りになるのは、雄大なる大自然だ。
流れる川を見てみれば、そこには決して倦まず休まず歩み続ける水がある。
人間が決して真似してはいけない類の二十四時間年中無休労働である。たまに干上がるらしいけど。
この流れを利用した水車が、石臼を回してくれれば、我々人類は小麦粉を比較的楽に入手することができる。
さて、そこで問題となるのは、我がノスキュラ村の水車である。
八年くらい前に壊れてから、直っていない。
まあ、ね。
別に小麦粉にしないでも食べられるんだから、そのままに放置されてしまうのも致し方ない。
小麦粉にしたところで、パンや麺にするのも手間暇と別途材料がかかる。麦粥のコストパフォーマンスが優良すぎた。
でも、人間は合理だけでは生きていけない不合理な生物である。
つまり、どういうことかと言うと――
「麦粥に飽きました」
私は白い粉を摂取して幸せになりたい。
摂取する時は粉状ではありませんけどね。
そこで引っ張り出すのは古ぼけた手回し式の石臼。一応ね、この村にもあるんですよ、石臼。やる気になれば作れるんですよ、小麦粉。
単純に、そこまでやる余裕がないから、面倒なだけで。
まあ、長い間使われなかったらしく、回すための持ち手の木の棒が消え失せていましたけどね。
そこはまあ、ちょっと森まで行って、その辺の木の枝を拾って、適当に切って代用品の完成である。
そんなわけで、現在、小麦粉を作るために石臼をえっちらおっちら回転させている最中である。
ジキル君が。
えっちらおっちら、ひいこら言いながら、いい汗をかいている。
ジキル君が。
「頑張ってくださいね、ゆっくりでいいですよ。でも、その小麦は全部やって下さいね」
「ちくしょう! お前もちょっとは手伝え!」
「企画発案は私だし、この後の調理も私がメインです。十分手伝っていますよね?」
「うぐぅぅ……! な、なんか納得いかねえ!」
それは多分、筋肉的労働がジキル君ばっかりに行っているからでしょうね。
私は団扇を片手に頭脳労働って感じです。はた目にはずいぶんと不公平な取引に見えるでしょうね。
「まあまあ、ジキルさんの方が年上で背が高くて力も強いではないですか。私より立派に小麦を挽けると思ってお願いしたんです。……でも、無理そうなら代わりますよ?」
「うぐぐぐ……! こなくそー!」
おぉ、がんばるがんばる。
ははは、若い子は元気がいいですね。あと扱いやすくていいですね!
男の子の意地を見せるジキル君に、私は出力三割程度の熱烈な声援を送りながら見守る。
そのうち、別な材料の確保に行っていた女性陣が帰ってきた。
「やっほー、お待たせ~。お、ジキル君、やってるね!」
「ただいま、アッシュ君。ジキル、がんばって」
マイカ嬢とターニャ嬢である。
その手のカゴには、村の周辺で野生化していたトマトが載っている。真っ赤なお顔が実に美味しそうである。
女性陣の登場――特にマイカ嬢の笑顔に、ジキル君も顔を真っ赤にして石臼をぐるんぐるん言わせる。
うんうん、アピールチャンスだもんね。がんばれー。
ジキル君のアピールタイムが終了する頃には、白い粉がたっぷり積みあがっていた。
ふふ、グラム単価どれくらいですかね。
「では、早速料理を作りましょう。ジキルさんは休んでいて構いませんからね」
すでにぐったりしているジキル君は素直に頷いた。
「それで、これで何を作るつもりなの?」
マイカ嬢が首を傾げて、テーブルの上のものを眺める。
白い粉、トマト、イノシシ肉、あとビール酵母の入った陶器の小瓶である。
これだけあれば何でも作れますね。
「とりえず今日は、トマトピザ風のパンですね」
今までは、トマトスープにパンを浸すだけだったけれど、今年からは違う。バンさんに弟子入りしたおかげで、肉がかなりの量で手に入るのだ。
そこで、トマトとイノシシ肉でソースを作り、パンに乗っけて皆でガブリとやろうと考えた。
「トマト、ピザ、風? よくわかんないけど、アッシュ君が作るんなら美味しいよね!」
「う~ん、アッシュの作る物は珍しいからほんとにわからんよな。でも、大体美味しいのもいつものことだし」
同年代のマイカ嬢とジキル君は、私が度々前世らしき記憶を元に再現した料理を食べている。
