悩みの種
【灰の底 ユイカの断章】
娘であるマイカのことは、悩みの種だった。
いえ、寒村の村長夫人としては、あれもこれも悩みの種。
心の庭には、いつも悩みの種から芽吹いた草木が生え放題で伸び放題なのだけれど……。
一人の人間として、親として、やはり我が子は特別な位置を占めている。
マイカという種を植えた花壇は今、なんというか、こう……花壇からはみ出すように枝を伸ばした植物が生えている。
我が娘、元気は良い。
それは、ひとまず感謝したい。娘が怪我も病気もなんのそのと走り回れる力があること、狼神様の御恵みに感謝いたします。
でも、こう言って良ければ、元気が良すぎて美しくない。
農村育ちだもの。お転婆なところがあって当然なのだけれど、ただもうちょっと、お淑やかなところも見せてくれるだけで良いの。
少なくとも、騎士ごっことか言って木の棒を振り回して、男の子を泣かせるようなことをしないだけで良いのに……!
「マイカ! 木の棒とはいえ、当たり所によってはひどい怪我をすることだってあるんだから気をつけなさい!」
夕ご飯前、玄関で今日も泥だらけになって帰って来た娘を叱りつける。
「わ、わざとじゃないもん!」
「わざとだったらもっと怒っています! あと隠そうとしないで素直に話したことも偉いわ! 素直で大変よろしい!」
「怒られてるのに褒められてる! どっちかにしてお母さん!」
「それだと怒るだけになるけど、良いのかしら!?」
「よくない!」
だったらそこに文句は言わないの。娘を睨みつけると、不満を一杯頬に溜めて、幼い顔を膨らませる。
……マイカは怒っても可愛いわね。でも、叱る。
「お父さんから剣を習う時に約束したでしょう。人を傷つけないようにって。暴力を振るうためにお父さんは剣を教えているわけではありません!」
「だ、だから、気をつけてたってばぁ」
「気をつけたのは良いことだけれど、相手の子を泣かせてしまったのならダメでしょう。明日、その子のお家に一緒に謝りに行きますからね!」
「それは、行くけどぉ……。うぅ、あれくらい、皆やってるのにぃ」
「我が家は村長家で、マイカは騎士であるお父さんから稽古をつけてもらっているから、他の子達より厳しくなるの」
力がある立場なのだ。
たとえ、相手の子が怪我をしても、その両親は村長家に対して文句を言いづらい。
だからこそ、村長家の側が自らを律しなければいけないのだ。
幼いマイカには納得しづらいかもしれないし、理不尽に思うだろうけれど、ここは甘くしてあげられない。
「事故とはいえ、危ないことをしたのよ。そのことはきちんと反省しなさい」
「はぁい……」
返事は、一応は良いのだけどね。この注意も、もう何回目だったかしら。
溜息と共に、良いでしょう、と一段落をつける。
「もう良いの? やった! お母さん、お腹空いた、今日のご飯は?」
「ええ、男の子を泣かせた件は、もう良いわ」
マイカの笑顔が固まる。
「次は、今日のお勉強をすっぽかして遊んでいた件について、反省してもらわないとね?」
こっちの件は、完全にわざとよね?
マイカ、お勉強嫌いだものね。嫌だから逃げていたんでしょう?
にっこり笑って見下ろすと、マイカの顔から血の気が引く。
ええ、しでかしたことの重大さをわかっているようで何よりだわ。でも、わかるのが遅すぎる。
「今日は午後から文字のお勉強だって言っておいたでしょう! それなのに遊びに行って夕方まで帰って来ないなんて一体どういうつもり!」
「だって、他の皆は遊んでるからぁ……」
「他の皆だって畑のお手伝いとかで遊べない時はあるでしょう! マイカは畑のお手伝いがない代わりに、お勉強しないといけないの!」
「それは、そうかもだけど……。あ、あたしだって畑のお手伝いしてるし! あたし、畑のお手伝いの方が良い!」
マイカが、仲のいい子が畑仕事に駆り出される時、その手伝いをしているのは知っている。
友達思いなのは良いことだし、経験としてもいつか役に立つだろう。
でも、それは畑仕事を手伝う友達の、そのまたお手伝いに過ぎない。
苦労もあるだろうけれど、責任は薄い。村長家の娘としての勉強を投げ出して良い理由にはできない。
畑にあるのは農家の仕事であり、村長家の仕事は、その畑の収穫を上手く活用することだ。
「マイカが、体を動かす方が好きなのは、わかるわ。でも、この村では誰かが文字を覚えて、計算を覚えないといけないの。それは村長家の役目なのよ」
「う~っ、村長家とかそういうのよくわかんない! 皆と一緒が良い!」
そう言われると、わたしも弱い。
特に、溢れだしそうな感情を、ぎゅっと唇を引き結んでこらえた顔で言われると、言葉がつまる。
この子をノスキュラ村の村長家の娘として生むことを望んだのは、このわたしだから。村長家の肩書きが重荷だと娘に言われると、説教を吐き出し続けた唇が閉じてしまう。
