伝説前夜1
【母シェバの断章】
目が覚めたら、深い夜の底だった。
体が重い。
まるで夜の暗がりが、全身に圧しかかっているように体に力が入らない。
振り絞るように漏らした吐息が、夜の中で白く色づいて消える。
寒い。
冬の夜が持つ、刺すような冷たさに再び吐息が漏れて、夜が少しだけ白く染まる。
それをぼんやりと眺めているうちに、目が暗闇に慣れて来た。
わたしが眠るベッドの脇、夫のダビドが椅子に座ったまま力尽きたように眠っている。
ダビドの右腕は、ベッドの横の揺り篭にかけられていて、覆いかぶさるように、あるいは守るようにして、眠っている。
ああ、そうか。そうだったわね。
体が重いのも当然。
昨日の朝に産気づいた私は、陽が沈んだ後にようやく我が子を産んで、初乳を与えて……記憶はそこまで。
きっと、そこで眠ってしまったのだろう。
寒い、寒い冬の夜明け前、目が覚めたわたしは、自分が母であることを自覚した。
「あなた……」
小さな声で、ダビドに呼びかける。
あなた、眠るのは仕方ないけれど――なにせわたし以上に大騒ぎして産婆やお産の手伝いに来た妻仲間に蹴りだされたくらいだ――いびきは抑えて。
わたし達の赤ん坊が起きてしまう。
「あなた……ねえ、あなたってば……」
困った人だ。夫として呼ばれるのに、まだ慣れていないみたい。
「ダビド、起きて」
名前を呼ぶと、ようやくいびきが止まった。
「むご、おぁ……? あ、いけね、寝てた……」
「風邪をひかないでよ、ダビド。まだこれからが大変なんだから」
「す、すまん。気を張ってたつもりなんだけど……これじゃいかんな」
叱られた馬のようにうな垂れたダビドは、パチンと頬を叩く。
頭を抱える。
バカ、眠気覚ましと気合を入れるためなのだろうけれど、そんな音を立てたら……。
「よしっ、俺ももうガキじゃないん――」
案の定、ダビドの勢いこんだ言葉の途中で、赤ん坊の泣き声が響いた。
「おぅわわ!? 俺か? 俺のせいだな? す、すまんすまん、よーしよーし、悪かった、俺が悪かった!」
慌てて揺り篭から赤ん坊を抱きあげてあやすが、寝ているところをいきなり大きな音で起こされたわたし達の子は、とても怒ってしまったようで、ますます声を大きく張って泣く。
元気な子ね。
「ダビド、交代よ」
「お、おう、頼む、すまん。ほーら、母さんだぞぉ」
顔一杯に申し訳なさを浮かべたダビドから我が子を受け取って、胸に抱く。
温かい。
冬の寒さの中では、心地良い赤ん坊の体温。
「よしよし、なにはともあれ、元気で嬉しいわ」
「まあ、確かにうるさいくらい元気だけどよ」
無事にこの子は生まれてくれたのだ。
ひとまずは、それで十分。贅沢は言わないわ。
「でも、よりにもよってこんな寒い日に生まれてくるなんてね」
「しかも、冬至だしな。お日様もあっという間に沈んじまったから、暗い中で産湯に入れるのも大変だったよ。村長が蝋燭を差し入れてくれて助かった」
「皆に迷惑をかけちゃったわね。もうちょっと素直に生まれて来てくれてもよかったのに」
その日のうちに終わったのだから、お産の中では特別長いというわけではないけれど、昼間のうちに生まれてくれてもよかったのよ?
贅沢を言わせてもらえればね。
「村長さんにもお礼を言わないと。ユイカ様の方は、大丈夫かしら?」
ユイカ様とわたしは同時期に妊娠したようなので、あちらもそろそろ生まれてもおかしくないはずだ。
「まだ生まれてはないらしいけどな。流石のクラインさんもそわそわしていた感じだ」
「妊娠した奥様と顔を合わせられないんだもの。あれだけ仲が良いのだし、余計に辛いでしょうね」
ユイカ様は、出産に備えて領都の実家に帰られたから、村長のクラインさんはさぞ落ち着かないでしょうね。
いつも剣の鍛錬を欠かさない人だけれど、近頃は明らかに剣を振る回数が多い。
「すぐそばにいても心配でたまらねえしなぁ。いや、すぐそばにいても、俺がなんか役に立ったわけじゃないんだけどさ」
「そんなことないわ」
そばにいてくれて心強かったし、蹴りだされた時は面白かったから、苦しいお産の間に励み――というより、和みになった。
「そ、そうか。まあ、ちょっとでもシェバの力になれてたんなら……」
「ええ、ありがとう、ダビド」
そんな会話のうちに、腕の中の赤ん坊が静かになった。
「寝たか?」
「寝たわ。今度は、大きな音は出さないでよ?」
「はい。あの、ほんと、ごめんなさい」
わたしの手から赤ん坊を受け取って、ダビドは揺り篭にそっと寝かせる。
手を放す前にダビドは赤ん坊を一度、大事そうに撫でたようだった。
「名前、決めないとな。まだ少し早いか?」
「決めましょうよ。この子は生まれて来てくれたんだもの。泣いてあやす時に、呼びかけられないわ」
この村では、生まれる前の子供に名前をつける人は少ないし、生まれてすぐに名前をつける人も多くない。
