見送る背中1
【灰の底 父ダビドの断章】
ユイカ様が朗読会を開いて下さった翌朝、アッシュは子供らしく家を飛び出して行った。
「なんだか、アッシュの雰囲気が変わったな?」
思わず俺が呟いたのも無理はない。
子供らしく。あのアッシュが、子供らしく飛び出して行ったのだ。
物心ついてから、こんなアッシュは見たことがない。
正直、顎が外れるかと思った。だというのに、シェバは物足りなそうに頬に手を添えて苦笑している。
「もう少し、年頃らしく振る舞ってくれてもいいんだけれどね」
「いや、滅茶苦茶子供っぽかったと思うぞ?」
「本当に子供っぽかったら、朝食の後片付けをして、お洗濯を手伝って、お昼ご飯の手伝いを確認した上に、行き先を告げてから行ったりしないわ」
確かに、俺が子供の頃は一度もしたことないかもしれねえな。
朝飯を食べたら捕まる前にダッシュする。
「いやでも、あんなアッシュは見たことないぞ?」
「そうね。昨日の朗読会が楽しかったみたい。自分も本を読みたいから勉強をするんだって」
「勉強? そんな面倒臭いことしなくたっデグゥ!?」
わ、脇腹、脇腹に、妻の肘が突き刺さって……!
「あなた? せっかく明るくなったアッシュに、水を差したりしないわよね?」
「お゛う゛、ぎを、づげる……」
肘を刺されたくねえからな……。
「いいじゃない。読み書き計算ができたら村でも一目置かれるし、ユイカ様の紹介で都市に行って働くこともできるかもしれないもの」
「そ、そうかぁ? そんな小難しいことできなくっても畑仕事はできるぞ?」
いやまあ、それが悪いとは言わないぞ。
勉強だなんて気味の悪いことをしたがる気持ちが、さっぱり理解できねえってだけで。
あと、都市に行けなかった自分の無念が、チクチクと刺激されるだけで。
「でも、なんでまたいきなり」
「だから、昨日の朗読会が楽しかったみたいなのよ」
シェバは、機嫌よさそうに笑う。
さっき、肘を突き刺した時の冷たい眼差しが嘘のようだ。
「朗読会、ねえ」
「そうよ。ユイカ様にお礼に行かないと、アッシュが元気になりましたって」
それくらいで元気になるもんなのか。俺がいくら遊びに連れ出しても、なんの収穫もなかったのに。
父親は俺なのに、ちょっと面白くねえなぁ。
「ところで、ダビド」
「んぁ? なんだ、シェバ。ていうか、ダビドっつったか?」
最近は、「あなた」と呼ぶのが板について来たのに、久しぶりだな、名前で呼ばれるのは。
「昨日のお酒は美味しかった?」
「そりゃもう!」
やっぱり男同士で酒を飲むのは楽しい。
特に昨夜は、こっそりと買っておいたとっておきの酒があったからな。へっへっへ、シェバには内緒だぜ。
「そう、よかったわね。クイドさんから買ったお酒は当たりだったみたいね」
「ああ、蜂蜜酒なんて久しぶりに呑んだからな! また養蜂屋がこの村に現れてくれれば……」
……今、なんて?
恐る恐る隣を見れば、シェバは笑っていた。俺の惚れた女の笑顔だ。
だが、命が惜しくば逆らうなという力を感じる。
バ、バカな!
気づかれないように酒は他の家に預かってもらったっていうのに、どうしてバレた!
驚愕する俺に、木桶が手渡される。
「井戸の水汲み、しばらくお願いしていいかしら」
「し、しばらくって、どれくらい……?」
尋ね返すと、シェバは笑った。
おかしなことを言うのね、と口元に手を当てて、くすくす笑う。
「しばらくは、しばらくよ?」
「……はい」
一日や二日じゃ済まねえな、これ……。
「美味しいお酒を飲んで楽しんだんだから、お仕事たくさんがんばれるわね、ダビド?」
井戸汲みの一つや二つでも済まねえな、これ……!