一度閉じてしまえば、蓋をされたランタンのように、怒りの言葉はあっという間に口の中で消えていく。
言葉と共に力が抜けて、膝をつくと、可愛い娘と目線が合う。
その目に、村長家の娘だから、という特別扱いの重圧が溜まっていることが、わかってしまう。
「それでも、あなたはわたしとクラインの娘なの。いつか、読むこと、書くこと、そして計算することが必要になるわ」
わたしとクラインの娘だからこそ、他の人よりも多く、それを必要とされる。
領都のどんな文官武官の子供達よりも、ずっと多くの才があることを期待されてしまうのだ。
「だから、少しずつで良い。お勉強をしましょう? 遊ぶ時間の全てを奪いはしないわ。あなたの好きな体を動かす時間もなくさない。嫌なことはわかっているけど、それでもマイカにお勉強をして欲しいの」
「……お勉強、難しいよ」
ぽつりと、マイカの弱音が零れる。
「ええ、簡単ではないわ。難しいと思うのが、普通よ」
「できないの、つまんない」
「お母さんも、あなたと同じ年頃の時はそう思っていたわ」
「ほんと?」
夜に脅えるような、か細い声で娘にノックされて、自慢にもならない記憶の扉を開く。
「お母さんだって、小さい頃からお勉強が得意だったわけではないわ。じっと座っているのはつらかったし、文字は面白みもない落書きに見えていたし、計算なんて訳もわからなくて癇癪を起したくらいよ」
「……お母さんが?」
そんなにまじまじと顔を見られると、流石に顔が熱くなる。
偉そうにお説教しておいて、自分の小さい頃も大差ないなんて、ねえ?
でも、本当のことなのよ。だから、正直に恥じ入る。
「マイカを見ていると、ああ、この子は本当にわたしの娘なんだ……そう感じるわ」
まるで小さい頃の自分を見ているようだもの。
そう感じる度に、ちょっと恥ずかしくて、すごく愛しい。
「ほんとの、ほんとに? お母さんもお勉強嫌いだった? お勉強、できなかった?」
「本当の、本当よ。嘘なんかついてないわ。そんなに不思議?」
そんなに自分はなんでもできるように、娘から見えているのだろうか。
そう嬉しさ半分で問い返したら、思ってもみなかった答えが返って来た。
「だって、アッシュ君を見てると、お勉強してないのに頭がとっても良いから……。だから、あたしの頭が悪いんじゃないかって……」
ああ。ああ、それは。それはわたしにはなかった、この子だけの特別な悩みだわ。
あの赤髪の男の子。
とても不思議な、同じ冬に生まれた娘の幼馴染。
なるほど。それは確かに、この子が勉強と距離を取りたがるだけの理由になる。
できない自分がいて、できる誰かがいるというのは、柔らかい心の形を変えるだけの重さがある。
「マイカの頭が悪いなんてこと、ないわ。絶対にない」
わたしとクラインの娘だもの。頭の良いお利口さんに決まっている。
なんといっても、わたしの愛するクラインと、クラインが愛するわたしの間に生まれたんだもの。王国一の娘が生まれるに決まっている。
そう信じているから、言い切ってしまえる。わたし達の娘は可愛くて頭も良いんだと。
「アッシュ君が不思議と頭が良いのは確かよ。きっと猿神様のご加護でもあるのね」
そうとしか思えない。
誰にも教わっていないはずなのに、乗算までできるなんて思いもよらなかった。流石に文字を読めたりはしないみたいだけど、それでも物事をよく知っている。
あの子は特別。
それだけのことで、マイカがなにか劣っているわけではないのだ。
「神様のご加護は特別だから、すぐに真似ができないのは当り前よ。でも、マイカだって勉強すれば、いつかアッシュ君にも追いつけるわよ」
「そうかなぁ……」
マイカが納得しづらそうに唇を尖らせる。確かに、アッシュ君の不思議な雰囲気は、追いつけるかどうか、試すのも躊躇わせる何かがある。
マイカは、この手のことに対する勘が鋭いから、余計にアッシュ君に苦手意識を持ったのかもしれない。わたしに似たのでしょうね。
わたしの場合、そういう不思議な雰囲気を感じた相手に、惚れこんでしまったのだけれど……ここは親娘で似なかったみたい。
「とにかく、他の人と比べて、あなたの頭が悪いわけではないわ。それだけは覚えておいて。少しずつで良いから、お勉強、してみましょう?」
「う……」
ああ、ダメね。ここまで言っても、その場しのぎの頷きもできないみたい。
これほど勉強を苦手に思ってしまっていたなんて、わたしも後手に回ってしまった。
「良いわ。しばらくは無理に勉強しなさいって言わないから。ごめんなさいね」
子育ては、難しい。
今度、シェバさんにも相談してみましょう。あのアッシュ君を育てたお母さんだ、なにか良いヒントが得られるかもしれない。
そうでなくても、同じ母親として、話すだけで気持ちも軽くなるだろう。
「さて、お勉強のことは終わりにして」
「……夕ご飯?」
いいえ?
