伝説前夜5
「朗読会、ですか?」
夕食の席、わたしの言葉にアッシュが首を傾げる。
我が子ながら――我が子だから、かしら?――可愛い所作だ。
普段大人びている分、子供らしい仕草をされると、とても微笑ましい。
「ええ、そうよ。ユイカ様が、子供達を集めて物語を聞かせてくれるそうなの」
「ユイカさんがですか? 村長家の奥様が直々に?」
「ええ、字を読める人が他にいないから」
わたしが笑うと、アッシュも肩をすくめる仕草をする。
「なるほど、フォルケ神官がやるわけもないですからね。そうすると、クライン村長かユイカさんのどちらかしかありませんね」
そう言って笑う目が、少しだけ暗い。
字が読める人が少ない、というのも、アッシュにとっては将来が不安になるようなことなのだろうか。
「とにかく、そういうことだから、この後に出かけるわよ」
「わかりました。そうすると、村中の子供と母親が、今日はそんな感じなのですね」
そうだけれど、それがどうかしたのかしら。
「いえ、父さんとその飲み仲間が集まろうとこそこそ相談をしているはずだと思いまして」
その辺りについては大丈夫よ。
その分、畑仕事をがんばってもらうということで、妻仲間の意見は一致しているの。
「流石は母さん、しっかり把握していましたか。ということは、こっそり隠していたお酒がどうのこうのと言うのも知っていました?」
待って、アッシュ。
そのお話、集会所につくまで詳しく聞かせてもらっていいかしら。
ええ、集まった妻仲間と共有するから。
はあ!? クイドさんからお酒を買っていたって……なにやってんのよ、あいつ! バカじゃないの!?
……いけない。つい昔の言葉遣いが。
ユイカ様、ユイカ様を思い出すのよ。
まったく、ダビドといい男達と来たら!
お酒を飲むなとは言わないし、こういう機会に親睦を深めるのはいいことだけど、少ない収入でやりくりしているわたし達の身にもなって欲しいわ。
その点、アッシュは賢くていい子だから、本当に助かるわ。
お手伝いはしてくれるし、遊びに行っても食べ物を取って来てくれたりするし、こうしてダビドの悪事を教えてくれるし。
今度からもそういうお話は母さんに教えてね。
うん、ダビドより愛しているわよ、アッシュ。
そんなことをしているうちに、村の集会所についた。
もう何人かの親子が集まっていて、アッシュと同じ年頃の子達は、これからの楽しみに興奮していて、騒がしい。
妻仲間の皆もてこずっているようだ。目を輝かせている子供達を見れば、あまり強く叱る気も失せてしまうだろう。
「それでは、母さん。母さん達もお話があるでしょうから、私はあちらで皆と一緒にいますね」
「ええ。行ってらっしゃい」
察しがよくて助かるわ。
アッシュを送り出すと、早速アッシュに懐いている年下の子――女の子が多いのが、母親としてはちょっと複雑――を中心にグループが動いた。
「アッシュ兄、こんばんはー」
「はい、こんばんはー。今日はユイカさんがお話を聞かせてくれるそうですねー」
「そうなの、楽しみー!」
「本当ですねー。でも、あんまりはしゃいでいるとユイカさんがお話しづらいでしょうから、始まったら静かにしましょうねー。今から、その時の練習をしておきましょう。一番静かにできた子が勝ちですからねー」
「はーい」
んーっ、と口を閉じてアッシュが声を出すのを我慢する素振りをすると、真似をして口を閉じる子達。
ほんの少し静かになっただけで、何人かが笑いだす。
「はい、今声をだした子達の負けですねー」
「そんなー」
「もう一回! もう一回!」
アッシュは一人っ子だけど、すっかりお兄ちゃん役が板についているわね。
手が空いた妻仲間が、ほっとした顔でわたしの方に視線で感謝しているのがわかる。
わたしの手柄、という気は全然しないのだけれど、一応笑って頷いておく。
うちの子はすごいわね。
一体誰に似たのかしら。
ダビドよりはわたしに似ているだろう。
読み書きこそできないけれど、簡単な計算ならできるもの。
ユイカ様に憧れて、言葉遣いや態度もちょっとしたものだし、きっとわたしのそういう努力を見てくれていたのね。