内心では決めている人もいるのかもしれないけれど、それを口にするのは生まれた後、しばらく経ってからだ。
無事に生まれて、一歳になれないことも、多いから。
でも、この子は大丈夫だった。
なんで一番日が短い日に、とか。よりにもよって寒さの厳しい日に、とか。贅沢を考えさせてくれた。
「そうか。そうだな。どんな名前がいいだろうな。やっぱり、元気に育つような、縁起の良いやつにしないとな」
「そうね。寒い日の夜に生まれたから、温かさや灯りに苦労しないような、そんな名前はどうかしら」
「そりゃいい。流石シェバ、気が利くな」
ダビドと笑い合って、少しだけ考える。
温かくて、明るいもの。
「となると、やっぱりお日様とか星とか、そういうものか?」
「どうせなら太陽じゃないかしら。星だと夜のものだもの」
ああ、でも、生まれたのは夜だから、星に関係したものというのもいいかもしれない。いえ、星だとあんまり温かい印象がないわね。
「他には、夏とか火とか……」
「竈とか蝋燭とか、そういう日常的なものもどうかしら」
「ああ、昔話によくある竈の精霊とか? ちょっと地味だな」
あらひどい。
竈の精霊は、空腹と凍え、それに火事からも守ってくれる善良な精霊なのに。
ああでもないこうでもないと、夫婦で話し合っているうちに、鳥の鳴き声がぽつり、ぽつりと聞こえて来る。
いつの間にか、夜が薄まり、白んだ光が家の隙間から差しこんでいた。
「もう夜が明けるのね」
「みたいだな。とりあえず、朝飯にしよう。スープをもらってあるんだ。シェバが起きたら食べさせろって言われてて」
ダビドが竈に歩み寄って、火掻き棒で灰をかき混ぜる。
灰の中から出て来たのは、まだ熱を残した炭だ。昨夜の産湯を温めた時に火をつけた炭に、灰をかぶせて埋火にしておいたのだろう。
灰の中なら、寒い冬でも翌朝まで、炭は熱を保つ。
転がり出た熱い炭の上に、ダビドが麦わらを置いて、薪を組み上げる。
閉ざした窓や戸の隙間から伸びる太陽の光が、濃く、強くなっていく。
緩やかに流れる、寒い夜明けの時間。
一夜を越えた炭火は、麦わらに煙を上げ、ついには朱色の炎を灯す。
その光景、その事実が、妙に温かい。
「灰、か……」
かつて火であったもの、火の後に残るもの、火を抱くもの。
いいかもしれない。
「ねえ、ダビド。子供の名前、灰はどうかしら?」
「アッシュ?」
ダビドは、わたしの方を見てから、ぱちぱちと音を立て始めた竈に視線を戻す。
そこにたっぷり溜まった灰を指さして、これか、と首を傾げる。
そう、それよ。
「地味だなぁ。大丈夫か?」
「派手ならいい、というものじゃないでしょ?」
こんな寒い日、長い夜に生まれた子なんだもの。
地味でもきちんと守ってくれそうな名前がいいわ。
「この子の人生が、春や秋のように恵まれたものとは限らない。こんな田舎だし、つらいことや苦しいことがたくさんあると思うの」
そんなこの子に、長く厳しい夜を越えて、火を繋ぐことのできる灰はとても縁起が良い。
抱いた時に感じたこの子の温もりが、どうか凍える夜に消えてしまいませんように。
誰もが待ちわびた夜明けに、冷え切った体を温ためるための火を失いませんように。
「熱い火種を守り抱く。そういう願いをこめた灰――どうかしら?」
「地味だと思うぞ、俺は」
ダビドの声は、からかうようではあったが、拒む音色は含まれていなかった。
「まあ、でも……灰なしで埋火はできないからなぁ」
「それじゃあ?」
「うん。俺達の子はアッシュだ。地味でも元気に育ってもらおう」
地味なことにこだわるわね。思わず笑ってしまう。
まあ、ダビドもついこの前まで、無謀な夢を口にする少年だったものね。
領都に行って騎士になる、とか。ダビドくらいの年の男の子は、皆そういうことを夢に見ている。
ダビドは、わたしの妊娠がわかってからそういうことを口にしなくなったけれど。
「俺も、がんばるよ」
竈の火で鍋を温めながら、ダビドが呟いた。
「俺、頭悪いから、お前にもアッシュにも楽をさせてやれないかもしれないけど……これが親父の背中だと胸を張れるよう、しっかりする」
「うん、確かに聞いたわよ、あなた?」
その通りにしっかりがんばってもらうからね。
キラキラした目で、都市に行って一旗揚げる、なんて話すあなたも可愛かったけれど、今はもうわたしの夫で、アッシュの父親なんだから、格好よくしてくれないとね。
「頼りにしているわ、あなた」
「おう! 任せておけ!」
「あなた、声……」
赤ん坊が――アッシュが、またダビドの声で泣きだしてしまった。
あなたが立派な父親として胸を張れる日は、まだしばらく先になりそうね。
あやそうと抱き上げたアッシュは温かく、寒い朝の空気に負けない熱を持っていた。