「約束をすっぽかしたことについて、反省がまだよ?」
「ごめんなさい! ほんとに反省します! だからもうご飯食べさせてぇ!」
「はい、良いご返事です」
でも、反省は必要だから、今日はマイカの嫌いな野菜を多めに食べてもらうことにします。
体にも良いから、一石二鳥ね。
****
そんな、娘が元気すぎることに悩んでいたのが、ついこの前のこと――だったと思う。
一年も経っていないから、ついこの前という表現は、決して不適切ではないはずなのよ。
今目の前にある光景を認識すると、中々自信を持てないのが困ったものだ。
「た~、く~……? ま~……まぁ……?」
マイカが、木の棒を持ってなにか唸っている。
前までのマイカなら、木の棒と言ったら騎士の剣代わりだったのだけれど、今は違う。
木の棒で庭の土にせっせと何やら書いている。そして、その脇に抱えているのは、教会から借りて来た紙束だ。
あの紙束は、アッシュ君が文字を覚える時に使っていた、とマイカがすごく自慢していた。
なぜマイカが自慢するのか?
不思議に思う一方で、わかりきったことだと答える自分もいる。
マイカがアッシュ君を好きになったから。それ以外のなにも必要としない不思議。
「た~、ま~……え~! よし、できたぁ!」
とうとう書き終わったらしい。マイカが両手を腰に当てて吠えた。
それから紙束を開くと、地面の文字と何度も見比べ、頷く度に笑顔が眩しくなっていく。
「お母さん、お母さん! ちょっとこれ見て! 読める? ねえ、読めるよねっ」
可愛い娘に呼ばれて、洗濯物の手を止めて、娘のお勉強の成果を確かめに行く。
地面には、ちょっと形が悪いけれども、それとわかる文字が書かれているので、声に出して読み上げる。
「逞しき狼神、賢き猿神、猛き竜神。その大いなる力を今日も与えたまえ」
最後まで読んで笑いかけると、マイカは輝くような笑顔で両手を振り上げた。
「やったー! 今度こそどこも間違っていないよね!」
「ええ、ばっちりよ。どれもちゃんと読めるように書けているわ」
この短期間で、ものすごい上達だ。
流石はわたしとクラインの娘、やっぱり王国一だった。
「えへへ、まだこの一文で使う文字だけだけどね」
「アッシュ君とのお勉強を始めたばかりでこれなら十分よ」
その前のお勉強の進むペースを考えたら、本当にすごい。
わたしがなにも言わなくても、暇を見つけると紙束を開いて聖句を読んで、わからないことがあると聞きに来るんだもの。
勉強が嫌いだと言って俯いていたのが、嘘のよう。
「ここまでできました、って教えれば、きっとアッシュ君もすごいって褒めてくれるわね」
「えへへ、そうかなー?」
蕩けるような娘の笑みに、わたしもつい頬が緩む。
アッシュ君がために苦手に思っていた勉強も、今やアッシュ君のおかげで苦にならないようだ。
恋ってそういうものなのよね。
その種一つで、世界の全てを覆いつくしてしまえるほど大きな花になる。
これから、この子はあっという間に大人になって、綺麗になっていくのだろう。
そう思って、嬉しいはずの娘の成長に、寂しさを覚える。
お転婆ややんちゃなこの子の姿が見られなくなると思うと、もっと見たいと惜しくなる。
あれほど口うるさく説教をして、不安ばかりか苛立ちすら感じていたはずなのに……親なんて身勝手なものね。
自分に苦笑しながら洗濯物に戻ると、マイカがまた地面に同じ文字を書き始めた。さっきよりもすらすらと書けているのがわかる。
「マイカ、休憩する?」
「まだ平気~!」
誘いをかけても、こっちを見もしないでお勉強している。
わたしの可愛い娘は、アッシュ君にすっかり奪われてしまったみたい。ちょっとだけ、妬けてしまう。
素敵な恋の種を手に入れたわね。
これからしばらく、それがあなたにとって一番の悩みの種になるでしょう。
おめでとう、マイカ。




