再生の炎15
その後、飛竜型はく製は、もう二度ほど水に濡れることとなった。
流石に二度目からは王都に見に行く手間が惜しかったので、報告を聞いただけで済ませている。
「なんであんなことになったんだか、俺には理解できないんだが……」
ヘルメス君がしきりに首を傾げるので、私はいくらか歴史を知る者として推論を述べてみた。
「恐らくですが、科学的手法という考えに対して、根本的な認識が欠如しているのでしょう」
「科学的手法?」
考え方は色々あるけれど、と私は前置きをする。
「ある人物がボールを投げました」
「ふん?」
「ボールは百メートル飛びました」
「うん」
「じゃあ、ボールは誰が投げても百メートル飛びますよね?」
「いやいやいや、そうはならないだろ。風向きとか、投げる強さとか……相当ばらつきが出るだろ。ていうか、今の言い方だと、ボール自体、同じものだって言われてないな?」
おお、そこに気づくとは流石はヘルメス君。理屈っぽいですね。
「ええ、そうです。投げたボールが百メートル飛んだ、という現象には、様々な要素が絡んでいます。投げた人物の筋力、投げ方、ボールが受ける空気抵抗、仮に同じボールを使ったとしても、投げられる度に形や質量が変わる可能性がありますよね」
「うん。屋外でやっていたら、最初に百メートル投げた時の完全な再現は難しいだろうな」
「では、ある人物があるボールを百メートル飛ばせるかどうか、を証明する必要ができたら、ヘルメスさんならどうします?」
そうだな、とヘルメス君はさして悩まずに応える。
「理想を言えば、でかい建物を建てて、まず余計な風の影響を少なくする。それから、同じ位置から何回もボールを投げさせる。で、一投ごとに何メートルを飛んだか計測……平均百メートル越えならよし、百メートル少し手前なら、風向きによってあるいはって言えそうだな?」
「ええ、そういう考え方になりますよね。この条件なら、こういう結論になります、という客観的な説明ができますよね」
その気になれば、他の人が再現できるというのが重要だ。
流石に、同じ人物を同じ条件で用意することは難しいが、二十代の成人男性とか、スポーツ経験者とか、そういった枠組みを作って、似た条件を用意することはできる。
これが科学的手法である。
「……当たり前じゃねえかな、この考え」
「そう思うでしょう?」
ところが、実はこれも中々高度な考え方のようなのだ。
仮説を立てるのは良いとして、実験を通して仮説の証明を行う、というプロセスは近代的な物の考え方だ。
近代以前にそれを行った人物はいても、学術分野で一般的な常識になることはなかった。
結果、思考をこねくり回した仮説が、定説として流布して、常識になってしまう。
病気の原因が四大属性で理解されていた社会はまだ可愛いもので、病気になった人がたまたま罪人だったから、この病気にかかっているものは全て罪人だなんて言論もまかり通るのだから恐ろしい。
で、多分、うちの研究所以外は、この科学的手法がよく理解されていない。
「王都の王子殿下は、きっとこう考えたのでしょう」
飛竜は空を飛べる。
なら、その姿を真似すれば空は飛べる。
だから、飛竜のはく製を、飛竜のように羽ばたかせれば空は飛べる。
「素晴らしく雑な理論だな。俺も飛竜はほとんど見たことないが、鳥とか蝙蝠とか、あいつらの飛び方は眼で追えないほど速くて緻密だぞ」
スローカメラとかあればもっと感動できると思いますよ。
飛行生物にある種の神秘を信じたくなることもある。
「あの複雑な動きを再現しようとすると、複葉機を作る以上に技術が必要ですよ」
「それを生身でやってるからすごいよな。ああいう風に飛べたら、気持ち良いだろうなぁ」
ヘルメス君の視線の先、向かい風を捉えて上空に居座っていた鷹が、獲物の小鳥を見つけて追い回し始めた。
逃げる小鳥も、追う鷹も、今の私達には手の届かない航空力学の粋を尽くして空を舞う。
「まあ、流石にあれはいきなりすぎる。まず俺達は、空に浮かぶことから始めないとな」
ヘルメス君の目が、地上へと戻って来る。
領都近郊、試験畑の向こうに用意された試験〝飛行場〟は、大勢の人でごった返していた。
その喧噪は、離れた私達のところまで届くほどだ。
「あれ、あの形、きっとそうですよね?」
「間違いないよ、模型と一緒だ!」
「でもずっと大きい。すごい迫力だ」
人々は、市民もいれば村民も、難民もいる。
領外からわざわざやって来た人々も多い。
「今日はあくまで実験機の試験飛行であって、正式なお披露目については未定なんだけどなぁ」
ヘルメス君は苦言を呈するかのような言葉を口にするが、とても嬉しそうだ。
今、この場にいる人々は、飛行機が飛ぶ姿を目撃するために集まっているのだ。
正式な招待など誰もしていないのに、衛兵を動員して立ち入り制限をしなければならないほどのにぎわいだ。
たった十年前、人が空を飛ぶなんて夢物語だと思われていたのに、今や人々はそれが現実になると信じている。
観衆の期待の眼差しに、準備のために駆け回っている所員の皆さんの動きが一段ときびきびし出す。