別にパーティしているわけじゃないんですけどね。作っていると寄って来るのが同年代の友達ってもんです。
なお、この狭い村では同年代=友達が確定する。
いつもは母上から譲り受けた野菜の切れ端とか、その辺で自生している食用植物を使って、野外調理と洒落こんでいた。
煙が立っていれば食べ盛りの子供が集まって来ないはずがない。
まあ、こちらとしても、食事を共にする代わりに焚き木の採取を手伝わせたり、今のジキル君みたいに肉体労働を肩代わりしてもらえるので悪い取引ではなかった。
それに、子供から話を聞いたのか、たまに大人からも依頼がある。
クイド氏が運んできた卵とかチーズとか、奮発して買ったのはいいが、どう料理したものかと相談される。
私としては快く引き受けて、見本調理までしてあげる。サンプルの試食が貴重な栄養源である。
普段は木の棒にパン生地を巻き付けて焼くとか、直火の下に埋めてハーブと川魚を葉っぱで包み焼きをしたり、アウトドアライフを楽しんでいたが、最近は事情が違う。
私自身に微量ながら収入が発生したし、父上がうるさく言わなくなったので、屋内でカマドも鍋も使える。
うん。
私がアウトドアを楽しんでいたのは、楽しむしかなかったからだ。
これからはインドア・クッキングでクォリティアップを目指すぞ。
パン生地をしっかりこねられるだけでも飛躍的な進歩だ。
せっかくだし、まとまった量を作っておきたい。ハード系のパンでなくても、二日三日は保つだろう。
ビール酵母も練りこんで、イノシシ肉とトマトを煮込む作業に入る。
実に楽しみだ。
前世では豚肉とトマトの相性は抜群だった。豚の原種であるイノシシとトマトはどうだろうか。
トマトも野生化していたから、野生種と野生種でワイルドな味になりそう。
バンさんからもらっておいたイノシシの脂身を鍋に落として溶かし、この脂でイノシシ肉も炒める。
「んふ~、いい匂い~」
マイカ嬢が、自分がイノシシ脂になったかのように蕩けた表情になっている。
わかる。この香りは育ち盛りの食欲にダイレクトアタックしてきますよね。ジキル君も似たような表情だ。
そんなマイカ嬢の顔に気づいて、ターニャ嬢がなんか慌ててたしなめる。
どうしたのかと思ったら、言われてみればマイカ嬢はお年頃の娘さんでもある。村長家の娘という立場も考えれば、保つべき体面というものもあろう。
ここは見なかったことにしてあげるのが紳士の役目か。
私は鍋の中しか見ていません、という顔でイノシシ肉を熱した鉄の上で踊らせる。
ふははは、ジュージューといい悲鳴をあげるではないか、この豚(の親戚)野郎。
……タンパク質の焼ける匂いは、人をどこかおかしくすると思うんだ。
野生に返すというか、本能に火をつけるというか。
たっぷりとイノシシ肉の旨味を鍋の上に出しておいて、トマトをぶちこむ。後は水っ気が少なくなるまで煮込む。
じっくり、ことこと。
ふふふ、薪の量は気にする必要はない! 今回は金の力で集めましたからね!
「あ、アッシュ君、アッシュ君、これすごい!」
私がじっくりことこ党の党員としての責務を果たしていると、マイカ嬢が歓声をあげる。
これ、とは台の上に置いたまま放置されたパン生地である。
酵母の力によって、元の大きさを知っているとびっくりするほどぷっくら膨らんでいる。
「うわぁ、すげえな」
「ほんと。どうしたのかしら、これ」
どうしたもこうしたもありません。
これこそが酵母の神秘力、強化魔法・巨大化の効果である。これによって小麦粉の攻撃力に倍加補正がついたのだ。
などと心中で遊びながら、真面目に説明する。
「前に、怪我の手当てについてお話しした時に、ものすごく小さなモノが怪我を悪化させるって話したのは覚えています?」
「えーと、エーセーとか、サイキンのお話?」
流石はフォルケ一門の二番弟子、答えたのはマイカ嬢だ。
「それです、それ。で、それと同じくものすごく小さいモノの中で、私達にとって良い働きをする方々もいるんですよ。この場合は、ビール酵母という人達なんですが、そのビール酵母さんが小麦粉の生地をこのようにふっくらさせてくれるんです」
お酒も造って、パンも美味しくするとか超有能な職人衆ですよね。
「へえ~……どうやって?」
中々難しいところまで突っ込んできますね!