アッシュの振る舞いに、少し誇らしい気持ちになり、一方で不安になる。
他の子達と比べるわけではないけれど、大人びたアッシュが、物語を聞かされるくらいで元気になるのだろうか。
わたしの心中に滲みだした不安のように、集会所に差しこむ夕暮れの光も、薄暗くなっていく。
そこに――
「それじゃあ、そろそろ始めましょうか」
蝋燭に火を灯して、ユイカ様が現れた。
「皆、秋の収穫、大変だったわね。お疲れ様でした。今日くらいはお仕事を忘れて、秋の夜長を少しばかり楽しみましょう」
やっぱり、ユイカ様は綺麗ね。
同じ女から見ても、所作の一つ一つが綺麗で、声がするりと胸に入りこんでくるように心地いい。
そして、蝋燭の揺らめく灯りに照れされた顔は、神秘的ですらある。
ユイカ様の指が、楽器を奏でるように、本のページを開いた。
紙の擦れる音色を伴奏に、物語が紡がれる。
「これは、むかし、むかしのこと。まだ、この国ができる前のお話よ」
一瞬、ユイカ様の眼差しが、アッシュに向けられていた。
その目には、蝋燭の火が映りこんでいて、まるで優しく燃える灯火のように、光っていた。
****
ユイカ様の朗読会は、大盛り上がりで終わった。
ただ、アッシュはずっと静かだった。お話の間も、もう一回と他の子達がせがむ間も、そして今も。
やっぱり、ダメだったかしら。
落ちこみそうになる気持ちを、いいえ、と奮い立たせる。
これからはユイカ様の助けも期待できるのだもの。これで落胆するのはまだ早い。
ユイカ様も、気晴らしになれば、ということだったのだから、まだまだこれからよ。
わたしは一人頷いて、家までの帰り道にすっかり居座っている夜闇を、松明を掲げて追い散らす。
「母さん」
朗読会から、初めてアッシュが口を開いた。
「教会には、本があるんでしたよね?」
「ええ、あるわよ。神官さんは、その本の管理のためにいらっしゃるから」
もっとも、村人が本を読むことはないし、フォルケ神官もやる気がないから、教会の中で本がどうなっているかはわたしも知らないけれど。
「そうですか。そうですよね。教会は、教育施設でもあるんですよね」
「アッシュ?」
この子、どこかおかしい。
声音が違う。
いつもの穏やかなアッシュの声じゃない。かといって、暗い目の時の声でもない。
薪を貪る火のような、熱に揺らめく浮かれた声。
「母さん、明日、ちょっと教会に行ってきます」
「それは、いいけれど……アッシュ?」
期待している自分がいる。
我が子の変化に、ひょっとしたら、という期待をしてしまう。
繋いだ手の先、見上げて来るアッシュの顔には、笑みがあった。
「明日から、私、読み書きの勉強をしますね」
ただの笑みではない。
穏やかというには獰猛な、触れ難い高温を帯びた炭のような笑みだ。
なにより、その目に、火が燃えていた。
事実、松明の火が映りこんで、燃えて見えるのだ。
ただの偶然だろう。そうに違いない。
でも、あれだけ暗かった目が燃えているのは、奇跡にしか思えなかった。
「そう、勉強は、とてもいいことだと思うわ。本を読みたいの?」
今日なにがあったかを考えれば、突然こんなことを言い出した理由もわかる。
案の定、アッシュは力強く頷いた。
「はい! とても楽しかったですから!」
「そう、よかったわ。本当に……よかった」
あなたが、こんなに明るく笑ってくれて、本当によかった。
少し、信じられないくらい。思わず、確かめるように抱きしめてしまう。
「勉強、がんばってね。大変かもしれないけど、母さんも応援するから」
「ええ、ばっちりがんばりますよ、お任せ下さい!」
答えるアッシュは、温かい。
晩秋の、冬を呼ぶ冷たい風も気にならないくらい。
「ええ、そうね。あなたならできるわ。絶対に、できる」
あなたの名前は、アッシュだもの。
その内に抱いた温もりは、痛いほど寒い日の、苦しいほど永い夜にだって、決して奪えはしないわ。
だから、あなたは大丈夫――そう願い、そう信じている。
親というのは、子供に大きすぎる想いを抱く。
そういうものでしょう?