くそぉ、俺は父親だっていうのに、こんな情けないところをアッシュに見られたら!
「しっかりお願いね、あなた。アッシュがあれだけ元気になったんだから、ますます父親の役目は大きいわよ。働く大人の背中っていうのを見せてあげてね」
……なるほど?
確かに、アッシュが子供らしく走り回るようになったら、止めるのは男親の方がいいな。子供ってのは意外と力があるからな。
「よっしゃ、任せとけ! とりあえず水汲みだな? 父親のパワーを見せてやるぜ!」
「ええ、とっても素敵よ、あなた」
そうだろう? やっぱり働く男ってのはモテるもんなんだよ。
これをアッシュにも教えてやらねえとな。あいつも結構モテてはいるが、それに胡坐をかいてちゃいけねえんだよ。
本当にモテる男っていうのは、夫や父親にした時に頼りになるかどうかなんだ。
顔なんて二の次だ。
****
アッシュが、怠け者になってしまった。
あいつが教会に行って紙の束を持ち帰ってから、あれだけ家事の手伝いをしてくれていたアッシュが、空いた時間全てをその紙の束を眺めることに使い始めたのだ。
「なあ、シェバよ、これは不味いんじゃねえか?」
「あら、どうして?」
「いや、だって、どこからどう見ても怠け癖がつき始めているぞ」
「しっかりお勉強しているじゃないの。それよりあなた、アッシュを見習って自分の洗濯物を洗い場にまとめておくくらいはしてね?」
あ、はい。
「いやいや、そうじゃなくて、アッシュのことだって。このままじゃ、あいつにいい嫁なんて見つからないぞ」
「大丈夫よ、あの子ったら人気だもの。最近は、勉強しているところがますます大人っぽいって、ユイカ様まで褒めてるくらいよ? マイカちゃんも、家でアッシュのこと話しているって」
え、それ、もしかして、マイカちゃんがうちの息子を気にしているってこと?
しかも、ユイカ様も認めている節がある?
そういうことだよな。年頃の男女がいる家同士、親がそういう話をするということは。
「なんでだ?」
「なんでもなにも、アッシュはいい子だもの。わたし達の自慢の息子よ。そうでしょう?」
「ん、うん、そうだな。もちろんだぞ」
いや、でも、なんでだ?
俺が知っているモテる男とイメージが違う。もっとこう、喧嘩して強さを見せて、畑でバリバリ働いて、威勢よく笑うのが男ってものだろう。
あんな黙ってじっとしていて、なんで人気が出るんだ?
「心配しなくても、アッシュは十分働いているわよ。自分の小さい頃と比べてみなさい」
「そりゃお前……。そりゃあ……うん」
あいつサボったりはしないからな。
言われたことはちゃんとやるし、手を抜いている――ように見えることも多いのだが、最後に確認すると問題なくやり終えている。
その点、俺は手伝いからも逃げてたし、やる時も手抜きと手落ちが多かった。
「そういうことよ。アッシュは真面目ないい子だから、人気もあるの」
「そ、そうか?」
「ええ、あなたの息子だもの。仕事ができる男は違うわね」
「そ、そうだな!」
なんだかんだと、俺の影響があるなら安心――いやいや、納得ができるというものだ。
しかし、勉強とやらを始めてから、アッシュとますます話が噛み合わなくなってきた。
以前はもうちょっと話ができていたんだが、アッシュが夢中になって紙の束を読んでいるから、俺に話しかけて来なくなったんだよな。
やっぱり、文字ばっかり読んでいちゃダメなんじゃねえかな?
「そう思うなら、ご飯の時にでもあの子に話しかけたらいいじゃない。流石に、あの子も家族時間であるご飯中に別なことをするような行儀の悪いことをしてはいないわ」
「いや、だって、なにを話していいかわからねえし……」
あいつから話しかけてくれないと、きっかけが掴めねえんだよ。
シェバの目に、呆れが浮かんだのがよくわかった。