でも、いいですよ! なんか理科の実験みたいですもんね。こういう目に見える不思議から始まる勉強も大事です。
「イメージとしては、ビール酵母さん達は畑を耕して自分の食べ物を作っているだけみたいなものですかね。それがたまたま、私達にとって都合の良い結果をもたらしてくれるというか」
酵母菌にとっては、自身の食事のために小麦の糖分を分解してるだけなんですけどね。
その過程で排出される、二酸化炭素がぷっくりと膨れたふかふかパンを生み出してくれる。
「ちなみに、ビール酵母さんは本来お酒を造る名職人さんですが、同じ作業を蜂蜜でする職人さんもいますよ」
「あ、うん、前はお母さんが蜂蜜酒を作ってたよ」
「養蜂をやっていくうちに、ぜひその辺りも進めたいところですね」
蜂蜜酒は大事なものである。
一説によると最古のお酒であり、数々の芸術を生み出すきっかけとなったものだとか。
うん、古代の芸術家は皆酔っ払いだったらしい。我が家の父は芸術の素養皆無だったが。
皆でわいわいと話しながら、パン生地を平べったくして浅底の鍋で火を通していく。
小麦粉の焼ける匂いはいつだって香ばしい。
「うわぁ、いい匂い……」
ここまで年長者らしい節度を保っていたターニャ嬢も、これには思わず喉を蠢かせる。
年長者といっても、ターニャ嬢もまだまだ育ちざかりですからね。
手早く、焼き上げたパンにイノシシ肉トマトソースを合流させる。
ざっくりと包丁を入れて分割すれば、完成。
ご馳走を前にした我等食欲の信徒は、厳粛な儀式前の表情――つまりは満面の笑みだった。
「では、三神の恵みに感謝して」
頂きます。皆で一斉に、ガブリ。
「うわ、うっま……!」
一番早く口を開いたのはジキル君。
他の三名は、口の中に物を入れて喋らない、というマナーを守っている。
もっとも、誰もジキル君を叱ろうとはしない。うん、そうだね、美味しいね、と頷きあうばかりだ。
「ほんとに美味しい……。アッシュ君と同年代に生まれたかったかも」
別世代なので今まで食べる機会がなかったターニャ嬢が、そう呟いて再びパンにかじりつく。
トマトソースがついた口元がちょっと色っぽい。
「ターニャさんが同年代だったら……強力なライバルになっちゃったかも」
マイカ嬢が、ターニャ嬢の顔――と、そのちょっと下を見て何やら呟いた。
「ふふ、そうね。もうちょっと年が近かったら、どうなってたかなぁ」
「い、今は大丈夫だよね?」
「もちろんよ。あたしはほら、その、ね?」
「そうだよね! よかったー!」
女性陣がなんかこそこそしている。
私は満足感と同じくらいの不満足を覚えて、もぐもぐと口を動かす。
ピザ生地というには分厚いから、やはりピザ風パンになっちゃいますね。
これはこれで食べ応えがあって大変よろしいのだが、いつかはきちんとピザと思えるピザを食べたいものだ。
とりあえず、それぞれ満足できる量を食べて一段落だ。
「アッシュ君、これ本当に美味しかった。おうちでもできるかな?」
「小麦粉さえあれば簡単な料理ですよ。もうちょっと小麦粉が手軽にできれば良いんですけど……」
うーん、水車の再建計画……は、ちょっと遠い。
軟膏の収入は、お小遣いとしてはかなり大きい金額だけれど、村全体のお金で賄うべき設備に投資するほどではない。
いつかは、と思うのだが、いつになることやら……。
「姉ちゃん、小麦を粉にするなら、俺がやるよ」
そこに、ジキル君が男気あふれる提案をする。
「いいの、ジキル? 助かるけど、大変でしょ?」
「きついっちゃきついけど、美味いもの食べられるんだから、やるよ」
男気以上に食い気もあふれているようだ。
「じゃあ、時々でいいから、お願いしよっかな。ありがとう、ジキル」
姉に感謝されて、ジキル君は照れ臭そうに頭を掻く。
すっかり仲良しに戻ったようで何よりだ。
「ちなみにですが、この焼いたままのパンに蜂蜜をたっぷりかけても相当美味しいですよ」
「あ、それ懐かしい。昔はよく食べたっけ」
ターニャ嬢が、遠くへと視線を送る。
恐らくは、十年ほど前の時間軸、ターニャ嬢のご両親が健在で、村の川でくるくると水車が回っていた頃だろう。
私達の世代では記憶にない、今は届かぬ遥かな彼岸の光景。
その距離を繋ぐには、口から零れる音ではあまりに儚いと言えるだろう。