張り切る所員達をはべらせ、自分こそがこの飛行場の王であると君臨しているのは、我が研究所の最新成果、星形エンジン動力のプロペラ飛行機だ。
見た目は、まだまだ模型なのではと不安になるほどシンプルだ。
木製の骨に、丁寧に張られた布が作る、複葉式の翼。これを鳥に例えれば、骸骨の鳥だと言われても仕方がない。
しかし、その腹に五十頭の馬に匹敵する力を抱えこんだ、正真正銘、生きた鳥なのだ。
その心臓は鋼と鋳鉄で作られ、エタノールを燃焼させて脈動する五気筒星形エンジン。
小型ではあるが、五十馬力を発揮可能な力自慢である。
「じゃ、行ってくる。しっかり見てろよ、アッシュ」
誰より楽しそうな表情で、ヘルメス君が飛行機に駆け寄っていく。
エンジンの始動役を、彼は誰にも譲らないつもりなのだ。
ヘルメス君自慢のエンジンは、造物主の愛情に満ちた手によって始動した。
試作一号機の運転の時は、危うくヘルメス君ごと天国まで飛んで行きそうになったエンジンが、今日は快調に歌声を上げる。
各所員から、続々と準備完了の声が届けられる。
どの報告も、明るい希望へ満ちて弾んだものだ。集まった人々は、その度に、訳もわからないだろうに歓声を上げる。
これから何が起きるのか。これから自分達は何を目撃できるのか。
私は、関係者の、そして集まった人々の表情を見渡して、皆の気持ちは同じであると確信した。
「さあ、とびきりの感動を、皆さんで味わいましょう」
宝物を自慢する高揚感が、胸の内をくすぐってたまらない。
星形エンジンの奏でるピストン音が速く強くなる。
クランクシャフトの回転音が忙しなくなり、プロペラの風切り音へと変わっていく。
肉体労働担当の所員が、飛行機を掛け声とともに押し出す。
飛行機の車輪が、人力と機力を併せて、敷かれたレールの上を加速して行く。
この季節、この平野を飛んで行く風が、誘うように人造の翼へと吹きつけた。
行け、と誰かが言った。
飛べだろ、と誰かが笑った。
そのどちらの声も、次の瞬間にはそろって叫んだ。
飛べ! 飛んでけ!
無論、そのために造られた翼は、言われるまでもなくそのつもりだった。
正面から吹きつける風、己のプロペラで手繰り寄せる風、己の翼を押してくれる人の手。
それらが全て、空へと向かう力になる。
あるいは、最後の力だけは、その場にあるものだけではなかったかもしれない。
研究所に籍を置く、全ての所員の手。
研究に没頭する所員を支えた、全ての者達の手。
あの翼の形を伝えた書物を守って来た手。
その書物を書き上げた手。
書物になる前に夢を叶えようとした手。
無数の手、名もなき手が、今あそこで翼を押している。
飛べよと力を添えている。
レールを走っていた車輪の音が消える。
無数の手に支えられた翼が、その手の先から離れていく。
もう自分は大丈夫だと、これ以上助けてもらわなくとも、後は自分の力で行けると、翼が数多の手を振り切っていく。
空を、飛んで行く。
無数の手が、飛行機に向かって手を振っている。
自分達が造りあげてきたもの、積み重ねてきたもの、それを受け取って先へと進んで行くものに、手を振っている。
どれもこれも、誰も彼も、満足そうに笑っている。
その中に混じる、知るはずのない過去の人々が、私にだけは見えている。
時の流れの中に埋もれ、消えてしまうはずだったものを、ほんのわずかで良い、残して繋ぐために戦った人々だ。
壮大で崇高な、高貴でいて絢爛な、騒々しくも静謐な、何より心弾む戦いに挑んだ人々だ。
あの手の一つ一つが、時の流れの中に飛びこんで、知識を掲げて次の手に託すことで、今この時を作った人々の幻だ。
皆、皆、私の尊敬すべき先輩――そんな彼等が、ふと私の方を振り向いた。
一人として私の知る顔はない。だから、誰も彼も顔がない。
でも、私は彼等を全て知っていた。
一人が、自分達が持っていた本を軽く掲げると、私に手渡してきた。
何の本だろう。
いや、本なんてあるはずがない。
その証拠に、手の上には何もない。
彼等は私が見た幻で、本当には存在しなくて……でも、私は、彼を知っていた。
この本を知っていた。
今の私は、ただそれを忘れているだけだ。
思い出せない記憶に私が戸惑っていると、また別な一人が、私に本を手渡してきた。
次々、次々と本を手渡される。
ああ、知っている。全部知っている。皆知っている。
私は、確かに、この本を託されていたのだ。彼等から託されていたのだ。
だから、この本を託されたから、私は、古代文明の知識を取り戻さなければいけなくて……。
最後の一人が、私に本を手渡した。
知っている、私は貴方を知っている。でも、思い出せない。
ごめんなさい。私は大事なことを忘れている。
幻が薄れていく。
過去が消えていく。
私の記憶の断片が、白紙の上を滑っていく。
『悲しまなくて良い』
忘却の過去から、声が届く。
『本は、そこに残しているから』
過去の手が、本を受け取り続けた私の手を指さす。
本の形を崩した光が、私の手の中へと吸いこまれていった。




